第106話 機動型との対峙
二月中旬の朝。空は薄く曇っていた。
錦町のマンションを出た蒼真は、前日と同じ道を立川駅の方へ歩いた。気温は前日と同じ五度。風は北寄りで、頬の右側だけがちりちりと冷たい。和弓ケースの持ち手が手のひらの湿り気を吸って馴染んでいた。
昨日との違いは、たぶん身体の中にあった。
拳を一度握って開いてみる。指の付け根の腱がいつもより少しだけ硬い。ただ痛みではない。試合の翌朝に出る、よくあるやつだ。
立川駅前のロータリーで、班員五人と合流した。
「おはよー、班長」
「おはよう」
「悠斗声小さい。あれ? 寝起きか?」
「あー。寝起きで声出ねえだけだと思う」
「えー、いつもはもっとデカいじゃん」
「うるせえよ、紅葉」
悠斗が肩をすくめて、その横で航が冬の薄手の手袋を外しながら、こちらを見た。
航の視線はいつも通り、まず蒼真の足元から始まる。
「歩幅、昨日と同じ」
「同じだよ」
「そうか」
「うん」
航は短く返しただけで、それ以上は何も付け足さなかった。
代わりに紅葉が後ろから半歩寄ってくる。
「私は、ばっちり寝た。九時間」
「寝過ぎ」
「寝てちょうどなの。視力強化、寝ないとほんとに鈍るんだから」
「言い訳上手いな、お前」
「言い訳じゃないってば」
紅葉が悠斗を軽く小突いて、けらけらと笑った。
その笑い声が朝のロータリーの冷えた空気をまとめて温めていく。
里奈と真帆が並んで歩きながら、半笑いで二人のやりとりを眺めていた。
「里奈ちゃん、お母さんの『行ってらっしゃい』、今日も二回?」
「ううん、今日は一回」
「一回?」
「『今日も頑張って』が今日の二つ目だったの」
「うわ、いいなあそれ」
真帆が小さく笑って、トートバッグの肩紐をかけ直した。
その横で里奈が「真帆ちゃんちは?」と返す。
「うちは、うどんじゃなくて、今日はお粥だった」
「お粥?」
「うん。お母さんが『勝った日の翌朝はお粥がいい』って」
「お母さん、何で知ってるの、そういうの」
「わかんない」
真帆はそれだけ言って、首を小さく傾けた。
冬の薄い曇り空の下を、班員六人の足音が一度に重なって学院の方へ向かう。
◇
九時半、選手控室。
暖房の設定は前日と変わらないはずなのに、空気が一段乾いて感じた。たぶん、こちらの集中がそれだけ深いのだろう。
蒼真は和弓を弓掛けから外して、弦の上で右手の指先を二度滑らせた。張りはいつも通り。冬の薄手の手袋は、控室のベンチの上に外した。弽の革に親指を通し直して、押し手の左手は素手で和弓の握りに乗せる。
矢筒の矢を一本だけ抜いて、矢羽の角度を確かめてから戻した。
扉が軽くノックされた。
「おう、来てるな」
「おはようございます」
「おはようございまーす」
「お疲れさん、お前らまだ疲れてないか。昨日の今日だぞ」
「俺、ぴんぴんしてます」
「橘、お前は声でわかるから報告いらん」
後藤がドアの前で茶色のファイルを抱え直して、笑った。
ファイルの左の表紙の角に、淡い青の付箋が前日と同じ位置に貼られている。蒼真の視界には入ったが、特に意味は読み取れなかった。
「今日の3組第4班な」
「はい」
「あれな、班長の影山ってのが、見た目より厄介だぞ」
「丁寧な感じの、剣士の人」
「うん。あれな、口は丁寧なんだけど、頭の中で五人の駒を秒で動かしてくる。指揮、速い。あれが指揮しながら自分で突っ込んでくるからな、二重で圧かかるぞ」
「了解です」
「あと、塵な」
「《風塵》」
「うん。あれ、低いとこ塞がれるから、お前の水平射最初は通らないと思って組んだ方がいい」
「上は、通りますか」
「重力で沈むから、上は通る。それは協会データベースに書いてある通り」
後藤がそこまで言って、ファイルを左手に持ち替えた。
「ま、お前らの戦い方は、お前らの戦い方でやれ。俺はフィールドの外で見てる」
「はい」
「橘、廊下、声控えめにな」
「あれ、後藤先生、それ昨日も言ってませんでしたっけ」
「言ったか」
「言いました」
「言ったな、たぶん」
後藤はそれだけ言って、ドアの方へ戻った。
退室の間際、こちらに半身だけ向けて片手を軽く上げる。サンダルの音が廊下の方へ遠ざかっていった。
悠斗がベンチの上で、両手を頭の後ろに組んだ。
「言ったの、絶対覚えてないなあれ」
「覚えてるけど、ふざけてるだけだろ」
「あー、そっちか」
「そっち」
航が短く返して、口角の片側をほんの少しだけ上げた。
紅葉が控室の隅で、ショートソードの鞘を腰のベルトに通し直している。視線は手元の作業に落ちているが、耳は会話の方に半分残っているのが、肩のラインの傾きでわかった。
「紅葉」
「はい班長」
「前方の索敵、悠斗と航の前。後方は航のフリーで補う。昨日の確認のまま、行く」
「了解、班長」
「斥候、二枚来るからな」
「うん。張り付かれたら、私、たぶん一回視線切られる」
「そう、なる」
「だから、その時は無理に追い返さなくていい。位置だけ、班に流して」
「了解」
紅葉が振り向きざまに、半笑いで頷いた。
その小さな笑みの下で、視力強化スキルの集中の準備がもう半分始まっているのが、目の輪郭の張りで読み取れた。
里奈が後ろのベンチで、杖の柄を両手で軽く握り直していた。
「氷壁、撃つタイミング、昨日と同じでいいかな」
「同じでいい」
「塵、来てる時は、視界悪いから……」
「氷壁で塵は止まらない。塵は壁の上を越えて流れ込むから、視界遮断は壁では塞げない」
「うん。だから、私の氷壁は、塵に対してじゃなくて剣士の正面射線を切るために出す」
「うん。中村、それでいい」
航が短く返した。
里奈が頷いて、杖の柄をもう一度握り直した。
その横で真帆が、トートバッグから水筒を出して、一口だけ口に含んだ。
「《光球》、昨日と同じで、二個」
「うん」
「二個目は、塵の上のあたりに上げます。視線の誘導で」
「届くか?」
「届きます」
「了解、頼む」
真帆は水筒の蓋を閉めて、トートバッグの口を軽く絞った。
杖を両手で握り直して、立てかけてあった壁際に視線を向ける。視線は誰か一人を長く追ったりはしなかった。悠斗の槍の柄、航の剣の角度、紅葉の腰のショートソード、里奈の杖の先――順に視野の中に収める。最後に蒼真の和弓の弦の張りへ視線を戻していた。
◇
九時四十五分、入場ゲート前。
悠斗が肩を一度ぐるりと回して、息を白く吐いた。
「いつも通り、で行こうな」
「いつも通り、で行こう」
短い合言葉だけ交わして、フィールドの東側へ入場する。
観客席の方には目を向けなかった。今日もこっちに観客はいる。けれども、観客席のあの位置に昨日の二人はもういない。それは紅葉が朝のロータリーで口にしていた――Sクラスのクラス内対抗戦も、今日から毎日連戦らしい。
フィールドの西側から、3組第4班が入場してくる。
先頭は影山律。剣士。背は蒼真より少しだけ高く、肩のラインは細い。剣を腰の左に下げて、歩幅は揃っていた。
続いて風魔法使い二名――加藤奈々と小林蓮。斥候二名――岡田栞と伊藤修一。最後にヒーラーの長谷川結菜。
六人の歩幅は入場の段階で揃っている。指揮の速さは、たぶんここから始まっているのだろうと蒼真は思った。
フィールドの中央で、影山と握手を交わした。
「神代くん、よろしく」
「よろしく」
「昨日の試合、見ました」
「ありがとう」
「あの曲がる弓矢、出さないでください、と言うのも野暮だから言わないでおきます」
影山はそれだけ言って、口元を小さく笑った形に動かした。
握手の手は乾いていた。汗ばみは、こちらが一段濃かったかもしれない。
所定位置に戻る。
悠斗が前衛位置、航が半歩斜め後ろ、紅葉が中衛右側の斥候動線起点里奈が後衛左側の杖真帆が後衛右側の白魔法蒼真は中衛の射撃位置に入る。月曜日のホワイトボードの七行が、頭の中をもう一度ゆっくり流れていった。
審判のスピーカーが、試合開始のカウントを刻み始めた。
「両班、所定位置、確認。試合開始まで、三十秒」
弓の握りに、左手の指先を乗せ直した。
矢筒の右側に、右手を軽く触れた。スローイングナイフの柄が、いつも通りの位置にある。
銅鑼の音が、二月中旬の薄い曇り空の下で短く弾けた。
◇
試合開始から四秒。
影山の右手が空中で短く何かを切るように動いた瞬間、風魔法使い・加藤奈々の杖先から茶色の粒子が一斉に吹き上がった。風で巻き上げられた塵が、フィールド中央のあたりに半径七メートルほどの円を描いて漂い始める。
《風塵》だ。
予想通りだったし、予想より早かった。
蒼真の水平射線の前に、薄茶色の幕が斜めにかかる。直射の角度では、影山班の後衛までの視線が通らない。
塵が、横からではなく、正面から押し寄せてきた。
薄茶色の粒子が視界の奥行きを奪う。石柱の輪郭がぼやけ、影山の剣先が一瞬、床から浮いたように見えた。
距離が狂う。
蒼真は弦を引く前に、左足の親指で床を押した。足裏に返ってくる石の硬さだけが、今の距離を信じられる材料だった。
悠斗が前衛位置から一歩前へ出た。
「前、暗い!」
「視界、半分」
「真っ直ぐは見えない!」
航が短く返して、剣を構え直した。
紅葉が中衛右側で、両足を半歩開いて視線の高さを下げる。視力強化が走り始めている。
「右、斥候一」
「左、斥候もう一」
「来てる、二枚、私のとこ」
紅葉の声が、塵の幕の下を抜けて控えめに通った。
張り付き型の斥候が二枚、紅葉の側面と背中の方から距離を詰めてくる。岡田と伊藤――視線切りの主軸は紅葉の索敵を潰すこと。これも予想通り。
蒼真は半歩下がって、弓を引き分けの位置で止めた。
水平射線が塞がれている以上、直射は通らない。だが、塵は重力で沈む。幕の上端を抜く角度なら、通常射でも後衛へ圧をかけられる。
ただし、ここで曲弦射は出さない。出さない方が、相手の頭の中で「いつ出してくるか」の負担が継続する。
頭の中で、月曜日の七行をもう一度走らせた。
《小転移》三択――「使う」「使ったように見せる」「使わない」。今日は二番目を主軸に据える、と昨日確定した。
矢を抜いた。
矢羽の角度を一拍だけ確かめて、引き分けに入る。
◇
「悠斗、押せ。影山の目線をこっちへ寄せる」
「任せろ。声ごと引っ張る!」
「航、悠斗の半歩後ろ。剣士の踏み込みを止めろ」
「止める。抜けた分は俺が拾う」
「紅葉、後ろの二枚は追い返さなくていい。位置だけ流して」
「了解。見失わない方を優先する」
短い指示が立て続けに班員の耳に流れた。
悠斗が槍を構えて、塵の幕の左の縁を斜めに突っ切るようにして前進する。影山がそれに合わせて剣を抜いた。剣の角度は丁寧で、迷いがない。脚力強化が乗っている。踏み込みの速度がいつもの剣士の倍くらいあった。
悠斗が槍の穂先を影山の左腕の方へ突き出して、影山が剣の腹でそれを受け止める。
ぶつかった音が短く跳ねて、塵の幕の上を流れていった。
その音の上に、蒼真の矢が乗った。
弓を引き分けの位置から、ほんの数度だけ斜め上に倒して放った。曲弦射ではない。引き分けの角度を上向きに調整しただけの、上方向への通常射。矢は塵の幕の上半分を抜けて、影山班の後衛のあたりへ流れていく。
狙ったのは加藤奈々――風魔法使い、《風塵》の維持役。
矢は加藤の左肩の上を、十センチほど離れたところで掠めて、後ろの石柱の縁に当たって落ちた。
外れた。
けれども、加藤の杖を握る右手が一拍だけ揺れた。
塵の幕の濃さが、その一拍の分だけ緩んだ。
判定光は点らない。けれども、《風塵》の維持精度が一段下がった事実は、フィールドの空気の濃度として明らかに伝わってきた。
影山の声が、塵の幕の向こうから短く飛んだ。
「加藤さん、濃度を戻してください」
「はい!」
丁寧な指示だった。
声の質に、迷いはなかった。けれども、加藤の応答の語尾が、一拍だけ遅れた。その遅れを蒼真は耳で拾った。
「航」
「見えた。加藤、杖を握り直してる」
「塵を戻すのに魔力を入れ直した。あの一拍、もう一度削る」
「上を通すか」
「ああ。沈む前に撃つ」
航が短く返した。
蒼真は矢筒からもう一本抜いて、引き分けに入った。
二射目――同じ上方向への通常射。今度は加藤の右側、伊藤と交差している空中の位置の方へ流す。これも判定取りが目的ではない。塵の維持に、もう一拍の負荷を強いる射だ。
矢が放たれた瞬間、蒼真は右手の指先を一度だけ、矢筒の右側のスローイングナイフの柄に軽く触れた。
触れただけで、抜きはしない。
けれども、抜きかけた所作の輪郭は、塵の幕の向こうの誰かに見えた可能性はあった。
もし見えていたなら、相手の頭の中に「《小転移》が来るか」の問いが、もう一つ増えたはずだった。
矢が塵の幕の上を抜けて、加藤の右側の空中を斜めに横切っていった。
◇
試合開始から二分が経過していた。
蒼真は弓の握りを左手の指先で軽く乗せ直して、塵の幕の向こうのぼやけた影の輪郭を、もう一度確かめた。
影山の指揮は速い。けれども、加藤の魔力の残量と、岡田・伊藤の張り付きの持続時間は無限ではない。三分か、四分か――どこかで、塵の濃さに穴が空く瞬間が必ず来る。
その穴の瞬間に、何を撃つか。
曲弦射は、撃たない。
《小転移》は、撃ったように見せる。
ならば、撃つのは何か。
頭の中で、月曜日の七行からもう一行が浮かび上がった。『弐』九十五――温存。今日はまだ早い。
ならば、まずは塵の維持を削る射を、もう一射だけ。
二月中旬の曇り空の下で、塵の幕の薄茶色の濃淡が、ゆっくり呼吸するように揺れていた。
その揺れの中に、加藤の杖を握る右手の輪郭が、ほんの一瞬だけ塵の隙間から透けて見えた。
蒼真は三本目の矢を、矢筒から抜いた。
「真帆、《光球》、一個目」
「はい」
真帆の杖の先から白い輝きの球が一つ浮かび上がった。
塵の幕の上端――加藤の頭の上の高さよりさらに二メートルほど上の位置に、白い光球が静かに留まる。塵の薄茶色を背景にして、白い光が一段強く滲んだ。
影山の指揮の声が、塵の向こうから飛んだ。
「《光球》に視線、引っ張られないで」
「はい!」
「斥候、鬼塚を切って。流さないように」
短い指示が連続で立ち上がった。
その指示の通り、岡田と伊藤の張り付きが紅葉の側面と背中から距離をぐっと詰めてくる。
「来た」
「紅葉ちゃん、後ろ!」
里奈の声が斜め後ろから跳ねた。
紅葉が振り向きざまにショートソードを抜いて、岡田の最初の踏み込みを軽く弾いた。剣の腹で受けて、半歩下がって距離を取る。
壁役はしない。やらせない――そういう動きだった。
二枚相手に張り合うのではなく、視野の範囲を切り替えて、自分の役割を斥候から半歩だけ「離脱」の方向に寄せる。
「班長、視線、切られる」
「了解。位置だけ、流せ」
「うん。岡田、私の左の二時方向。伊藤、私の真後ろの六時方向」
「拾った」
航が短く受けた。
紅葉の声で位置情報だけが班員六人の耳に流れる。視覚情報は途切れたが、位置情報は途切れさせない――そういう運用だった。
その間に、蒼真は三射目を放っていた。
今度は塵の幕の上端を斜めに掠めて、加藤の左の頬の二十センチ脇を抜けた。判定光は点らない。けれども、加藤の視線が左に半秒だけ流れて、杖の握りがほんの一拍緩んだ。
塵の濃度がもう一段落ちた。
幕の中央のあたりに、視線が通る幅一メートルほどの細い穴が、ほんの数秒だけ空いた。
「穴、空いた」
「見えた。影山の右、薄い」
「悠斗、左に振れ。そこを広げてくれ」
「任せろ、こじ開ける!」
悠斗が槍を持ち替えて、塵の左側を回り込みながら影山の右側面に踏み込んだ。
影山が剣を引いて受け止める動作に入った瞬間、航が悠斗の半歩後ろから影山の踏み込みの戻りを切るように剣を差し込んだ。
影山の剣の角度が、わずかに迷った。
その迷いの上に、悠斗の槍の穂先が乗った。
穂先は影山の左肩を擦って、淡い赤の判定光が一度だけ点った。
軽傷ポイント、一。
「入った!」
「入ったな」
「もう一発、行きます?」
「いや、引け」
航が短く制した。
悠斗が一歩下がって、槍を構え直す。影山が剣の角度を立て直して、踏み込みの位置を半歩引いた。脚力強化はまだ生きている。けれども、最初の二分のような迷いのなさは、もうそこになかった。
影山が、塵の向こうから短く笑った気配がした。
「神代くん」
「はい」
「やはり、出さないですか」
「出さない」
「了解しました」
影山はそれだけ言って、右手をまた空中で短く動かした。
加藤の杖から、塵がもう一段濃く吹き上がる。穴が、塞がれる。けれども、塞ぐのに使う魔力が、最初の一回より明らかに多くなっていた。
航が蒼真の半歩後ろで、口角の片側をわずかに上げた。
「蒼真」
「加藤、限界が近い」
「あと二回、塵を削れれば持たない」
「なら、次で迷わせる」
「《小転移》のフェイントか」
「入れる。ここで一拍、奪う」
蒼真は矢筒の右側に右手をもう一度乗せた。
今度はナイフの柄を、半分だけ抜きかけて止める。
半分だけ。
その半分の所作が塵の幕の向こうの誰の視界に何秒映るかは、もう蒼真の側で制御できる範囲ではない。けれども見えた可能性のある相手が一人でもいれば、影山の頭の中の「神代の選択肢」のリストにもう一つ問いが追加される。
「真帆」
「はい」
「《光球》二個目、そろそろ上げてくれ」
「はい。塵の上、左寄りでいいですか」
「ああ。左寄りで頼む」
「届きます」
真帆の杖の先からもう一つの白い光球が立ち上がった。
今度は塵の幕の上端の左寄り、加藤の頭上ではなく小林蓮の頭上あたりに留まる。風魔法使いがもう一人いる事実を、真帆の光球は静かに班員六人に思い出させていた。
影山の指揮が、塵の向こうから一段速くなった。
「《光球》二個目。視線、もう一度上に逃げます」
「岡田に伊藤、戻って」
「戻れません、斥候、鬼塚さんに張り付いてます」
「離れていい。戻って」
影山の指示が短く変わった。
斥候二枚を呼び戻したのだ。
その瞬間、紅葉の周辺の張り付きが弱まった。
「離れたよ」
「拾った。紅葉、視野、戻せるか」
「十秒ちょうだい。十秒あれば、塵の向こうまで見える」
「作る。十秒、こっちで持たせる」
「ありがと、班長。じゃあ、覗いてくる」
悠斗が槍を構え直して、影山の正面に踏み込み直した。航が半歩後ろから斜めに剣を差し込んで、影山の踏み込みの戻りを抑える。前衛二枚の連携で、影山の脚力強化を一時的に押し下げる――短い局所的な圧。
その十秒の間に、里奈の杖が立ち上がった。
「氷壁、撃ちます」
「撃て」
「正面、影山さんの右、上半身の高さで」
「行け」
里奈の杖から白い結晶の壁が、フィールドの石の床の上に斜めに立ち上がった。塵の幕の中ではなく、塵の幕の手前――こちら側の射線を影山の側から切る位置に展開した壁だった。塵で視界を切られているこっち側にも相手の射線を切り返す壁を一枚置く。攻撃用ではなく、こちら側の盾としての氷壁。氷床の応用運用に並ぶ、防御用の氷壁の積極運用だった。
影山の声がほんの一拍だけ遅れた。
「《氷壁》、こちらの射線が切れました」
「右、回り込むしかない」
「了解です」
影山が脚力強化のまま、氷壁の右側を回り込もうとする。
その動線の先に、悠斗の槍がもう一度立っていた。
そして紅葉の声が、塵の中から戻ってきた。
「透けた」
「全員の位置、見えるか」
「見える。加藤さん、塵の維持のために、両手で杖抱え直してる。魔力、たぶんあと一分」
「一分、削れれば、勝てる」
「了解、班長」
紅葉の視野が戻った瞬間、塵の幕は形を保ってはいたが、もう情報の遮断としては半分機能を失っていた。
試合開始から、四分二十秒。
観客席のざわめきが塵の幕の上を薄く流れていく。今日この席には、昨日いた人物はもういない。けれどもフィールドの石の床の感触は昨日と同じだった。冬の薄い曇り空の下で、その感触の上を蒼真の足の裏がもう一度ゆっくり踏み締め直した。
次の一射は、塵の上を抜ける――そのつもりで、矢を番え直した。
塵の奥で、影山の声がまた一つ飛んだ。
丁寧な声だった。
けれど、さっきより短い。
名前を呼び、位置を切り、次の指示へ移るまでの間が詰まっている。
追い詰めている。
ただ、まだ崩れてはいない。
影山の指揮の声は、まだ丁寧で迷いがない。
けれども、その丁寧さの中に、ほんの一拍の遅れが何度か混ざるようになっていた。




