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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第五章 後期実力考査編

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第108話 《氷床》、応用の真価

 八本目の矢を、矢筒から抜いた。


 試合開始から七分十五秒。塵の幕の濃度は、もう半分以下に落ちている。加藤奈々の杖を抱え直す両手が、塵の隙間からはっきり見えていた。


 矢を番える。

 引き分けの角度は、塵の幕の上ではなく、塵の幕の下半分へ。今までの四射が全部「上を抜く」運びだったから、今度は逆に走らせる。曲弦射ではない。弓の軸はそのまま、矢の進む先だけを下に振る。

 加藤の杖の柄を、撫でるだけでは終わらせない。

 そのつもりだった。


 弦が、親指の革に沈む。

 いつもの重さより、ほんの少しだけ硬い。

 昨日から続く試合の疲れか。冬の冷えか。


 どちらでもいい。

 この一本は、撫でる射ではない。


「蒼真、加藤、塵を一段濃くしようとしてる」

「見えてる。けど杖の戻しが遅い」

「指揮の影山、あと十秒もたない」

「十秒なら待たない。ここで削る」


 航が短く返した。

 塵の幕の中央から下にかけて、薄茶色の粒子の濃度がふっと一段上がる。加藤が最後の魔力を絞って塵の濃度を回復させようとしているのが、塵の幕の表情で読めた。

 けれども、絞った魔力で濃度を上げられるのは、たぶん二秒か、三秒。

 その短い濃さの回復の上に、蒼真は矢を放った。

 矢は塵の幕の下半分を斜めに突き抜けて、加藤の右手首の外側を、ほんの十センチほど長く擦った。

 薄い赤の判定光が一度だけ点る。

 軽傷ポイント、一。


「3組第4班加藤、軽傷一」


 審判の声がスピーカー越しに流れる。

 塵の幕の濃度が、加藤の杖の握りの緩みと同時に、はっきりと落ちた。

 半分以下から、三分の一以下へ。

 塵の幕の奥の影山と小林蓮の輪郭が、こちら側からほぼ全部見える。


       ◇


「結菜さん、加藤さんへ《小回復(ライトヒール)》、お願いします」

「はい」

「小林くん、塵、補強できますか」

「補強します。けど、加藤さんの杖が回復しないと、半分も戻せません」

「半分でいい。半分の濃さで、組み直す」


 影山の指揮の声が、塵の向こうから飛んでくる。

 丁寧で迷いがない。迷いはないが、組み直しの先が少しずつ狭くなっているのが、こちら側の耳にも届いていた。

 加藤の塵維持を切ったということは、視線切り戦術の主軸を半分削ったということだった。残る選択肢は、小林蓮の補強と、伊藤の戻りの機動と、影山自身の脚力強化の踏み込み。三つで岡田と加藤の穴を埋めるのは、たぶん難しい。

 蒼真は弓の握りを左手の指先でもう一度乗せ直して、矢筒に手を伸ばした。

 残り十八本。


「悠斗」

「おう」

「影山、もう一回踏み込んでくると思う」

「来るな、たぶん」

「正面、受け流せ。航、左に回って影山の戻りを切ってくれ」

「了解だ」

「了解」


 悠斗が槍の柄を握り直して、半身に逸らす構えに切り替える。

 航がその半歩後ろから、影山の戻りの軌道に剣を斜めに乗せる位置取り。

 二人の前衛で影山の踏み込みを正面と側面の両方から押し下げる、月曜のホワイトボードに書いていた線の通りの動きだった。


       ◇


 紅葉の声が中衛右側から短く跳ねた。


「蒼真」

「うん」

「伊藤、もう動けるみたい。長谷川さんの《小回復(ライトヒール)》、入った」

「位置」

「右の石柱、影。私の二時方向。たぶん、また張り付き来る」

「拾った」


 紅葉のショートソードが鞘に半分戻る音が、こちら側まで届いた。

 集中力モードの目の輪郭の張りが、もう一段締まる。

 伊藤の張り付きが復活するなら、岡田を失った穴を伊藤一枚で埋めにかかる運用に切り替えるはずだった。けれども、伊藤一枚では岡田と伊藤の二枚で組んでいた張り付きの精度には届かない。

 紅葉の方が、伊藤の動線を読み切る速さで先に立つ。


「里奈」

「はい班長」

「氷床、もう一本、追加で出せるか」

「出せます」

「伊藤の張り付きの動線。紅葉の二時方向を横切る形で」

「短く切ります。長く伸ばすと紅葉ちゃんの戻りまで塞ぎます」

「それでいい。短く」

「はい!」


 里奈の杖の先から、三本目の白い結晶が床の上に這い出した。

 帯の長さは岡田の動線を塞いだ長帯の半分以下。

 紅葉の右側面、伊藤の張り付きの戻りの動線の手前で、短く真っ直ぐに引いた線。

 紅葉と影山の正面の三角形の中に、薄い白い帯が、もう一本横切る形で立った。


「鬼塚さん、足元、氷床、また」

「踏みました、滑ります!」


 伊藤の声が塵の中から短く跳ねた。

 紅葉の二時方向、ちょうど張り付きの戻りの一歩目の床に、伊藤の靴底が滑る。

 きゅ、と乾いた音がした。

 滑った、というより、踏み込む力だけが床に置き去りにされた。

 伊藤の上体が前へ行き、膝が遅れる。

 一瞬、剣を振る相手ではなく、転びかけた人間の形になった。


 脚力強化を持たない斥候の踏み込みでは、帯状の氷床は越えられない。

 越えられないだけではない。

 越えようとして踏み直す時の靴底のずれが、伊藤の身体の重心を半拍だけ後ろに引いていた。

 その半拍の上に、紅葉のショートソードがすっと立った。

 紅葉は踏み込まなかった。

 近づいたのではなく、伊藤が崩れた位置に、最初から剣を置いていた。

 里奈が止めた。

 紅葉が拾う。

 それだけの連携だった。


「ごめんね、伊藤くん」

「くうっ」

「軽傷、もう一個、もらうね」


 紅葉の声は素のままだった。

 戦闘中の集中力モードと、現役高校生の半笑いの口元と、相手への軽い気遣いが、半歩ずつ重なって出てくる。剣の腹が伊藤の左の脇腹を撫でて、薄い赤の判定光がもう一度点った。


「3組第4班伊藤、軽傷二」


 審判の声。

 累積で伊藤、二。あと一発の軽傷で重傷判定、KO相当。

 影山の指揮の声が、塵の向こうから、また一段速くなった。


「伊藤くん、下がって。結菜さんの方へ」

「下がります、けど、《氷床(フロストバインド)》、抜けない」

「右、迂回を」

「右も、塞がってます」


 影山はそれでも、声を荒げなかった。

 ただ、剣を下げない。

 加藤を守るには遠い。伊藤を戻すには遅い。

 それでも剣先だけは、悠斗の槍の内側に残している。

 退く動きの中に、まだ攻めが混じっていた。


 帯状の氷床の折れの角度が、伊藤の戻りの右側も塞いでいた。

 里奈の「短く真っ直ぐ」の一本に加えて、岡田を止めた長帯の折れがまだ生きている。

 影山の指揮の選択肢が、もう一つ、削れる。


       ◇


 蒼真は弓の握りを乗せ直した。

 月曜日のホワイトボードの七行が頭の中でもう一度立ち上がる。

 三つ目の《小転移》フェイントを、いつ、誰に向けて出すか。

 紅葉が訊いたのは、ついさっきだった。「これ、フェイント二回連続で通ったけど、三回目通ると思う?」――通る、と思って撃つ、と答えた。思って撃つって、それ、思ってるだけじゃん、と紅葉に返された。

 思ってるだけ。でも、思わないと撃てない。

 思ってるだけの根拠を、いま、もう一段確かにしておかなければならなかった。

 三回目の半抜きは、相手の頭の中で「またフェイントか」「今度は本物か」の二択になっている。二択に閉じ込めている時間は長くて二秒。その二秒で答えを「またフェイント」に収束させようとする伊藤の集中の動きを、もう一拍だけ崩す方向に運ばないと、三回目は通らない。

 つまり、三回目は半抜きの所作だけでは足りない。これまでの二回と一段ずらして見せる必要がある。


 蒼真の頭の中で、もう一行書き加わる。

 三回目は、ナイフを抜かない。

 抜かずに、矢筒の右側に乗せた右手を矢筒の中で一拍だけ止める。止めて、その間に左の足を、今度は左ではなく右へ半歩送る。ナイフを投げる素振りすら、見せない。

 けれども、矢の番えの位置と足の向きは、左を匂わせる。

 影山の頭の中で、《小転移》の三択のリストが、四度目の組み替えに入る。


「航」

「来るか」

「三回目、今入れる」

「早いな」

「影山が組み直す前だ。矢十八、ナイフ五本。ここで迷わせる」

「その間に悠斗を刺し込む」

「ああ。半拍あれば足りる」

「了解だ」


 航の返事は短かった。迷いがない。その短さだけで、こちらの判断を一段押してくれる。


       ◇


 蒼真は矢筒に右手を伸ばした。

 九本目を抜きかけて、止めた。

 抜きかけて止める。

 矢の番えの位置は、左寄り。

 弓の軸はそのまま、けれども矢の方向だけを左に振りかけて、ナイフの柄には指を掛けない。

 右手は矢筒の右側のままで、半拍動かさない。

 左の足を、今度は右へ半歩送った。

 送った先には、何もない。

 何もない位置に足を送って、けれども視線の方向は左の石柱の影。

 影山の頭の中で、「神代の選択肢」のリストが、一拍だけ止まるのが、塵の幕の向こうの指揮の声の遅れで分かった。


「岡田さん、神代くん――」


 影山の声が、半秒だけ詰まった。

 岡田はもう退場している。

 影山が口に出しかけて止めた事実は、影山自身の指揮の組み替えが一拍、過去の運用に引っ張られたことを意味していた。

 その一拍が、こちら側の九本目の矢の合図になった。


「拾った!」


 悠斗の声が前衛位置から短く跳ねた。

 影山の踏み込みの戻りの一拍の遅れに、悠斗の槍の穂先が斜めに乗る。

 影山の左の太腿を、悠斗の穂先がほんの一度だけ擦った。

 薄い赤の判定光が点る。


「1組第5班橘――いや、影山、軽傷一」


 審判の声。

 影山の脚力強化の踏み込みに、初めて赤い線が一本入った。

 影山の声が、塵の向こうから、初めて半拍だけ低くなる。


「了解。下がります。結菜さん、回復、お願いします」

「はい」


 影山自身も、ヒーラーの長谷川結菜の《小回復(ライトヒール)》を必要とする状況に入った。

 影山班の総魔力残量が、また一段、確実に削れる。

 影山一人――脚力強化の踏み込み、塵の指揮の声、塵の濃度の組み替え、伊藤の戻りの指示――の頭の中で同時に走らせていた指揮の線が、ヒーラーへの回復依頼の一行を加えた瞬間に、また一拍だけ遅れる。


       ◇


 紅葉の声が中衛右側から短く跳ねた。


「蒼真、影山下がった」

「うん」

「次、誰行く?」

「小林蓮。塵の補強、切る」

「了解」


 小林蓮は塵の補強と、ただの風弾の小規模な散発を担当している。

 加藤の塵が三分の一以下まで落ちた状態で、小林一人で塵の濃度を維持するのは無理だった。それでも小林は塵の左の縁を風で押し戻す動きを続けている。

 つまり、小林は塵の幕の左の縁の近くに位置取りしている。

 紅葉の視野復帰が進んでいる今、小林の位置は、こちら側からほぼ筒抜けだった。

 蒼真は矢筒から十本目を抜いた。

 ナイフの所作は、もう要らない。

 三回目のフェイントで、影山の指揮は組み替えの最中。

 この一射は、フェイントなし、直射、塵の幕の上を抜けて小林蓮の右肩。

 引き分けに入る。

 弓の張りが、いつもの引き分けの位置で静かに止まる。

 冬の朝の空気が、胸の奥でもう一度白く流れた。

 矢を放った。


       ◇


 矢は塵の幕の上端を斜めに掠めて、塵の幕の左の縁、小林蓮の右肩の外側へ。

 薄い赤の判定光が一度だけ点った。

 軽傷ポイント、一。


「3組第4班小林、軽傷一」


 審判の声。

 小林の補強の手が、一拍だけ緩む。

 塵の左の縁の風の押し返しが、その一拍の間だけ止まる。

 止まった一拍の間に、塵の幕の左の縁が、ふっと薄く崩れた。

 紅葉の視野が、左の方向にも完全に通る。

 影山班の班員六人――いや、五人――の位置が、こちら側のフィールドから、ほぼ全部見える状態になった。


「真帆」

「はい」

「《光球(ライト)》、四個目、左の塵の縁の上に。小林の頭上」

「四個目、了解です」


 真帆の杖の指先が動いた。

 四個目の白い光球が、塵の幕の左の縁の上、小林蓮の頭上で立ち上がる。

 小林の視線が、その光球に引っ張られて半拍だけ上を向いた。


「悠斗」

「おう」

「左、押せ。小林、目線、上に行ってる」

「押す」


 悠斗の槍が斜めに走った。

 塵の幕の左の縁を横切って、小林蓮の正面まで五歩。

 小林が視線を戻した時には、悠斗の槍の穂先が、もう小林の鳩尾の手前一メートルまで来ていた。

 小林の風魔法は、近接の対応速度では悠斗の槍に届かない。

 穂先が鳩尾の手前を、深く突いた。

 重い判定光が点る。


「3組第4班小林、KO」


 審判の声。

 塵の左の縁の風の押し返しが、完全に止まった。

 塵の幕の左半分が、加藤の杖の握りの緩みと、小林の退場の二つの理由で、はっきりと薄くなった。

 もう、塵は視線切り戦術の主軸ではなくなっていた。


       ◇


 加藤奈々の杖の柄から、両手が一度離れた。離れて、すぐ握り直したが、塵の幕の右半分の補強までは届かない。加藤一人で右半分だけを薄く保っている状態だった。

 影山の指揮の声が、塵の右半分の向こうから飛んだ。


「結菜さん、加藤さんの方を、優先で」

「はい」

「伊藤くん、私の右側に戻れますか」

「戻ります、けど、氷床」

「短い方の氷床は、もうたぶん消える頃です。私の脚力強化で抜けます。一緒に下がりましょう」


 影山の指揮の声に、初めて「下がる」の単語が乗った。

 攻めから守りへの組み替え。

 それでも、声の丁寧さは崩れていない。

 班員に責める成分を抜いた指揮を、最後まで保つ姿勢。

 厄介な相手だ、と蒼真はもう一度思った。

 厄介な相手であるという事実が、こちら側の集中を、最後にもう一段、締めてくる。


「航」

「見えた。影山たちはヒーラーを守りに固まる」

「加藤は離れた。塵の右端で維持してる」

「分断できるな」

「できる。里奈、加藤側へ氷壁を出せるか」

「出せます班長」

「加藤と影山たち三人の間、塵の右の縁の中、斜めに一枚」

「斜めに一枚、了解」


 里奈の杖の先から、白い結晶が縦に立ち上がった。

 氷床ではなく、氷壁。塵の幕の右の縁の中、加藤奈々の杖の位置と、影山たち三人の位置の間を斜めに切る、薄い縦の壁。

 加藤と、影山班の残る三人の間に、こちら側からの射線を遮らない斜めの壁が、一枚立つ。

 加藤の塵維持を、影山たちが守れない位置に閉じ込める形だった。


       ◇


 影山の指揮の声が、初めて、半拍長く止まった。


「――結菜さん」

「はい」

「加藤さんは、私たちからの距離が出ます。塵維持の魔力、無理に絞らせないでください」

「はい」

「加藤さん、聞こえてますか」

「はい、班長」

「塵、もう保てるところまでで構いません。杖が落ちる前に止めて、自分の身体を守ってください」

「分かりました」


 影山の指示は、加藤の塵維持の解除と、加藤自身の防御への切り替えだった。塵の主軸を完全に手放した。戦略家として、塵の幕の視線切り戦術がもう機能しないと認めた瞬間だった。

 けれども、影山の声は最後まで丁寧で、加藤への気遣いを抜かなかった。

 加藤の杖の握りが一拍緩む。塵の濃度が、見る間に落ちていく。


       ◇


「蒼真」

「うん」

「塵、もう、ほとんど消えた」

「うん。視野、全部通ってる」

「次、加藤か、影山か」

「加藤」

「いいの? 影山が前で構えてるけど」

「加藤先に切らないと、塵がまた濃くなる可能性が残る」

「了解」


 紅葉の声に半笑いの輪郭が混じった。

 集中力モードの目の張りの中に、現役高校生の表情がもう一度、ほんの一秒だけ戻ってくる。


「えっと、蒼真」

「どうした」

「これ、私たち、勝ちそう?」

「勝ち筋は見えてる。でも最後まで動線は切らすな」

「ふふん。じゃあ、加藤さんの逃げ道、最後まで見ておく」

「頼む」


 紅葉のショートソードが、鞘に半分戻る。

 紅葉の視線が、加藤奈々の杖の握りと、塵の右の縁の薄い揺れの両方を、同時に視野の中に収めていた。

 蒼真は十一本目の矢を矢筒から抜いた。

 引き分けに入る。加藤の右肩の外側、ヒーラーから距離が出た位置、氷壁で影山たちから分断された場所。軽傷一をもう一発取れば、加藤は累積二で重傷判定。

 矢を放った。

 矢は塵の薄くなった幕の中央を斜めに通り抜けて、加藤の右肩の外側を擦った。

 薄い赤の判定光が点る。


「3組第4班加藤、軽傷二」


 審判の声。

 加藤の杖が、両手から完全に離れて、フィールドの石の床の上に落ちた。塵の濃度が消える。


「3組第4班加藤、KO」


 審判の声。


       ◇


 影山律の声が、塵の消えたフィールドの右側から、はっきりと聞こえた。


「加藤さん、お疲れさまでした」

「ごめんなさい、班長」

「謝らなくていいです。ここまで、よく塵を保ってくれました」


 加藤奈々が、フィールドの脇のスタッフに付き添われて退場ゲートの方へ歩いていく。

 影山の指揮の声は、最後まで丁寧で、加藤の塵維持の働きを正面から評価していた。

 蒼真は弓の握りを乗せ直して、矢筒の残りを目で確かめた。

 残り十五本。ナイフ五本。試合経過、九分四十秒。残り時間五分二十秒。影山班、残り三人。こちら側、六人全員、判定光なし。

 月曜日のホワイトボードの七行が、頭の中で静かに次の一行へ進んでいた。


       ◇


「悠斗、航、紅葉、里奈、真帆」

「おう」「見えてる」「はい班長」「はい」

「影山と伊藤は削れてる。長谷川さんだけ無傷だ」

「先に、ヒーラー?」

「ああ。ここで回復を残すと、影山がもう一度戻る。先に切る」

「了解。前は引きつける」

「了解だ」

「悠斗、航、影山と伊藤を、こっち側に引きつけてくれ。長谷川さん、ヒーラーは、後衛位置から動かない。射線、通す」

「引きつける、了解だ」

「行く」


 悠斗と航が、二人並んで前衛位置から塵の消えたフィールドの中央へ斜めに踏み出した。

 影山の脚力強化の踏み込みが、二人の前で半身に逸らされる。伊藤の戻りは、まだ氷床の手前で止まっていた。

 影山と伊藤の動線が、こちら側の前衛二人に引きつけられる。

 長谷川結菜は、後衛位置から動かない。動けない。動くと影山と伊藤の回復が間に合わなくなる。

 動かないということは、こちら側の射線が、真っ直ぐに通るということだった。

 蒼真は弓を引いた。

 引き分けに入る。

 矢の角度は、塵の消えたフィールドの中央を、まっすぐに横切る通常射。

 長谷川結菜の右肩の外側を、ほんの十センチほど長く擦る軌道。

 矢を放った。


       ◇


 矢は、まっすぐに飛んだ。

 塵の幕は、もう、ない。

 視線切りも、ない。

 影山の指揮の声も、影山自身が悠斗の槍の正面に立っているために、塵の中での声の指揮は機能しない。

 長谷川結菜が、自分一人で、後衛位置から飛んできた矢を見て、回避を試みた。

 試みたが、間に合わなかった。

 ヒーラーの白魔法使いは、回避のためのスキルを持たない。

 矢は、長谷川結菜の右肩の外側を、十センチほど長く擦って、薄い赤の判定光を一度だけ点した。

 けれども、その擦りの深さが、ヒーラーにとっては致命だった。

 その判定箇所への入り方が、累積ではなく一発判定で重傷相当に乗ったのだ。

 矢は、矢筒に戻る軌道で、フィールドの石の床に転がる。


「3組第4班長谷川、KO」


 審判の声。

 影山と伊藤の回復役が、消えた。


       ◇


 影山の声が、フィールドの中央から、初めて、丁寧さの輪郭の外に半歩だけ出た。


「結菜さん――」


 たった一言。

 そして、影山はすぐに丁寧さの輪郭の内側に戻った。


「伊藤くん、距離を取りましょう。私たち二人で、もう一度組み直します」

「はい、班長」


 伊藤の声に、半拍の遅れが乗っている。

 軽傷二、KO手前。

 影山自身も、軽傷一。

 ヒーラーは、ない。

 影山班の総魔力残量は、まだ完全には尽きていないけれども、戦略家の頭の中で組み替えられる選択肢は、もう、片手で数えられる本数しか残っていなかった。


       ◇


「蒼真」

「あと二人だな」

「五分二十秒。フェイントはもう要らない」

「ああ。ここからは見せ札じゃない」

「直射か」

「伊藤を先に切る。逃げる前に撃つ」

「了解だ」


 航が短く返した。

 参謀役の頭の回転は、最後の局面でも、いつもの温度で先回りしていた。

 蒼真は矢筒から十三本目を抜いた。

 残り十二本。

 影山と伊藤が、フィールドの中央で背中合わせに立つ。剣士の影山が前を、斥候の伊藤が後ろを担当する組み直し。

 けれども、伊藤の脚力では、もう氷床の上を越えられない。短い帯状の氷床は、まだ生きている。

 引き分けに入る。

 矢を、伊藤の右肩の付け根へ。

 軽傷二の累積に、もう一発。

 矢を放った。

 矢は塵のないフィールドの中央を真っ直ぐ飛んで、伊藤の右肩の付け根を、ほんの十センチほど長く擦った。

 薄い赤の判定光が、累積判定の三発目として点る。


「3組第4班伊藤、KO」


 審判の声。

 影山律一人だけが、フィールドの中央に残った。


       ◇


 影山律は、剣を構え直した。

 脚力強化の踏み込みはまだ生きている。生きているが、一人で蒼真班六人を相手にする戦略は、戦略家の頭の中に存在しない。

 影山の指揮の声が、誰にも届かないまま空気の中に残った。

 蒼真は弓の握りを左手の指先で乗せ直した。

 矢の番えに、もう一拍だけ長く息を入れる。影山律という班長への、こちら側からの敬意の一拍だった。

 矢を放った。

 矢はフィールドの中央を真っ直ぐ飛んで、影山の左肩の付け根を、ほんの十センチほど長く擦った。累積判定の二発目。重傷相当。


「1組第1班、勝利」


 審判の声が、スピーカー越しに、はっきりと流れた。

 観客席のざわめきが、一度大きく波打って、フィールドの石の床の上に降りてきた。


       ◇


 試合時間、十分四十二秒。

 蒼真班、無傷で勝利。

 影山律は剣を鞘に収めて、フィールドの中央で背筋を伸ばし直した。蒼真と目が合った。

 視線の交差は半秒。けれども、半秒の中に冷静な戦略家としての評価と、班員に責める成分を抜かなかった指揮官の姿勢の両方が、塵のないフィールドの空気の中で確かに伝わってきた。

 蒼真は和弓を一度だけ正面に立てて、影山律に向けて短く頭を下げた。

 影山律も剣を正面に立てて、短く頭を下げた。

 班長同士の、無言の挨拶だった。


       ◇


 退場ゲートの方へ歩きながら、悠斗の声が後ろから跳ねた。


「十分四十二秒だってよ」

「うん」

「これも、航が表計算アプリに残すんだろ」

「残す」

「八分四十二秒、十分四十二秒、なんで二秒の倍数なんだよ。お前ら、合わせて来てるだろ」

「合わせてないよ」

「いや、絶対合わせてるって。狙ってるって。意図的だって」


 紅葉の声が後ろから半笑いで割って入った。


「悠斗、声、まだデカいよ」

「ここまで来たら関係ねえだろ!」

「あー出た、勝った後の声デカ」

「うるせえ!」

「うるさい、じゃないんだなあ」

「言葉のあやだよ言葉のあや!」


 里奈の声が、その後ろから静かに乗ってきた。


「氷床、三本目、短くて、よかったですか」

「よかった。あれで伊藤の戻り、止まった」

「ありがとうございます」


 里奈の声に、半拍だけ笑いの輪郭が混じった。

 真帆の声が、その隣から半歩遅れて重なる。


「《光球(ライト)》、四個目、入れてよかったですか」

「うん。あれで小林の視線、上に行った」

「よかったです」


 真帆の杖は、両手で握り直されたまま、ベンチ脇に置かれるのを待っていた。

 ノートは、トートバッグの中で動かなかった。


       ◇


 退場ゲートの薄暗い通路に、班員六人の足音が並ぶ。

 七分十五秒の八本目から、十分四十二秒の終了までの三分半は、月曜のホワイトボードの七行がそのまま動いた時間だった。

 加藤の塵維持を切って、伊藤を止めて、三回目のフェイントで影山の指揮を一拍止めて、五枚を順番に切る。塵維持、補強、ヒーラー、斥候、班長。影山班の指揮の選択肢を一つずつ削る順番。

 ただ、書いていた線そのままではなかった。三回目のフェイントを「ナイフを抜かない」に組み替えたのは、紅葉のひと言が、頭の中で新しい行を立ち上げてくれたからだった。

 一人では立たなかった行。六人で立てた行。


 蒼真は和弓の弦を指の腹で軽く撫でて、張りを確かめた。

 控室の扉が、通路の先で薄く明るく見えていた。

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