第114話 職員会議・冬の終わり
三月第一週の夕刻、東京探索者学院の廊下には、春休み前の浮き立つ空気が流れていた。
対人戦が終わってから数日が経っている。演武場の仮設障害物は撤去され、掲示板に貼られていた対戦表も、いつの間にか一枚だけに減っていた。最終順位と表彰式の日程だけが淡々と記されている。
優勝、1組第5班。
何度見ても、まだどこか他人事のように見えた。
蒼真は職員室前で一度足を止め、弓袋を左手に持ち替えた。
放課後の自主練帰りで、指先にはまだ弦の感触が残っている。
今日も百射。
決勝戦の後だからといって、矢を引く理由が減るわけではなかった。
扉を軽く叩くと、中から後藤の声が返ってきた。
「入れ」
「失礼します」
職員室の中は、いつもより紙の匂いが濃かった。
年度末の成績処理だろう。
机の上にファイルを積み、キーボードを叩く。赤ペンを走らせる教員たちの動きが、どこか忙しない。
後藤の机だけは、忙しいのか忙しくないのか分からない散らかり方をしていた。
ファイルが三冊、出席簿が一冊、空の缶コーヒーが一本。
灰皿は置いていない。
学院内禁煙の貼り紙が、机の端で妙に主張している。
「神代、そこ座れ。長くは取らない」
「はい」
蒼真は机の横の椅子に腰を下ろした。弓袋を膝の横に立てる。後藤はファイルの一番上を開き、眼鏡を掛け直した。
「対人戦、ご苦労だった」
「ありがとうございます」
「優勝した生徒に最初に言う台詞としては、もっと気の利いたものを用意しておくべきだったんだがな。年度末の書類に気の利いた台詞を全部吸われた」
「書類って、台詞を吸うんですか?」
「吸う。特に年度末の書類はよく吸う。煙草より性質が悪い」
隣の机の藤村が、資料から目を上げずに言った。
「先生、年度末の書類に失礼です」
「藤村、俺の味方をしろ」
「書類の味方です。提出期限を守ってくれるなら先生の味方もします」
「教師になって一番怖いのは魔物じゃなくて若手の正論だな」
後藤が肩を落とす。蒼真は思わず口元を緩めた。
こういうやりとりを聞くと、決勝戦の後でも日常は普通に続いているのだと思う。
演武場の銅鑼の音も、観客席の揺れも夢ではなかった。竹井と握った手の汗も、確かに残っている。
それでも、目の前の職員室には缶コーヒーがある。書類があり、後藤のぼやきがある。
後藤は軽く咳払いして、ファイルを一枚めくった。
「冗談はこの辺にしておく。神代、今夜の職員会議がある」
「はい」
「お前のことが議題に上がる」
蒼真は、膝の上で右手を握った。
対人戦で優勝した。第3層のイレギュラー対応でも評価は受けた。《小転移》の登録も済ませた。自分の一年が何かの評価対象になること自体は、予想していなかったわけではない。
それでも、職員会議という言葉になると、自然と背筋が伸びた。
「俺のこと、ですか」
「そうだ。年度末評価だな。細かい中身は、今ここで俺から話すことじゃない。決まったら、決まった形で伝える」
「分かりました」
「緊張するか?」
「します」
即答すると、後藤が小さく笑った。
「そこは正直でよろしい」
「でも、俺が今できることって、もうないですよね」
「ない。だから、今日は帰って飯を食って寝ろ。明日も訓練するなら、手首を冷やしすぎるな。決勝後に気が抜けて怪我するやつは毎年いる」
「気をつけます」
「それから」
後藤がファイルを閉じた。目元の緩さが消える。
「優勝したから終わりと思うな。お前の悪い癖は、終わった瞬間に次の矢を探すところだ。その癖は探索者としては悪くない。ただ、身体はついてこない時がある。そこだけ忘れるな」
蒼真は返事をする前に、自分の右手の親指を見た。弽の革に当たる場所。決勝の最後、曲弦射を放った瞬間に熱を持った場所だ。
「忘れません。たぶん、悠斗たちにも言われます」
「言われるうちは大丈夫だ。言われなくなったら危ない」
「それ、先生にも当てはまりませんか」
藤村が紙をめくった。
「当てはまりますね」
「お前ら、妙に連携がいいな」
後藤が苦い顔をした。蒼真は笑いを噛み殺して立ち上がる。
「ありがとうございました」
「おう。帰れ。職員室に長居すると年度末の空気が移るぞ」
「それは嫌です」
「俺も嫌だ」
後藤の机の上で、未処理の書類が一枚、軽く浮いた。
窓の隙間から入った風のせいだ。
後藤はそれを指で押さえ、蒼真に片手を振った。
蒼真はもう一度頭を下げて、職員室を出た。
◇
渡り廊下に出ると、夕方の光が校舎のガラスに淡く反射していた。
三月の風はまだ冷たい。けれど、二月の朝の演武場で吸った空気とは少し違っていた。冷たさの奥に、湿った土の匂いが混じっている。
蒼真は弓袋を肩に掛け直し、ゆっくり歩き出した。
職員会議。
年度末評価。
後藤はそれ以上を言わなかった。蒼真も聞かなかった。聞いたところで、今夜の会議の中身が変わるわけではない。
廊下の向こうから、一人の女子生徒が歩いてきた。
Sクラスのネームプレート。
胸元の徽章の色で分かる。
色白で、髪は肩の下あたりでまっすぐ揃っていた。
派手さはない。
けれど、歩き方に無駄が少なく、視線が足元に落ちすぎていない。
右手には、土色の細い腕輪のような装具が嵌められていた。魔法職の補助具だろう。杖ではなく、手首で魔力の流れを整える型。蒼真は授業で見たことがある程度だった。
目が合った。
相手が、短く会釈した。
蒼真も反射的に会釈を返す。
それだけだった。
すれ違った後、女子生徒の足音が少し遠ざかる。蒼真は振り返らなかった。Sクラスの生徒は多い。顔と名前が一致する相手の方が、まだ少ない。
ただ、すれ違った瞬間の空気だけが、記憶に残った。
春休み前の校舎には、これから何かが変わる直前の静けさがある。
蒼真はそれを、ただ年度末だからだと思った。
◇◆◇
同じ頃、職員室の奥の会議室では、年度末の職員会議が始まっていた。
長机を囲む教員たちの前には、学年ごとの評価資料が並んでいる。学年主任である二宮英治が議長席で資料を整え、視線を上げた。
「次に、一年生の年度末評価について確認します。1組担任、後藤先生。神代蒼真の件をお願いします」
後藤は椅子の背もたれから体を起こした。手元のファイルは開いているが、視線はほとんど落とさない。
「はい。1組第5班、神代蒼真について報告します。適性は弓術士です。入学時点では学院内唯一の弓術適性でした。正直に言えば運用側も扱いに困る部分がありました。俺も四月の段階では、こいつは三年間ずっと面倒を見ることになるなと覚悟しました。面倒を見る覚悟をした相手がこちらの覚悟より先に走っていくと担任はだいたい置いていかれます」
橋本が小さく息を漏らした。
「置いていかれた自覚はあるんですね」
「あります。膝に来るくらいには」
「まだ早いですよ」
「年度末の書類で膝に来る年齢になったんです」
二宮が咳払いした。後藤は片手を軽く上げて、本題に戻した。
「戦闘評価に入ります。前期実力試験の段階で、彼は弓術士の火力不足を班運用で補う判断を取りました。秋のイレギュラー対応では第3層の核個体討伐に関与しています。班長として撤退判断と交戦判断の両方を経験しました。特殊スキル《小転移》については協会公開登録済みです。隠し札として抱え込まず、登録した上で対策される側に回る選択を取りました」
榊原美樹が資料に視線を落とした。細い指が、神代蒼真の欄の横で止まる。
後藤は続けた。
「後期対人戦では、予選から決勝まで班長として指揮を取りました。1組第5班を優勝に導いています。個人の射撃技術だけではありません。槍と剣に斥候、氷魔法と白魔法を一つの組み立てに入れて勝っています。特に決勝では相手に読まれる前提を受け入れました。その先も用意していました」
会議室の空気が静かになった。
後藤は資料を一枚だけめくった。
「以上を踏まえて、神代蒼真のSクラス昇格を提案します」
二宮が頷いた。
「橋本先生、前期実力試験時の所見を」
橋本圭介は腕を組み直した。普段よりも硬い声ではあるが、迷いはない。
「同意します。前期の段階から、彼の戦術判断は一般クラスの枠では一段抜けていました。弓術士という適性の特殊性を差し引いても、班全体の動かし方が早い。特に前衛の動きと後衛の射線を同時に見る力がある。Sクラスで扱うべき生徒だと考えます」
「榊原先生」
1年Sクラスの担任である榊原は、背筋を伸ばした。
椅子の背に預けていた身体を戻す時、片手がお腹の前に触れる。
周囲の教員は、その仕草をもう自然に受け止めていた。
「昇格の評価には異論ありません。ただSクラスに席を作るのであれば、入れ替わりの対象を検討する必要があります」
資料のページが、数人分めくられる。
Sクラス三十人。上位に固定される者もいれば、得意不得意が班構成に左右される者もいる。誰か一人の名前を挙げることは、簡単なようで簡単ではない。
榊原は候補に挙がった生徒の評価を一人ずつ確認した。
剣士、魔法職、斥候。
数字だけなら近い者はいる。
だが、班内での役割もある。
来年度の伸びしろ、本人の精神面、既存班との噛み合わせもある。
それらを重ねると、選択肢は徐々に狭くなっていった。
やがて、榊原の指が、一人の女子生徒の欄で止まった。
「先に言っておきます。彼女が劣等生ということではありません。戦闘技術と魔法精度は水準です。座学と勤勉さ、人柄も含めてSクラス水準です。そこは誤解がないようにしてください」
二宮が静かに頷く。
榊原は言葉を選びながら続けた。
「ただ、現在の班構成では彼女の土魔法が活きていません。地属性魔法は攻め切る魔法というより場を作る魔法です。《土壁》も《泥沼》も、防御と妨害の価値が高い。今の班は前に出る力が強く戦闘の速度も速い。彼女が場を整える前に前衛が押し切る場面があります。逆に彼女の魔法が動線を塞いでしまう場面もあります」
「本人の努力不足ではない、と」
「はい。むしろ努力しているからこそ、自分の役割が噛み合っていないことに気づいています。一般クラスへの移動という言葉だけを見れば降格です。ですが彼女にとっては、自分の魔法を活かせる場へ移ることになる可能性があります」
後藤が、そこで口を開いた。
「1組第5班なら、彼女を活かせます」
視線が後藤に集まる。
「前衛は槍と剣で二枚。斥候が動線を見て、氷魔法が足を止める。白魔法が後ろを支える。そこに土魔法が入れば、防御と妨害の層が厚くなる。神代は射線を作るために場を読むタイプです。場を作る魔法とは相性がいい」
「ただ、1組第5班は今年の六人で完成度が高い班です。そこに一人加わる負担は?」
「あります。神代がSクラスへ上がれば、五人側にも穴が空く。穴を埋めるだけの異動ではありません。別の形に組み直す必要がある。ですが、あの班は組み直す力を持っています。予選から決勝まで証明しました」
橋本が資料を軽く叩いた。
「同意します。あの班は固定配置に頼りすぎていない。新しい魔法職が入っても、戦術に組み込む余地はあるでしょう」
榊原は息を吐いた。疲労の色が目元に出る。すぐに、教員としての表情に戻った。
「私としても、その方向であれば納得できます。本人への説明は丁寧に行います。彼女の一年を否定する異動にはしません」
二宮は資料を閉じた。
「では、神代蒼真をSクラスへ昇格。入れ替わりとして、Sクラスより一名を一般クラス1組第5班へ移動。対象については榊原先生と後藤先生で本人面談の段取りを詰めてください」
会議室の空気が、ひとつ区切られた。
「本人通知は終業式後、春休み中に各担任から個別に行います。榊原先生の来年度の担当引き継ぎについても、同時に準備を進めます」
榊原が頷いた。
「お願いします」
後藤はファイルを閉じた。いつもの眠そうな目のまま、けれど、その奥だけは少しもぼやけていない。
会議は次の議題へ移った。
◇◆◇
蒼真が錦町のマンションに着いた頃には、外はもう暗くなっていた。
玄関で靴を脱ぎ、弓袋を壁際の定位置に立てる。
手を洗って、冷蔵庫から麦茶を出した。
夕飯は冷凍していたご飯と、昨日作った豚肉と野菜の炒め物で済ませる。
レンジの中で皿が回る音を聞きながら、スマホを確認した。
班のチャットには、紅葉が送ったスタンプが並んでいた。
優勝後の表彰式の日程について、航が必要事項をまとめている。
悠斗は「表彰式終わったら鷹丸行こうぜ」と書き込み、真帆が「その前に悠斗さんの左脇を見ます」と返している。
里奈は少し遅れて、「鷹丸、行きたいです」とだけ送っていた。
蒼真は短く笑って、返信を打った。
『表彰式後、鷹丸で。悠斗は真帆の確認を受けてから』
すぐに悠斗から泣き顔のスタンプが返ってきた。紅葉がその上に拍手のスタンプを重ねる。
画面を伏せると、部屋の中が少し静かになった。
食事を済ませ、皿を洗い、風呂に入る。
湯気の中で右手の親指を開いたり閉じたりして、違和感がないことを確認した。
夜の机に座る。
メンテナンスノートを開いた。
表紙の角は、もう何度も鞄の中で擦れて柔らかくなっている。
最初のページに書いた線と、今開いているページの筆圧は、だいぶ違う。
蒼真はペンを持った。
対人戦の振り返り。
一、フォーメーションC。
障害物ありの対人戦で有効。
紅葉の位置共有、里奈の面制圧、真帆の防御判断で成立。
前衛二枚の負担管理が課題。
二、『弐』九十五。実戦投入可。ただし決め所を外すと魔力消費の重さが残る。通常射との切り替えをさらに速くする。
三、《小転移》。
本物を使うだけではなく、囮として相手の読みを縛れる。
対策される前提で、使わない選択も手札になる。
書き終えてから、しばらくペン先を止めた。
四つ目に何を書くか、少し迷う。
竹井の盾。
佐藤の機動。
進藤の最後の《光矢》。本村の槍。斉藤と藤島の魔法。観客席の白いマフラー。後藤のファイル。銅鑼の音。
書けることはいくらでもあった。
けれど。今日の欄に残すべき言葉は、たぶん、もっと短い。
蒼真はペンを動かした。
一年が、終わる。
その一行を書いた瞬間、胸の奥に重さが落ちた。
入学式の日、講堂に一人で座った。
悠斗に声をかけられ、航が加わり、里奈と真帆と紅葉が同じ班になった。
第1層で失敗して、第2層で死にかけて、秋には第3層で息が詰まるほどの戦場を見た。
冬は、演武場でクラスメイトと真正面から戦った。
一年が、終わる。
でも、何かが終わったというより、ようやく次の場所に立つ準備ができたと思えた。
スマホが震えた。
祖父からだった。
『優勝、おめでとう。矢は続けろ』
短い。いつも通り短い。
蒼真は画面を見て、静かに笑った。
『続けます』
送信してから、窓の外を見た。
錦町の夜の道を、車のライトが静かに流れていく。
遠くに見える学院の方角は、ビルの影で見えない。
それでも、明日の朝、自分がどこへ行くのかは分かっている。
ノートを閉じる前に、蒼真は最後にもう一行だけ書いた。
明日からも、矢を引く
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございます。
本話で第五章後期実力考査編の完結となります。いかがでしたでしょうか?
次回からは第六章が開始しますのでお待ちください。
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