第113話 決勝・決着
矢筒の縁から、十射目の矢を抜いた。
矢羽の角度を指先で確かめてから、弦に番える。
冬の演武場の空気は試合開始から十一分経っても冷えたままだった。蒼真の右の頬。息を吐く時の白さ。フィールドの石床のざらつき。指先と足の裏と両肩の感覚が、いつもより研ぎ澄まされていた。
試合経過、十一分二秒。残り、約四分。
竹井の盾が半呼吸遅れて組み直しに入った。重心が右へ流れ、前列に出てきた佐藤の機動を覆う位置へ寄る。本村は竹井の右後ろで槍を半身に構え直していた。航が三度連続で槍の腹を弾いた直後だ。本村の右前腕には判定の赤い輪郭が残っている。刺突強化を溜める時間はもう与えていない。
進藤あかりは後衛の中央にいた。藤島と斉藤が抜けた穴の側へ寄って立っている。右脇腹の判定の赤もまだ残っていた。杖を握り直す指の動きは序盤より緩い。残り魔力で出せる手は限られている。
ここで本物の《小転移》を切るか。
月曜の夜、メンテナンスノートに薄く書き残した一行。「囮の囮の本命」――それは《小転移》ではなかった。
《小転移》はもう囮として役を終えている。視覚から足元へ。足元から射線そのものへ。竹井の読みの軸は段階的にずらした。本物をここで撃つのは筋が違う。
蒼真は弦を最後まで引き分けた。
弦を離す。弦音が、冷えた空気を細く裂いた。蒼い軌跡が、竹井の盾の左の縁から上の縁へ抜けようとした。
竹井の盾が瞬時に左上へ動く。盾の表面で矢が弾かれ、硬い音が観客席の壁へ跳ねた。
判定光、点灯せず。
「神代、まだ何か用意してるな」
竹井の声が、盾の縁の向こうから低く飛んできた。
「曲げる手か、それとも、もう一回フェイントか」
「教えるわけないだろ」
「そりゃそうだ」
竹井が短く息を吐いた。盾の縁を握る手は緩まない。
ここから先は、半秒の駆け引きだ。
◇
十一射目を番える。
引き分けの角度を十射目と同じに保つ。竹井の読みは、いま蒼真の弓の角度に貼り付いている。手の内は変えない。読みの軸の方を動かす。
「悠斗」
「佐藤は間合いの内側。合図ひとつで潰す」
「航」
「本村の刺突は三度見た。次は押し返せる」
「紅葉」
「佐藤の左足、見えてる。一歩出たら背中側を取る」
「里奈、最後の氷床」
「構えてます。竹井くんの足元、逃しません」
「真帆、俺の右肩前に光盾」
「待っています。最後まで守ります」
六人の段取りが、半呼吸の合間で繋がった。
あとは、合図の半秒を、どこで挟むか。
◇
その半秒よりも先に、進藤あかりが動いた。
杖の先で白い光が立ち上がる。中盤に蒼真を狙ってきた《光矢》より輪郭は淡い。残り魔力ぎりぎりでも撃つと決めた最後の一発だ。
狙いは――蒼真。
「《光盾》!」
真帆の声が落ちると同時に、白い六角形が蒼真の右肩の前に展開した。
「《光矢》」
進藤の杖の先から、白い矢が一直線に走る。低い、まっすぐな軌道。
矢が六角形の中央に当たって、白い輝きをぶつけて散った。判定光、点灯せず。
「《光盾》、これで打ち止めです。《回復》は一回、残せています」
「使うなら里奈か」
「はい。今は撃たずに残します」
「助かる。整列まで持たせる」
進藤の杖の先の光はもう灯らない。攻撃の手はこれで尽きた。
蒼真は息を一度、肺の奥まで通した。
◇
「悠斗」
「来た。今なら押し返せる」
「氷床を合わせる。三、二――」
「任せろ、ずらす!」
「里奈」
「はい、最後の一本、行きます」
「一」
「《氷床》!」
里奈の杖の先から白い結晶の帯が低く這った。序盤の幕のような厚みはない。輪郭の端が揺れる細い一本の帯だ。それでも竹井の盾の左斜め前から足元へまっすぐ伸びていく。
竹井の盾が察知して半歩下がろうとした、その踵が、帯の縁を踏んだ。
竹井の足が、止まる。一瞬。
「悠斗、行け!」
「《脚力強化》!」
悠斗の槍が、低い姿勢から横へ抜けた。フィールドの石床を蹴った音が一拍、空気を割る。
悠斗の体が、竹井の右の側面へ一足で滑り込んだ。槍の柄の側面が、竹井の盾の右の縁に叩き込まれる。
竹井の盾は弾き飛ばされない。けれど、半歩、右へずれた。
盾の右の縁が、開いた。
蒼真の十二射目は、もう引き分けが終わっている。
呼吸は乱れていない。けれど、右手の親指の腹だけが熱かった。弦枕にかかる重さが、いつもより近い。
弦を離す瞬間、両手の指にかける圧を一息分だけ変えた。弦の戻りの角度が、わずかに内側へ傾く。
蒼い軌跡が、空気の中で曲がった。
竹井の目が、盾の右の縁へ走った。
間に合う。
そう判断したはずの盾の外側を、蒼い線が逃げた。
まっすぐ進むはずの矢が、竹井の盾の右の縁を、弧の内側で回り込む。
曲弦射。
矢の先端が、竹井の左の脇腹、装甲の継ぎ目に入った。
判定の赤い輪郭が、点灯したまま、消えない。
「竹井選手、KO判定。退場」
スピーカーの声が、フィールドの天井から降ってきた。
竹井が盾を半歩下げて、肩で息をついた。視線が、蒼真の方へ向く。
「曲げてきやがった」
「最後まで取っといた」
「うちの読み、そこまで届かなかったな」
「届かれてたら、もう一手考えてたから、結果は変わらなかったかもな」
「言うなあ、お前」
竹井が短く笑った。盾を肩から外して退場ゲートへ歩き出す。背中に未練のようなものはなかった。
◇
残る竹井班、本村・佐藤・進藤。
本村は航の剣に槍の腹を二度連続で弾かれた直後だった。半歩下がった本村の右前腕に、航の剣の刃が三度目を入れた。判定の赤の輪郭が、深く残る。
「本村選手、KO判定。退場」
「ナイス、航!」
紅葉の声が、二時方向から飛んだ。
「佐藤、本村の方見て固まった! 今行ける!」
「回れ。悠斗、短剣の方、頼む」
「任せろ!」
紅葉のショートソードが、石柱の陰の佐藤の右後ろを取った。佐藤が振り向きかけた瞬間、紅葉の刃が左の二の腕を擦る。軽傷一。
佐藤が短剣を抜こうとした手を、悠斗の槍が横から弾いた。短剣が石床の上を滑っていく。
紅葉のショートソードが、引き続き佐藤の右の太腿に二度目を入れた。判定の赤の輪郭が、軽傷二で重傷の輪郭へ届く。
「佐藤選手、KO判定。退場」
フィールドに残るのは、進藤あかり一人。
杖の先の光は最後の《光矢》で使い切っている。短剣も攻撃魔法ももうない。
蒼真は十三射目を番えなかった。和弓を右手に下ろして、腕を脇に落とす。
「進藤」
「……はい」
「武器、もう無いだろ」
「ありません」
「降参で終わりにしよう」
「降参、します。審判、お願いします」
進藤の杖の先が、石床に下ろされた。
「進藤選手、棄権。試合終了」
銅鑼が、フィールドの天井で鳴った。
試合経過、十四分二十二秒。
◇◆◇
観客席東側、上段から二段下りた位置。
凛は、立ち上がっていた。
いつ立ったか自分でも分からない。両手をマフラーの内側から出して二度合わせた。最初の一度はほとんど音が立たない。二度目でようやく音が立った。
ほのかも隣で立っている。拍手の手の動きは凛より大きい。表情は静かだった。
「一年が終わるね」
「……うん」
「凛ちゃん、来年も、観に来るの?」
「来年は、ないと思う」
「そっか。同じ側にいるかもしれないんだ」
「分かんない。でも、観客席から見るだけでは、終わらないと思う」
「うん。凛ちゃんなら、そう言うと思った」
「……ほのかもでしょ」
「そうだね。私も、見るだけで終わりたくない」
凛は小さく頷いて、マフラーの中に口元を埋めた。フィールドの中央では優勝した班の班長と退場ゲートから戻ってきた敗者の班長が握手をしようとしていた。
ほのかはペットボトルの蓋を一度締め直し、自分も視線をフィールドへ戻した。
立ち見の柵の前で須藤大河の口角がわずかに上がった。声にはしない。一年前の春、自分が読み切られた側に立った時に見えていた景色は、今日のフィールドの東側にはもういなかった。
西側最上段で後藤が薄い茶色のファイルを閉じた。煙草の箱を内ポケットから半分出して、また戻す。今日はこれで六回目。
「先生、最後、出すだけで吸わなかったですね」
「我慢が、ここまで保ったってことだ」
「終わりましたよ」
「終わったな」
「打上げ、出ます?」
「お前が出るなら、出る」
「出ます」
「じゃあ、出る」
「先生、それ、決まり文句ですか」
「決まりじゃない。事実だ。お前が出るところに、俺一人で行っても面白くない」
「面白さで決めないでください」
「面白さで決めるのが、俺の仕事の救いだ」
藤村が、口の端で短く笑った。後藤はファイルを抱え直して、フィールドへ視線を戻した。
◇◆◇
所定位置から、半歩前へ。
里奈が杖を支えにして、両膝に手を置いていた。背中を丸めて、肩で大きく息をついている。
「里奈、座っていい」
「立ちます。あと、ちょっとだけ、待ってください」
「無理するな」
「立って終わりたいんです。試合、立って始めたから」
里奈の杖の先の白い結晶は、もう輝いていなかった。
真帆が里奈の半歩横に寄って、自分の杖を握り直した。指先で杖の柄を一度、撫でる。
「里奈ちゃん、《回復》、整列のあとに回します」
「うん、ありがとう」
「悠斗さん、左の脇、突き入れた時に装甲擦りましたよね」
「あー、見えてた? 判定光は点ってないから、軽くだけど」
「あとで《回復》、入れますね」
「ヒーラー、目ざといな、ほんと」
「それが仕事ですから」
悠斗が、肩を一度回した。槍の柄を肩に担いで、紅葉のほうへ振り向く。
「紅葉、佐藤への二発目、深かったぞ」
「だって本村のKO見て固まってたんだもん。あれ入れなかったら斥候の名折れ」
「斥候、責任感重いな」
「そりゃそうでしょ、斥候だもん」
「お前のそういうとこ、頼もしいわ」
「ふふん」
航は剣をすでに鞘に戻していた。視線は、退場ゲートから戻ってくる竹井のほうへ向いている。
「曲げたな、最後」
「読まれたら、別の手も用意してた」
「何用意してた?」
「言わない。次があるかもしれないから」
「お前、合同訓練で竹井とまた当たる気か」
「向こうが受けて立つなら」
航が、ふっと短く息を抜いた。柔らかい、本人が一番自覚していない方の笑い方だった。
悠斗が横から肘でつついた。
「お前のそれ、勝った時にしか出ねえな」
「自覚してない」
「自覚しろよ、たまには」
「悠斗、お前は逆に、勝った時にしか黙らない」
「黙ってる時もあるだろ」
「メシ食ってる時くらいだ」
「……ぐうの音も出ねえな」
紅葉が後ろから「ふふん」と笑った。里奈が杖を支えにしながら、その様子を半歩横で見ていた。背中の丸まり方が、最初よりは戻ってきている。
真帆は里奈の半歩横で、フィールド全体を視野に入れたまま自分の杖の柄を一度撫でた。整列の声がかかるまでの時間をその間で計っているらしかった。
◇
退場ゲートの方から竹井が一人でフィールドの中央へ戻ってきた。盾は腰のフックに掛け、剣も鞘に戻している。
蒼真は和弓を左手に持ち替えて、フィールドの中央へ歩み出た。
竹井が右手を差し出した。蒼真が握り返す。手のひらの汗ばみは、試合前より少し多い。
「うちの組み立て、最後の一手だけ届かなかったな」
「届いてたら、こっちも違う手を出してた」
「本気で言ってる顔だな」
「本気だ。竹井の盾は、最後まで怖かった」
「怖いって言われて負けたら、余計に悔しいな」
「こっちも、もう一回やりたい」
「秋の合同訓練でどうだ」
「やる。次も、譲らない」
「言うじゃねえか」
竹井が手を放した。蒼真も離す。
竹井が退場ゲートの方へ歩いていく背中の向こうで本村、佐藤、進藤がそれぞれの所定位置で頭を下げた。蒼真も半歩前へ出て頭を下げる。班員五人も倣った。
審判の声が、フィールドの天井から最後に降ってきた。
「東京探索者学院、一年生後期対人戦、優勝――1組第5班」
蒼真は頭を上げた。指先に残っていた弦の感触が、急に遠くなる。勝った。その二文字が、喉まで上がってきて、今度は逃げなかった。
「……勝った」
自分で言った声なのに、蒼真は一瞬だけ驚いた。思っていたより大きく、思っていたより真っ直ぐだった。
悠斗が最初に反応した。槍を肩から外し、ほとんど跳ねるように蒼真の方へ走ってくる。
「勝ったぞ、蒼真!」
「ああ、勝った!」
「優勝だぞ! 俺たち、優勝!」
「分かってる!」
言い返した瞬間、蒼真の口元が勝手に上がった。抑えようとしても、もう抑えられなかった。
悠斗の手が蒼真の肩に回る。勢いが強くて和弓を持つ左手だけは反射的に外へ逃がした。航がその横から少し呆れた顔で近づいてくる。けれど口元は完全に緩んでいた。
「弓を潰すな。勝った直後に壊したら伝説になるぞ」
「壊さねえよ!」
「今の悠斗ならやりかねない」
「航までひどくないか!?」
紅葉が声を上げて笑った。いつもの軽い笑い方ではなく、腹の底から弾けたみたいな笑いだった。
「やったね、班長! やったよ、ほんとに!」
「紅葉、最後の回り込み、助かった」
「今はそういう反省会じゃないでしょ! 喜ぶとこ!」
「……そうだな」
蒼真は頷いて、右手を握った。弽の革が親指の付け根に食い込む。痛みすら、勝利の輪郭みたいにはっきりしていた。
「みんなで勝った!」
今度は、はっきり言えた。
真帆が目元を細めて、杖を胸の前で抱え直す。里奈は杖を支えにしたまま、かすかに顔を上げた。息はまだ荒い。それでも口元だけは柔らかくほどけている。
「はい。みんなで、勝ちました」
「最後まで、立って、終われました」
「里奈の《氷床》がなかったら、最後の一射は通ってない」
「真帆の《光盾》もな。あれで進藤の最後の一発、止まった」
「悠斗さんの盾ずらしもです。宮瀬くんと紅葉ちゃんの詰めも、全部です」
真帆が一つずつ拾うたびに六人の視線が自然と一周した。誰か一人の勝ちではない。誰か一人の手柄でもない。四月に初めて班になった時には、まだ形も分からなかったものがここまで来た。
蒼真は、和弓を持っていない右手を差し出した。
悠斗が真っ先にその上へ手を重ねる。航がその上に置き、紅葉が笑いながら乗せる。真帆が少し丁寧に重ねた。最後に里奈が杖から片手を離して、そっと手を置く。
六人分の手の重さが、蒼真の手の甲に乗った。
「1組第5班」
蒼真が言うと、五人の目がこちらを見る。
恥ずかしさはあった。けれど、それより先に、言いたい気持ちが勝った。
「最高の班だった」
一拍だけ、誰も何も言わなかった。
次の瞬間、悠斗が「おっしゃあ!」と叫んだ。紅葉が「最高いただきました!」と声を弾ませる。航は小さく息を吐いて笑った。真帆は「記録しておきたいです」と言って、すぐに首を振った。里奈は目尻を赤くしたまま何度も頷いている。
蒼真も、笑った。声が少し漏れるくらい、はっきりと。
その笑い声が自分のものだと分かるまでに、半拍だけかかった。
東側の観客席の上段から二段下りた位置で、白いマフラーの中の口元が半秒だけこちらに向いた。視線が合った瞬間、その口元はマフラーの内側へ深く戻る。
観客席は試合のあとに見る、と月曜のノートを閉じた時に決めた。
見た。それで、いい。
六人の手が、ゆっくり離れた。
蒼真は和弓を左手に持ち直して、所定位置の班員のほうへもう一度足を向けた。
冬の朝の空気が、肺の奥まで届いて、熱を帯びたまま戻っていった。




