第107話 囮としての《小転移》
矢を番え直した。
四本目。塵の上を抜ける角度に、引き分けを乗せる。
塵の幕は形を保っている。それでも加藤奈々の両手が、杖を抱え直す輪郭だけは塵の隙間からもう一度透けて見えた。十秒前より一段、はっきり見える。紅葉も視野復帰が進んでいるだろう。
弓を引いた。
いつもの引き分けより半度だけ斜め上に倒す。曲弦射ではない。引き分けの角度の調整だけで、矢の軌道を塵の幕の上半分に乗せる。
「蒼真、もう一回、削るか」
「削る。今度は加藤、本人の杖、狙う」
「腕には当てない?」
「当てない。杖を撫でて、握りを緩めさせる」
航が短く返した。
矢羽の角度を一拍だけ確かめてから、放った。
矢は塵の幕の上端を斜めに掠めて、加藤の杖の柄の手前二十センチを掠めていった。判定光は点らない。けれども加藤の右手の指が一拍だけ開き、塵の濃度がまた落ちる。
幕の中央あたりに、視線が通る幅一メートル半の穴が、二秒ほど空いた。
その二秒の間に、蒼真は矢筒の右側へ右手を乗せた。
ナイフの柄に、指先を半分だけ掛ける。
半分だけ。
抜きはしない。
けれども抜きかけた所作の輪郭は、塵の幕の向こうにいる誰かの視界へもう何度か映ったはずだった。
◇
「来てる、また、私のとこ」
紅葉の声が中衛右側から短く跳ねた。
影山が斥候二枚を呼び戻したのは三十秒前だった。けれども呼び戻した二枚は塵の中で位置をずらし、また紅葉の側面と背中へ距離を詰めにかかっている。指揮、速い。岡田と伊藤――張り付き型の動線が、二度目の波で再起動した。
「無理に追わなくていいぞ」
「うん。位置だけ流す。岡田、私の左十時方向。伊藤、私の真後ろ六時方向」
「拾った」
航が短く受けた。
紅葉のショートソードが鞘から半分抜けて、岡田の踏み込みを軽く弾く。剣の腹で受けて、半歩下がって距離を取る。
岡田の踏み込みを逃がした瞬間、紅葉の左肩が沈んだ。
受け止めたのではない。逃がしただけだ。
けれど、逃がした先に伊藤の気配がある。
「班長、視線、切られる」
声は軽かった。
けれど、語尾だけが少し速い。
紅葉が焦っているのではない。焦る前に、情報だけを班へ投げている。
ナイフを半分だけ抜く。影山の視線が、ほんの一瞬だけそこへ寄る。それでいい。本物かどうかを考えた分だけ、相手の足は遅れる。
もう、相手の目はナイフを覚えている。
柄に指が触れるだけで、影山の指揮が半歩だけこちらへ寄る。
岡田の足が、紅葉から離れる準備をする。
伊藤の肩が、石柱の影を探す。
なら、その半歩を使う。
ということは、と蒼真は思った。
四度目こそ、半抜きから、本体に繋げる。
◇
「蒼真」
「うん」
「次、入れるか」
「入れる」
「位置、どこ抜ける?」
「左の石柱、影」
「了解。悠斗、押せ。影山を引きつけてくれ」
「了解!」
悠斗が槍を構え直して、塵の幕の左の縁を斜めに突っ切るように前進した。
影山が剣を抜き直し、悠斗の槍を剣の腹で受ける。受けながらも視線の半分はこちらに残してきている。剣士の踏み込みを止めない指揮力――丁寧な口調と冷静な戦略家の二面が、塵の向こうから今日もちゃんと立っている。
その視線の上に、蒼真は四射目を放った。
今度は塵の幕の上を抜けて、加藤の右脇の空中を斜めに横切る射。これも判定取りが目的ではない。塵の維持に、もう一拍の負荷を強いるためだけの射だ。
矢が放たれた瞬間に――蒼真は右手をナイフの柄に乗せた。
半分。
いつもの半抜き。
けれども、半抜きで止めずに、そのまま親指の腹で柄頭を押し出した。
ナイフの柄が、ぐっと斜めに飛び出す。
半分の所作から、抜く所作へ。
影山の指揮の声が、塵の向こうから一拍だけ遅れた。
「岡田さん、神代くん、ナイフ抜きました」
「位置、左の石柱、影」
「斥候戻って。鬼塚さんから離れて」
影山の指示は丁寧で迷いがない。
迷いはない。けれども塵の向こうの声には、ほんの一拍の重さが乗っていた。
その重さの中で、紅葉の側面と背中への張り付きがまた緩む。
二度目の離脱――短い局所的な穴。
その穴の中に、蒼真は左の足を半歩、横へ送った。
移動はしない。
半歩、送るだけ。
送るだけ送って、そこで右手のナイフを左の方向へ投じた。
ナイフは弧を描く。塵の幕の左の縁、悠斗が突っ切った縁の手前で石の床に当たり、乾いた金属音を立てて転がった。
判定光は当然、点らない。
ナイフの当たった場所は、左の石柱の影の奥の手前、岡田が二度目の離脱で塵の中に戻ろうとしている動線のすぐ脇。
影山の指揮の声が、塵の向こうから一段速くなった。
「岡田さん、左の石柱、神代くんが転移しました」
「了解、左、見ます!」
岡田が振り向きざまに、左の石柱の影の奥に視線を投げた。
岡田の首が、左から戻りかけた。
速い。
騙されたと気づくまでが、思っていたより半呼吸早い。
それでも、右肩はまだ戻っていない。
矢一本分の幅だけ、岡田の右肩の外側がまだこちらに残っている。
その視線の半秒の隙に――蒼真の五本目の矢が、塵の上を抜けて、岡田の右側面の空中を斜めに横切った。
矢は岡田の右の二の腕を擦って、薄い赤の判定光が一度だけ点った。
軽傷ポイント、一。
けれども蒼真の右手は、矢を放ったその場所から動いていない。
《小転移》は、発動していない。
ナイフは投げただけ。
矢は元の射撃位置から放っただけ。
岡田が振り向いた左の石柱の影には、何もいなかった。
半秒前まで張り付きの先頭にいた斥候の集中力が、その「何もいない」の発見の遅れで、半呼吸分だけ崩れた。
その半呼吸が、矢の判定一発分の隙だった。
観客席のどこかで、息を呑む音が重なった。
歓声にはならない。
何が起きたのか、まだ追いついていない。
転移ではない。
けれど、転移したと思わせた。
その遅れだけで、判定光は点る。
◇
「入った!」
「岡田さん、軽傷一! 追加来ます!」
影山の指揮の声が、塵の向こうから今日いちばん速くなった。
悠斗が前衛位置で槍を持ち替えて、影山の右側に踏み込む。航が悠斗の半歩後ろから影山の戻りを切る。前衛二枚の連携で、影山の脚力強化をもう一度押し下げる。
紅葉の声が中衛から短く戻った。
「蒼真、転移しなかったね」
「ああ。転移したと思わせただけだ」
「岡田がまた来てる」
「もう一回、同じ合図を見せる」
「同じので迷う?」
「迷う。今度は本物かもしれない、って一拍だけ止まる」
「……うわ、嫌なやつ」
「その一拍で足りる」
紅葉が半笑いで頷いた。
集中力モードの目の輪郭の張りの中に、ほんの一瞬だけ、現役高校生の表情が戻ってくる。
「うわ、嫌な戦法」
「ごめん」
「謝らなくていいけど」
紅葉はそれだけ言って、また視野を塵の幕の奥に戻した。
張り付きの再開を、もう一回受けるための準備だった。
◇
「里奈」
「はい班長」
「《氷床》、出せるか」
「出せます」
「岡田と伊藤の動線の上、帯状で頼む」
「帯状、了解」
「真っ直ぐ一本ではなく、軽く折って」
「折ります。折って、二人の動線の交点を、塞ぐ感じで」
「それでいい」
里奈の杖の先から、白い結晶が床の上に這い出した。
円形ではない。帯。十一月の月例実習で初めて出した《氷床》の応用運用の形。床に這わせ、敵の足元を線状に縛る。直線一本ではなく、塵の幕の手前で軽く折り曲げる。岡田と伊藤の張り付き動線が交わる場所に展開する。
白い帯が、塵の薄茶色の幕の手前で、フィールドの石の床の上に冬の朝の光を反射した。
影山の声が塵の向こうから飛んだ。
「岡田さん、伊藤くん、足元に氷床」
「踏みました、滑る!」
「俺も足、止まりました!」
二人の斥候の声が、塵の中から短く跳ねた。
帯状の氷床は走るための床ではない。踏んだ瞬間に靴底が滑り、踏み込みの推進力が抜ける。脚力強化の影山なら靴底に踏ん張りを乗せて抜けられるが、岡田と伊藤の脚力ではそれは無理だった。
その止まった動線の上に、蒼真は六本目の矢を放った。
今度は塵の上ではない。
帯状の氷床の上、岡田の足が滑って体勢が崩れた、その崩れの幅の中。
矢は岡田の左の太腿を、ほんの十センチほど長く擦って、薄い赤の判定光がもう一度点った。
軽傷ポイント、二。
累積で岡田、二。
ヒーラーの長谷川結菜が塵の中で動いた気配が、こちら側に伝わってくる。
「岡田さん下がって、結菜さんの方へ」
「無理です、氷床、抜けない」
「右、回り込みを」
「右も、塞がってます」
影山の指揮の声に、また一拍の遅れが乗った。
帯状の氷床の折れの角度が、岡田の右側の動線も塞いでいた。里奈の「折って、二人の動線の交点を塞ぐ感じで」という判断が、影山の右回り込み指示を物理的に奪っていた。
岡田の体勢が、もう一拍崩れる。
その崩れの上に、悠斗の槍がもう一度立った。
帯状の氷床の手前で、悠斗は氷の上に乗らずに踏み止まって、槍の穂先だけを長く伸ばす形で岡田の左肩を狙った。
穂先が、岡田の左肩の付け根を、深く突いた。
判定光が三度目に点った。
軽傷ポイント、三――重傷ポイント、相当。
審判の声がスピーカー越しに短く流れた。
「3組第4班岡田、KO」
観客席のざわめきが、塵の幕の上を一度だけ波打って流れていった。
◇
「岡田さん、退場します」
「了解しました。残り五枚、組み直す」
影山はまだ崩れていない。岡田を失っても、声の速さは落ちず、残った五人をすぐ次の形へ戻そうとしていた。
けれども岡田が退いたことで、塵の幕の内側から紅葉を潰す手は一つ消えた。影山はまだ動ける。だが、選べる道は確実に狭くなっていた。
航が蒼真の半歩後ろで、口角の片側をほんの少しだけ上げた。
「蒼真」
「通ったな」
「一回目はな。もう一回、入るか」
「入れる。ただし二回目の遅れは短い」
「短くても一発分あればいい」
「分かってる。その一発を、こっちで取りに行く」
航が短く返した。
参謀役の声はいつも通りだった。けれどもその下に、悠斗の声に近い熱の輪郭がほんの少しだけ混ざっていた。
航もたぶん、面白がっている。
蒼真は弓の握りを左手の指先で乗せ直して、矢筒に右手を伸ばした。
残りの矢、二十一本。
「真帆、《光球》もう一個出せる?」
「出せます。三個目、ですよね」
「うん。塵の上、右寄りに」
「右寄り、了解です」
真帆の杖の先から、もう一つの白い光球が静かに立ち上がった。
今度は塵の幕の上端の右寄り、伊藤の頭上あたりに。風魔法使いの加藤、もう一人の風魔法使いの小林蓮、斥候の伊藤。この三人を上から白い光で囲い込む形になった。
影山の声が塵の向こうから飛んだ。
「《光球》、三個目。視線頼みます」
「無理です、班長」
加藤奈々の声が、初めて、丁寧さの輪郭から半歩外れていた。
杖の握りを抱え直す両手の力まで伝わってくるような声だった。
「加藤さん、無理しないでください。維持できる分だけでいいです」
「ごめんなさい、班長」
「謝らなくていいです。塵、半分の濃さでいい。あとは、こちらで組みます」
影山の指揮の声は、今日いちばん丁寧だった。
加藤に向けた言葉から、責める成分はきれいに抜かれていた。冷静な戦略家であると同時に、班員の魔力残量を責めない指揮官の姿が塵の向こうから伝わってくる。
厄介な相手だ、と蒼真は思った。
厄介な相手であるという事実が、こちらの集中をもう一段締めてくる。
悠斗の声が前衛位置から短く飛んだ。
「蒼真、影山来てるぞ」
「ああ、分かってる」
「俺、止めるか?」
「止めなくていい。受け流してくれ」
「受け流す、了解だ」
悠斗が槍の柄を握り直して、影山の踏み込みを正面から受けるのではなく、半身に逸らす構えに切り替えた。
影山の脚力強化はまだ生きている。岡田を失った穴を、影山自身の前衛火力で塞ぎ直しにかかっているのだ。剣の角度が塵の幕の手前の悠斗へ丁寧に踏み出されてくる。
その踏み出しの戻りの一瞬を、航の剣が斜めに切る。
二人の前衛が、影山の二重圧の片方をきっちり押し下げていた。
その押し下げの上に、もう一度、蒼真の構えが乗る。
◇
矢筒に右手を伸ばした。
八本目を抜く前に、ナイフの柄に、もう一度指先を掛けた。
半分。
ただし今度は、半抜きの所作の輪郭を一回目とは少しだけ変える。
一回目は、矢を放った直後にナイフを抜いて投げた。
二回目は、その順序を逆にする。
ナイフを先に半抜きで止める。
止めて、矢を番える。番えてから、ナイフの柄頭を親指の腹で押し出す。
矢の引き分けと、ナイフの抜きが、同じ呼吸の中で重なって見える。
影山の頭の中で「神代の選択肢」のリストが、もう一度組み替わるはずだった。
「蒼真、伊藤、動いてる」
「見えてる」
「右の石柱、影。迂回してこっち来てる」
「来させる」
「え、放っておくの?」
「ナイフの合図に使える。近い方が、嘘に見える」
航が短く頷いた。
集中力モードの目の輪郭の張りから、参謀役の頭の回転がもう一段速くなっているのがこちら側にも伝わってくる。
伊藤は右側から迂回してきている。
ということは、ナイフを左に投げれば、伊藤は「左に転移してきた」と誤認しようとする。
けれども、伊藤は岡田の崩れ方を直前で見ている。
二回目の半抜きを、相手はもう「ただの所作」では受け取らない。
つまり――今度は、ナイフを左に投げて、矢を本当に左の方向へ放つ。
左の石柱の影への「転移」を匂わせて、実際は元の射撃位置から、左方向の射線を斜めに通す。
左の石柱の影には、何もない。
ないという事実の発見が、伊藤の集中の半呼吸分だけを、また奪う。
その半呼吸の中で、左方向に流した矢が、伊藤の右肩を擦る。
◇
矢を番えた。
ナイフの柄頭を、親指の腹で押し出した。
ナイフは弧を描いて、左の石柱の影の手前の床に当たり、乾いた金属音を一度だけ立てて転がった。
二度目の、同じ場所だった。
伊藤の視線が、半秒だけ、左の石柱の影に流れた。
その半秒の隙に――矢が放たれた。
今度は塵の上ではない。塵の幕の左の縁の外側、伊藤が右から迂回してきた動線の戻りの位置に、左方向への直射を斜めに流す。
矢は伊藤の右肩を擦って、薄い赤の判定光が一度だけ点った。
軽傷ポイント、一。
半呼吸の遅れは、岡田の時より明らかに短かった。
短かった。けれどもその短さの中で、矢一本分の判定は確かに通っていた。
「入った!」
「伊藤くん、軽傷一」
「了解、下がります」
伊藤の声が塵の幕の中から短く跳ねた。
影山の指揮が、すぐに次の指示を出す。
「結菜さん、伊藤くんへ《小回復》、お願いします」
「はい、回します」
白魔法使いの長谷川結菜が、塵の中で杖を構え直した気配があった。
軽傷一なら、《小回復》で立て直せる。
立て直されるのは、想定の範囲だった。
けれども、立て直しの間にヒーラーが伊藤の回復に魔力を使う事実は、影山班の総魔力残量をもう一段確実に削っていた。
航が短く言った。
「蒼真、削れてる」
「削れてる」
「あと加藤の塵維持が、たぶん、もう三十秒もたない」
「三十秒で、もう一押し入れる」
「悠斗、押せるか?」
「押せる」
悠斗が槍の穂先を、影山の正面に向け直した。
影山の剣の角度が、塵の幕の手前で、もう一度立て直される。
脚力強化の踏み込みは、まだ生きている。
生きているが、その踏み込みの戻りの速度に、ほんの一拍の遅れが何度か乗るようになっていた。
◇
「真帆」
「はい」
「悠斗の左肩、念のため《光盾》、構えといて」
「はい」
真帆の杖の指先が、わずかに動いた。
杖の柄を握り直す音は、こちら側まで聞こえてこないほど静かだった。回復魔法発動前の指先の運びと《光盾》発動前の指先の運びは、こちら側からは見分けがつかない。けれども真帆の視線は、悠斗の左肩の角度と影山の剣の軌道を同時に視野へ収めていた。
ヒーラー的視野の全体俯瞰が、いつも通り、班員六人の動線の上を静かに流れている。
「里奈」
「はい班長」
「氷床、もう一本、伊藤の戻りの動線に出せる?」
「出せます」
「出してくれ」
「了解、班長」
里奈の杖の先から、二本目の白い結晶が、塵の幕の左の縁の手前で床の上に這った。
今度は短い帯。岡田の動線を塞いだ折れた長帯ではなく、伊藤の戻りの動線だけを横切る短い直線。
伊藤の足元の戻りが、その短い氷床の手前で、もう一拍だけ止まる。
止まるけれども、KOには届かない。
届かない。けれども長谷川結菜の《小回復》の射程は、その止まりの分だけ伸びる。
ヒーラーの位置が、塵の中で半歩だけ伊藤の方へ寄ろうとする。その気配が、紅葉の視野復帰の声で伝わってきた。
「結菜さん、半歩、左に動いた」
「拾った。蒼真、ヒーラーの位置、塵の縁。手が届く範囲に出てきた」
「うん。けど、ヒーラー、今日は撃たない」
「撃たない?」
「うん。撃つと影山の指揮がもう一回組み直される。今は加藤の塵維持をまず切る」
航が短く頷いた。
「了解。加藤優先で」
「うん」
紅葉の声が、その後ろから半歩だけ被さってきた。
「ねえ蒼真」
「うん」
「これ、フェイント二回連続で通ったけど、三回目通ると思う?」
「通る、と思って撃つ」
「思って撃つって、それ、思ってるだけじゃん」
「思ってるだけ。でも、思わないと、撃てない」
「あー、それはわかる」
紅葉はそれだけ言って、半笑いのまま視野をまた塵の幕の奥に戻した。
集中力モードの目の張りの中に、今日いちばんの素の表情が、ほんの一秒だけこちらの視界の隅に映って消えていく。
現役高校生の表情だった。
集中の合間に挟まる、ふっと抜ける一秒。
それがいつもの紅葉だ、と蒼真は思った。
◇
影山の指揮の声が、塵の向こうから、また一段速くなった。
「小林くん、塵の左の縁、補強できますか」
「やります」
「結菜さん、伊藤くんの《小回復》、終わりましたか」
「あと五秒です」
「了解。五秒、保ちます」
影山の組み直しは、岡田を失った穴を、加藤の塵維持と小林の補強と結菜の回復で塞ぎ直す形に切り替わっていた。
風魔法二枚で塵を保ちつつ、伊藤を立て直して、こちらの神代の射線をまた塞ぎにかかる。
戦略家の頭の回転は、まだ生きている。
生きているが、その回転の前提だった「斥候二枚での張り付き」が岡田の退場で半分しか機能しない事実は、影山の指揮の選択肢を確実に一段狭くしていた。
厄介な相手だ、ともう一度、蒼真は思った。
厄介な相手の頭の中で、選択肢を一つずつ削っていく。
それが今日の運び方だった。
悠斗が前衛位置から半歩、足を踏み替えた。
「蒼真、影山、また踏み込んでくるぞ」
「うん」
「俺、もう一回逸らす?」
「逸らしてくれ。航、悠斗の戻りに合わせて影山の左を削れ」
「了解」
航が短く返した。
悠斗の槍が斜めに走って、影山の脚力強化の踏み込みを半身に逸らす。逸らされた剣の腹が悠斗の槍の柄を擦って、塵の幕の手前で音を立てる。
その音の上に、航の剣が斜めに乗った。
影山の左肩を、航の剣の先がほんの一度だけ掠めた。
判定光は点らない。
点らないけれども、影山の踏み込みの戻りに、また半拍の遅れが乗った。
その半拍が、こちら側の三人――蒼真と航と紅葉――の頭の中で、同じ計算式の上に乗っていた。
◇
真帆の杖の指先が、もう一度動いた。
今度はわずかではなかった。
杖の柄を両手で握り直して、白い輝きが指の根元から立ち上がる。
悠斗の前で、塵の幕の左の縁から薄い風の粒子が一つ、上方に立ち上ろうとしていた。
小林蓮の風魔法だ。
《風塵》だけではなく、ただの風弾の小規模な一発を、塵の補強と同時に悠斗の方へ流してきている。
「悠斗さんの左肩、《光盾》、構えます」
「頼む」
真帆の杖から、薄い白い輝きの円盾が、悠斗の左肩の前に静かに立ち上がった。
その瞬間、塵の幕の左の縁から流れてきた小さな風弾が《光盾》の表面に当たり、軽い音だけを残して消えた。
判定光は両側とも点らない。
点らなかった。けれども小林蓮の一射を真帆の《光盾》で塞げた事実は、こちら側の防御の幅がまだ残っていると班員六人へ伝えていた。
「真帆ちゃん、ナイス」
「ありがとう、里奈ちゃん」
里奈と真帆の声が、後衛で半歩だけ重なった。
短い、けれども確かな掛け合いだった。
集中の合間に挟まる、もう一秒の素の表情が後衛の二人の間にも流れていた。
蒼真は弓の握りを、左手の指先でもう一度乗せ直した。
矢筒の残数、十九本。
ナイフ、五本。
《小転移》フェイントの三回目を、いつ出すか。どの順序で、誰に向けて出すか。
その問いが、頭の中で月曜日のホワイトボードの七行の上にもう一度立ち上がっていた。
◇
試合開始から七分十秒。
塵の幕の濃度は、もう半分以下に落ちていた。加藤奈々の杖の両手の輪郭が、塵の隙間から完全に透けて見える。
影山の指揮の声は、まだ丁寧で迷いがない。
けれども、その丁寧さの下で五人の班員の動線が一つずつ削られていく。その感覚は、フィールドの石の床を通して蒼真の足裏に伝わってきていた。
冬の薄い曇り空の下で、銅鑼の余韻はもうとっくに消えていた。
代わりに残っているのは、塵の幕の上を流れる観客席のざわめきだった。そこに班員六人の足音と、和弓の弦の張りの静かな音が重なっている。
次の一射は、加藤の杖を今度こそ撫でるだけでは終わらせない。
そのつもりで、八本目の矢を、矢筒から抜いた。




