第110話 決勝前夜
月曜の朝、教室の窓は白く曇っていた。
二月中旬の冷えが立川の街全体に霜を降ろしている。サンサンロード沿いから学院の正門を抜けた頃には、蒼真の頬の表面は半分ほど感覚を失っていた。手の甲側の薄手の手袋越しにも、指の付け根へ冷たさが染みる。
錦町のマンションを出る前に、メンテナンスノートは鞄へ戻した。和弓と矢筒は学院の班部屋に置いてある。今日持って来たのは頭の中身と、昨日書いた一行だけだ。
1-1の教室に着くと、悠斗がもうホワイトボードの前に立っていた。マーカーのキャップを開けたり閉めたりしながら、何か書きたそうに先を浮かせている。
航はノートパソコンを開いて隣の机に乗せていた。紅葉と里奈と真帆も集まり、後方の島に椅子を寄せて座っている。
「おう、蒼真、遅い。何時に来てるんだお前は」
「悠斗、ホームルームまであと三十分あるぞ」
「三十分って言うけどな、俺、もう三十分前から待ってるんだよ。寮の朝飯五分で詰め込んでだぞ」
「あ、それは悪かった」
蒼真は鞄を机に置きながら、ちょっと笑ってしまう。
「悠斗が朝飯五分で済ますの、相当珍しいな」
「お前、人の班長が緊張してんだぞ。もうちょっと労われ」
「労うって、お前、緊張してんの?」
「緊張はしてない。気合いが入ってる。違う」
「同じでしょ、それ」
紅葉が後ろから声を上げる。
「ねえ航。悠斗のあれ、緊張って言うのと気合いって言うの、辞書的にはどう違うわけ?」
「辞書を引かなくても違うとは思うが」
航がノートパソコンから顔を上げずに言う。
「悠斗の場合は両方一緒に来てる」
「うわ出た、参謀の現場主義」
「現場主義じゃない。観察結果だ」
里奈と真帆が顔を見合わせて、薄く笑っている。里奈は杖を膝の横に立てかけ、湯気の立つペットボトルのお茶を両手で握っていた。
真帆は杖を椅子の下に寝かせている。ヒーターから一番遠い席なのに、肩を丸めず背筋を伸ばしていた。
「で、悠斗、書きかけのは何だ」
蒼真がホワイトボードの方を指差す。
「いや、書き始めようとして、お前らの顔見たら書く前に喋り出した」
「お前の話す順番がそれなんだよな、いつも」
「悪いか」
「悪くない」
蒼真はマーカーを悠斗の手から受け取り、ホワイトボードの真ん中に二月の対戦表の決勝枠を書く。
『1-1第1班、竹井班。剣士・槍・斥候・火・氷・白』
マーカーが乾いた音を立てて滑る。
航がノートパソコンの画面をくるりと回し、机の端に立てかけた。
「竹井のスキルは身体強化。出力は弱めだが全身に効く。出だしの一歩と詰めの一歩、両方で恩恵が出る。本村は刺突強化。槍の穂先で打ち抜く方向に出力を寄せている。佐藤は軽業。攻撃より回避と機動。火が斉藤、氷が藤島。それから――白の進藤あかりが攻撃型」
「攻撃型の白魔法って、何それ」
紅葉が首を傾げる。
「真帆と何が違うわけ?」
「真帆は《光盾》《光球》《回復》の運用比率が回復寄りだ。進藤は《光矢》を主戦力で撃ってくる。回復魔法も持ってはいるが、後ろから攻撃魔法を継続して投げてくるタイプだ」
「白魔法使いなのに攻撃する人がいるんだ」
真帆は自分の杖の柄を一度握り直し、少しだけ首を傾げた。
「私と、逆」
「逆っていうか、振り切ってる方向が違うのよね」
里奈が真帆の肩の高さに視線を合わせて言う。
「真帆ちゃんは班員のため。進藤さんは班の手数を増やすため。多分そう」
「うん。多分、そう」
真帆は杖の柄を撫でてから、視線をホワイトボードに戻した。
「《光盾》、一枚分は温存する」
「進藤の《光矢》対策?」
蒼真が振り返って真帆を見る。
「神代さんが撃たれそうな時の一枚分」
「ありがたい」
短く返してから、蒼真はホワイトボードへ向き直った。フォーメーション図の続きを書く。竹井の身体強化は初動と詰めの両方に効く。
前衛二枚で蒼真への射線を切ってくる読みは、土曜の控室で航が言っていた通りだ。いや、昨日の夜に自分でメンテナンスノートへそう書いた。
同じことを別の口で二度言ったというより、二人で同じところへ着地した。
「悠斗の前衛は本村の槍と当てる」
「了解」
「航は竹井とは正面で当てない。竹井の身体強化は近接でこそ厚い。航の《斬撃強化》は、刺突強化を持ってる本村の側面を取った方が通る」
「了解」
航はノートパソコンに何か打ち込みながら短く返す。
「本村の刺突強化は線の攻撃だ。蒼真の弓も線だが、こっちは曲線が一手ある。本村の槍は基本直線で横に弱い」
「横かあ」
紅葉が笑う。
「斥候の私が言うのもなんだけど、横取り、得意なんだよね」
「だから紅葉は佐藤と対」
「佐藤、軽業でしょ? あの陽キャの男子が視力強化の私の視線、追い切れると思う?」
「追い切れない、と思いたい。だが向こうも自分の班長の動きを誰よりも見てるはずだ」
航がノートパソコンの画面を一度トントンと叩く。
「佐藤は紅葉を見るんじゃなくて、紅葉が見てるものを見てくる、と俺は読む」
「うわ、嫌な読み」
「俺の読みじゃない。佐藤の癖だ」
「同じじゃーん」
「同じじゃないんだ」
航が真顔で返したので、紅葉が「ふふん」と鼻を鳴らした。
ホワイトボードの図が埋まっていく。蒼真は里奈の杖の位置に印を入れた。里奈の氷魔法は、前衛二枚で射線が塞がれた時の遠距離攻撃の主力になる。
弓の射線が塞がれた時、後ろから敵を削れるのは里奈の氷だった。支援ではない。決勝では、里奈自身がもう一人の主火力になる。
《氷壁》・《氷床》に加えて《氷矢》。秋のイレギュラー対応の頃から自信を取り戻してきた里奈の攻撃魔法が、決勝戦では出番を取り戻す。
「里奈、《氷矢》、序盤からいけるか」
「いけます。撃ちます」
里奈は迷わなかった。
「氷壁と氷床の両方を維持しながらは流石にきついです。けど序盤は氷矢で、向こうの氷魔法使いの藤島さんの判断を一回でも遅らせる。そういう運用なら回せます」
「魔力配分は」
「決勝戦は使い切るつもりで行きます」
里奈は両手で杖の柄を握り直した。
「最後の一発まで撃てるところまで撃ちます。氷壁、氷床、氷矢。全部で押す」
「魔力管理は俺が見る」
航がノートパソコンに視線を戻して言う。
「里奈の杖の輝きが弱くなった時点で後ろから声をかける。残り発数で運用を切り替える指示も俺から出す」
「お願いします」
里奈の声には、もう細さは残っていなかった。自分の役割の重さを知っている人間の、落ち着いた重みがある。
蒼真は一年前の里奈を頭の隅で思い出し、すぐに今の里奈の声へ戻った。同じ人間が半年と少しで、ここまで違う重みで喋るようになる。
後衛の一人が変わると、班全体の重心が変わる。
真帆は杖の柄を、もう一度ゆっくり撫でた。
「真帆」
「はい」
「《光矢》、まだ対人戦で撃ってない認識だけど、合ってる?」
質問の意味を理解した真帆が、瞬きを二回した。
「ええ。対人戦ではまだありません」
「ダンジョン内で一回」
「あります。月例実習の最後の方で《光矢》を一発だけ」
「決勝、撃つか」
真帆は少し考え、杖の柄を握り直して答えた。
「撃てる場面が来たら撃ちます。回復役の余力は最後まで残しておきますけど、班員が攻撃されそうな時に《光矢》で詠唱を一拍止める運用ならできます」
「了解」
蒼真が頷く。
「やる時は班員を守るために撃つ。それ以外は回復役の本分を優先」
「はい」
紅葉が口角を上げ、真帆の肩を軽く叩いた。
「真帆、対人戦で初の攻撃魔法じゃん。デビュー戦。緊張してる?」
「してます。少し」
「ふふん。ちゃんと正直に言うところ、真帆らしい」
「紅葉ちゃん、緊張、しないの?」
「私? するよ。でも声出してると紛れる」
「だから、ずっと喋ってるんだ」
「あ、ばれた」
里奈と真帆と紅葉が、三人並んで小さく笑った。
ホームルームの予鈴が廊下の外で鳴る。
航がノートパソコンを閉じた。蒼真がマーカーのキャップを閉め、ホワイトボードを一度見直す。
一晩で覚えたフォーメーションの骨格を、班員六人が同じ言葉で確認した。明日の朝、この図はもう一度この場所で見直すことになる。けれど今の時点で骨格は揃った。
「悠斗」
「ん?」
「お前、結局、緊張してんのか気合い入ってるのか。どっちなんだよ」
「両方だっつったろ」
「同じだろ、それ」
「お前まで言うのか」
紅葉が後ろで「同じじゃーん」とまた言った。
◇
昼休みの少し前、後藤が教卓の前で出席簿を閉じながら、ぽつりと言った。
「神代、放課後の屋内訓練場の予約、入れてあるからな」
「あ、はい。ありがとう、ございます」
「お前一人じゃない。班員も使えるように一面全部押さえた」
「一面、全部、ですか」
「向こう三日、対人戦の決勝関連の班の練習で訓練場の枠が混む。月曜の今日が、お前らが一面全部で動かせる最後の一日だ」
「了解です」
後藤は出席簿の角を指の腹で撫で、煙草の箱を内ポケットから半分だけ取り出した。すぐにまた戻す。
「俺は今日、職員会議の関係で残業だ。お前らが訓練場に入る時間には居ない。鍵は守衛室経由で。終わったら、ちゃんと施錠して帰れ」
「分かりました」
「あと、これは余談だ。神代」
「はい」
「明日の朝、いつもより十分早めに来い。ホームルーム前に、控室のホワイトボードを書き直しに行く時間がいる」
「あ、はい」
蒼真は、後藤がそこまで読んでくれていることに驚いた。
「分かりました」
「俺は別に何もしない。お前らがいつも通り組み直して、いつも通り試合に出ればいい。ただ明日の朝のうちの三十分は、お前らの三十分だ」
「ありがとうございます」
後藤が煙草の箱をまた半分だけ出し、また戻した。
「これ、我慢してるんだ。お前らの試合の前は」
「先生、煙草、結局吸いに行くんですか」
「行く。今からだ。お前は飯食え」
後藤が出席簿を抱えて教卓を回り、教室を出ていく。三白眼の角度がいつもよりわずかに穏やかに見えた。たぶん蒼真の方が、勝手にいつもと違う角度で見ているだけだ。
◇
昼飯は鷹丸で食べると言い出したのは紅葉だった。
「最後の一日、ちゃんと食べるべきでしょ。お弁当じゃ足りない」
「いや、別に最後の一日とか言わなくていい」
悠斗が眉をひそめる。
「明日も食えるだろ」
「明日のお昼は試合中じゃない」
「試合は午後だぞ」
「だから午前中はそわそわして食欲ない可能性ある。今日のうちに、ちゃんとから揚げを食べておくべき」
「いや、それ俺の話か?」
「悠斗の話」
「俺だけ?」
「悠斗だけ」
航が「行こう」と短く言って、それで決まった。
サンサンロード沿いの鷹丸は、月曜の昼にしては空いていた。割烹着の店主が「いらっしゃい」のあとに「五班、揃ってる日だな」とだけ言う。奥のいつもの座敷へ手を振った。
悠斗のから揚げ定食。航の焼き魚。蒼真の生姜焼き。紅葉と里奈の日替わり。真帆のカツ。注文の流れは半年以上変わっていない。
「真帆、いつもカツだよな」
紅葉がメニューを戻しながら言う。
「験担ぎって言ってたっけ」
「言ってた。今日は決勝の前だから、本気のカツ」
「本気のカツって何だよ」
悠斗が口を挟む。
「カツに本気と本気じゃないがあんのか」
「気持ちの話」
「ああ、気持ち」
味噌汁が六杯まとめて運ばれてくる。湯気がテーブルの真ん中に集まり、座敷の窓の方へ流れた。蒼真は箸を割り、生姜焼きの皿にかける醤油の量を少しだけ控えた。明日の試合は午後一だ。塩分の取り過ぎは午前中の体の重さに繋がる。
悠斗がから揚げを口に入れ、それから「明日、勝つぞ」と短く言った。
「言うのは早くないか」
紅葉が日替わりの白身魚を箸で割りながら言う。
「まだ昼じゃん」
「言うのは早くない。早ければ早いほど回数が増える」
「縁起担ぎなの、それ」
「縁起担ぎだ。あと、味噌汁うまい」
「同じ口で言わないで」
航は焼き魚を綺麗な順番で骨から外しながら、誰のことも見ずに「明日、勝つ」とだけ短く言った。
誰もそれに反応しなかった。
反応しないということは、たぶん全員が頷いたということだった。
◇
放課後、訓練場へ向かう途中、蒼真は祖父にメッセージを送った。
歩きながらスマホの画面に向き合うのは普段の癖ではない。放課後の渡り廊下の途中で立ち止まり、手の甲側の薄手の手袋を片方だけ引き抜いて親指で文字を打つ。
『明日、決勝。相手は1組の班長。剣士・身体強化。前衛二枚で射線を絞ってくる。フォーメーションC。囮《小転移》。状況によって曲弦射。――勝つよ』
送信してから手袋を戻し、蒼真はまた歩き始めた。
返信は訓練場の入口の手前で来た。
『そうか』
画面を見て、蒼真は笑った。三文字で来た。三文字以上の返信は、たぶん明日の夜に来る。
勝ったか負けたかの報告に対して、爺ちゃんが「そうか」一行で返してくれることは知っていた。
それが神代家の言葉のリズムだ。爺ちゃんの「そうか」は、見放しているのではなく見ていますという意味の三文字だ。
スマホをコートのポケットに戻した時、訓練場の入口の角に人影が一つ立っているのが見えた。
マフラーの白が、夕方前の陽射しの中で目に入った。
凛だった。
◇
「天城」
蒼真の声に、凛はすぐには振り向かなかった。
「神代」
「Sクラスの対抗戦、もう終わったのか」
「先週で終わった」
凛はマフラーの中に口元を半分埋めたまま、短く答えた。
「早いな」
「Sクラスは五班だけだから。総当たりでも四試合で終わる」
「ああ、そっか。こっちは予選リーグと決勝トーナメントがあるから感覚がずれてた」
「一般クラスは班数が多いもの。二十五班で上を決めるなら日数がかかるのは当然でしょ」
「天城の班は?」
「三勝一敗」
凛はそこで一度だけ視線を横へ逃がした。
「三班の佐々木さんの班に負けた。火対火で押し負けた」
「そうか」
「別に、変な慰めはいらないから」
「慰めじゃない。お前、強いなと思っただけだ」
「三勝一敗で負けてるのに?」
「それでも強いだろ」
「……そういうところ、ほんと、単純ね」
凛がようやくこちらを向いた。マフラーの上から、目だけが光っているのが蒼真にもはっきり見えた。
「だから、明日は私の試合はない」
「うん」
「Sクラスの分は終わってる。ほのかも明日は空いてる」
「うん」
「だから、たまたま観客席に座っていても問題ない」
「観に来るんだ」
「観に来るとは言ってない」
「今、観客席に座るって言った」
「言ってない。問題ないと言っただけ」
「同じだろ、それ」
「同じじゃない」
「紅葉と同じこと言ってるな」
「鬼塚さんと一緒にしないで」
凛の声はいつも通り素っ気なかった。けれど今日の素っ気なさは、ただ突き放すためだけのものではなかった。
負けたことを隠さずに言って、明日は試合がないことも言う。それでも観に来るとは言わない。そういう言い方を選ぶところまで含めて、蒼真の知っている天城凛だった。
「天城」
「何」
「明日、見ててくれ」
「見るとは言ってない」
「じゃあ、観客席に座って問題ないなら、そこから見ててくれ」
「……勝手にすれば」
「うん」
「応援もしないから」
「分かった」
「声も出さない」
「分かった」
「ほのかが何か言っても、私は関係ない」
「それは白瀬次第だな」
「そう」
凛はそこで会話を切るように、マフラーの中へ口元を戻した。
それでも半歩だけこちらへ踏み込むかどうか迷う所作を見せ、結局やめた。
「神代」
「ん?」
「負けたら、文句言うから」
「それ、応援じゃないのか」
「違う」
「違うのか」
「違う」
凛は今度こそ訓練場と反対側へ歩き出した。
蒼真はその後ろ姿を半秒だけ見送ってから、自分の弓の方へ向き直った。訓練場の入口の引き戸に手をかける。
戸を開ける前に、口角が上がっていた。
訓練場の中に入って班員五人の方へ顔を向け、蒼真は口角を下げ直そうとした。半分くらいしか下がらなかった。
◇
訓練場の合同訓練は二時間で切り上げた。
決勝戦の動きを通しでなぞる必要はなかった。ホワイトボードで朝に詰めた配置を、班員六人で歩いて確認する。射線の位置。悠斗の前衛のライン。紅葉の遊撃の動線。里奈の氷矢の発射位置。真帆の杖の角度。航が後ろから声をかける距離。言葉と歩幅で骨格を一度通して、それで終わり。
ただ、悠斗が最後の一往復だけ本気で槍を振った。
「悠斗、本気じゃなくていいぞ」
「本気じゃないと、明日、変な動き出る」
「明日のために、今日、本気で振るのか」
「そう」
航が床に置いていた水筒を取り上げ、悠斗の方に放った。
「水分摂れ」
「サンキュ」
「明日に響くぞ、振りすぎは」
「分かってる。これで終わり」
悠斗が水を一口飲み、槍を立てかけて訓練場の床に座り込んだ。座り込んだまま天井の梁を見上げて息を一つ吐く。
蒼真にはその息が「あー、緊張する」の代わりに出された息だと、すぐに分かった。
三人組で半年以上やっていれば、お互いの息くらいは分かる。
最後に蒼真が二十五メートル先の的へ一射だけ放った。通常射。引き分けの角度を整えるだけの確認の一射だ。鏃が的の真ん中の少し下を抜け、矢羽の音が訓練場の高い天井に反響した。
悠斗が振り返って「ちゃんと真ん中、外したな」と言った。
「外したじゃなくて、的の中心の下、当てた」
「同じだろ、それ」
「同じじゃない」
「お前まで言うのか」
「言うよ」
班員六人が、ほぼ同時に笑った。
訓練場を出る時、紅葉が「明日の解散は、勝ってから三方向ね」と言った。
「いつもの三方向か」
悠斗が応じる。
「俺ら寮組、里奈と真帆が改札、蒼真が錦町」
「うん。それまでは勝ってる」
「勝ってるって、まだ勝ってないだろ」
「言葉から先に勝つの」
「悠斗の縁起担ぎと同じだな」
「同じじゃない」
「同じだろ」
「ふんっ、それでいい」
紅葉が締めて、それで訓練場の電気が落ちた。
◇
夜、錦町のマンションの自室は、いつもより少しだけ静かに感じた。
窓の外の街灯はいつもと同じ明るさで、同じ距離に並んでいる。冷蔵庫から白飯と納豆を出し、味噌汁を温め直して夕食を済ませた。
学校帰りに駅前の弁当屋で買った焼鮭が、皿の上で湯気を立てて消えていく。食べ終わってから流しで湯のみをすすぎ、机に戻って和弓のケースを開けた。
弦の張りを確認し、握り革の擦れを指の腹で撫でる。矢筒の中の矢を一本ずつ抜いて、矢羽の状態を目で追った。
スローイングナイフを六本、太腿のポーチから外して布の上に並べる。柄の溝に仕込んだ触媒を確認する。爪と髪。
神代家の弽の革は、いつも通り親指の腹側だけが黒ずんでいる。
矢、二十四本。明日の朝、班部屋で矢筒に詰める。試合開始前に最終確認をする。
メンテナンスノートを開く。
昨日の夜、ここに「クラスメイト」と書きかけてペンを止めた。そこから「対戦相手」と書き直した。
その下にはフォーメーションCの基本動線、囮《小転移》の運用、状況によっての曲弦射を一行ずつ書いた。今日はそこに一行だけ追記する。
『進藤あかりの《光矢》、真帆の《光盾》一枚分の余力で対処。班員を守る運用、班員それぞれが了承済み』
ペンを置いてから、しばらくノートの白い紙面を見ていた。
明日、終わる。
一年の後期試験が明日で終わる。明日勝てば、対人戦の優勝が決まる。明日負ければ、準優勝で終わる。どちらでも明日で終わる。
明日終わるという事実は、不思議と重くなかった。重さの代わりに緊張がある。それから、もう少しで分かる答えを目の前にしている時の前のめりな感覚がある。二つとも頭の真ん中に座っていた。
それから、もう一行書き加えた。
『明日、終わる』
ノートを閉じて、机の引き出しに戻した。
明日の朝の支度を頭の中で確認する。学院の班部屋には和弓と矢筒が置いてある。ナイフポーチは今夜のうちに整えた。手の甲側の薄手の手袋は、玄関のコート掛けの内側に挟んである。弽は鞄の中。試合用の動きやすい上着は、椅子の背にかけて皺を伸ばしておいた。
窓の外の街灯の光がガラスを通り、机の端に薄く差し込んでいる。立川の二月の夜は、長野の実家の二月の夜より明るい。
蒼真は電気を消して布団に入った。
目を閉じた瞬間、いくつものものが頭の中を通り抜けた。
ホワイトボードの図。凛のマフラーの白。爺ちゃんの「そうか」の三文字。悠斗の朝飯五分の話。鷹丸の味噌汁の湯気。紅葉の「言葉から先に勝つの」。
それらが一度に浮かんで、それからゆっくり鎮まっていく。
明日、終わる。
その一行だけが、頭の真ん中に灯っていた。




