第105話 次の相手
控室への通路は、フィールドの白い光から離れた途端にひんやりとほの暗かった。
天井の蛍光灯が規則的な間隔で並んでいる。その光の下を、班員五人の足音と蒼真の足音とがゆっくり重なって響いていた。
悠斗が半歩前で、肩をもう一度揺らした。
「八分四十二秒」
「八分四十二秒」
「これ航が表計算アプリに残すんだろ?」
「残す」
「真面目だなあお前」
「お前のために残してるんじゃないからな」
「俺のためだろ絶対」
「蒼真の方が表計算アプリ開く回数多い」
航はそう返し、片頬で笑った。
悠斗が振り向きざまに、こちらを見た。
「ほら蒼真お前バレてるぞ」
「俺別にそんな開いてないよ」
「いやお前毎晩開いてるだろ」
「開いてはいる」
「やっぱり開いてんじゃねえか!」
紅葉が後ろからけらけらと笑った。
その笑い声がほの暗い通路の天井で軽く跳ねた。
「悠斗声デカっ。まだ廊下なんだけど」
「いいんだよ勝ったんだから」
「いやいやこれから他の班とかすれ違うかもしれないし」
「すれ違ったら『勝ちました』って言うわ」
「うっわ性格悪っ」
「お前に言われたかねえ!」
悠斗が振り向きざまに、紅葉の方を軽く指差した。
紅葉は肩をすくめて、半笑いでその指の先を見返している。
里奈と真帆が、その後ろからふっとかすかに笑った。
◇
選手控室はフィールドからの通路を二回曲がった先にあった。
ドアを押し開けると午前中の冷えた空気が頬に触れた。ペットボトルの段ボール箱と試合前に置いていったタオルの山はいつもの位置にある。
蒼真は和弓を壁際の弓掛けに立てかけた。指の腹で弦を撫でて張りを確かめる。
張りはいつもの通りだった。
「水ー!」
悠斗が段ボール箱からペットボトルを六本一気に抜き出して、ベンチの上に並べた。
「冷えてんなあこれ。寒いのにご丁寧によく冷やしてあるな」
「夏用の冷蔵庫を冬も回してるって後藤先生が言ってたぞ」
「マジかー。電気代もったいねえな」
「ただの仕様だろ」
航は悠斗の隣で、自分のペットボトルの蓋をぱきと捻った。
紅葉がベンチの端にぽすんと腰を落とした。短剣のベルトを、ようやく緩めている。
「あー終わったー! 勝ったー!」
「うるさいよ紅葉」
「だってさあ初戦よ初戦! まずは一勝!」
「八分しかやってないけどな」
「八分でも一勝は一勝でしょ。航お前そういうとこ冷たいんだよ」
「冷たくない。事実を言っただけだ」
「事実を言うなら『八分で完勝』とか言いなよ」
「八分で完勝」
「ふんっそれでいい!」
紅葉はベンチの上で片足をぶらぶら揺らした。
里奈は後衛位置から持ってきた杖を別のベンチに立てかけ、両手のひらを擦り合わせた。
頬にはまだ赤みが残っている。寒さか緊張の名残か、自分でも判断できていない顔だった。
「氷壁撃った瞬間に手のひらすごく冷たくなってたみたいで」
「えっ自分で撃った氷で自分の手が冷えるの?」
「冷えるみたいです撃った直後だけ」
「初耳。里奈それ最初から?」
「ううん多分今日が一番はっきりわかった」
「魔法って奥深いねえ」
紅葉がペットボトルの蓋をぐいっと片手で捻った。
真帆は後衛位置から持ってきた杖を両手で握り直し、ベンチの脇に立てかけた。杖を握っていた右手の指先が開いて閉じる。回復魔法を撃つ時の指先の運びを、自分の中で確かめている所作だった。
「真帆は? 今日いつもより《光球》二個も出してたよね」
「あはい。二個目は悠斗さんと宮瀬くんの目線を半拍引っ張れたらと思って」
「半拍引っ張ったよちゃんと。あれデカかった」
「よかったです」
真帆はふっとかすかに笑って、視線を控室の壁の方へ戻した。
蒼真はその横で、ペットボトルの蓋をゆっくりと捻った。冷えた水が、戦闘中に乾いていた喉の奥をひんやりと撫でていく。
悠斗がベンチの上でもう片足を組み直してから、こちらに振り向いてきた。
「蒼真お前飲み方ちまちましてんな」
「飲んでるって」
「ぐいって行けよぐいって。八分も走り回ったんだぞ」
「いやお前ほどは走ってない」
「謙遜すんなって!」
悠斗は、自分のペットボトルをぐいっと半分まで一気に煽った。
航がその横で、半分だけ口角を上げる。
「悠斗お前さっきからずっと喋ってるな」
「うるせえ勝った時くらい喋らせろ」
「うんそれは正しい」
「正しいだろ!」
「正しい」
航はそう返して自分のペットボトルをベンチの上に戻した。
その途中で視線が真帆の方へ向いた。杖を立てかけ直してベンチに座り直す所作を見ている。けれど半秒もしないうちに自分のペットボトルへ戻った。
蒼真はその視線に気づかないまま月曜のホワイトボードに書いた七行を口の中でなぞった。
《小転移》三択。『弐』九十五。里奈の氷床。真帆の《光盾》《回復》。紅葉の索敵。悠斗と航の前衛。
次戦ではその一つをフェイント運用で回す。
「次の話するか?」
「するする」
「明日の3組第4班機動型」
「風魔法二。斥候二。剣士一。ヒーラー一」
「斥候二は多分紅葉の索敵を潰しに来る」
「うわー来るかー」
紅葉はペットボトルをベンチに置き、両手で頭を抱えるふりをした。
「私潰されるの嫌いなんだけど」
「嫌いでも来るぞ」
「視界切られんのもっと嫌いなんだけど!」
「だから対策組む」
「組んで何とかなる?」
「ならなかったら現場で組み直す」
「うわー出た参謀の現場主義」
「現場主義じゃない。事前準備をした上での対応力だ」
「同じじゃーん」
「違う」
航が眉を寄せて返した。
紅葉はけらけらとまた笑った。
悠斗がその横で、ペットボトルをベンチにぽんと戻した。
「蒼真フェイント出す方向か?」
「出す方向。明日は曲弦射出さない」
「あそれ昨日のホワイトボードの線か」
「うん」
「了解。じゃあ俺と航は前をいつもよりちょっと張る感じだな」
「張ってほしい。視線こっちに引きつけてほしい」
「任せろ」
悠斗はそう返し、もう一口水を煽った。
紅葉がベンチの上から、こちらにぐっと身を乗り出してきた。
「ね蒼真。私はどうする?」
「索敵範囲絞っていい」
「絞る?」
「前方悠斗と航の前。後方は航のフリーポジションで補う」
「あーそっか。私が後ろまで見なくていいのか」
「うん。前だけ集中してくれ」
「了解班長!」
紅葉がぴしっとふざけた敬礼を寄越してきた。
ダンジョン外で紅葉が「班長」と呼ぶ時は、大抵ふざけている。
里奈と真帆も、その横でふっとかすかに笑った。
◇
控室のドアを軽く二度ノックする音が響いた。
「お疲れさん」
返事を待たずに、後藤喜一郎がドアを開けた。
ネクタイは今日も緩い。足元もいつものサンダルだった。手には淡い茶色のファイルが一冊、抱えられている。
「お疲れさまでーす!」
悠斗がベンチに座ったまま、片手をひょいと上げた。
後藤はドアを半分閉めたまま、控室の中央あたりまでサンダルでゆっくりと進んできた。
「橘お前さっきから声デカいって廊下まで響いてたぞ」
「いやーすみません。勝ったもんで」
「気持ちはわかるけどなまあほどほどにな」
「はーい」
後藤はベンチの端に、軽く腰を下ろした。片方のサンダルをもう片方に軽く当てている。
「いやーしかし今日のあれな。神代の」
「曲弦射ですか」
「うん。あれな。見てた俺もちょっとヒヤッとしたぞ。最初の引き分けがいつもより長くてさ。何をやる気だと思って見てたら案の定だよ。十ヶ月撃ってなかったやつを本番で出したろお前」
「すみません」
「いやー謝るとこじゃないんだけどな。決まったし。決まったからいいんだけど」
後藤はそう言って、ファイルを膝にぽんと置いた。
「あのなあ神代」
「はい」
「お前さ。ああいう十ヶ月も寝かせてた手札って普通はもうちょっと出し惜しみするもんだろ。直射で抜けないと判断した瞬間すぐ抜くもんなのか。お前の中では」
「すみません直射で抜けないってわかった時点で次の選択肢それしかなかったので」
「うーん。その『それしかなかった』ってのがまあお前らしいんだけどなあ」
後藤はそう言って、ファイルの背を指先で撫でた。
「ま勝ったからいいや」
「はい」
「勝ったからいい」
後藤は班員五人へ視線を回した。
「橘声デカいけど動き良かったぞ」
「っすありがとうございます!」
「宮瀬剣の角度夏より三センチ深い」
「……ありがとうございます」
「鬼塚お前あれだな。左右の警戒まだ右に偏ってるな」
「えっばれてました?」
「ばれてた。直しとけ」
「はーい」
「中村氷壁の正面投影面積夏よりずいぶん広くなったな」
「ありがとうございます」
「小林《光球》の二個目悪くなかったぞ。あれで前衛の二人の視線が半拍引っ張られた」
「ありがとうございます」
後藤は班員五人の所作を順に拾い、一言ずつ返していった。
昼行灯らしい緩い口調の中に、細かな観察眼がにじんでいる。
最後に、視線が蒼真の方へ戻ってきた。
「で明日な」
「3組第4班ですね」
「機動型。風魔法と斥候の組み合わせ。お前何時集合がいい?」
「九時半でお願いします」
「九時半な。了解。控室の鍵開けとくから九時半に来い」
「はい」
後藤はそう言って、ファイルを左脇に抱え直した。
立ち上がりながら、もう一言付け足した。
「あ神代。弓はちゃんと拭いとけよ。冬は湿気が夏より悪いから。寒いと油断するけど空気自体は別に乾いてないからな」
「はい」
「うん」
後藤はそう言って、ドアの方へサンダルで戻りかけた。
ドアノブに手をかけたところで、もう一度振り向く。
「橘」
「はい」
「廊下声控えめにな」
「はあい」
「はあいって何だその返事」
「すみません声控えめにします」
「うん。じゃ明日な」
後藤はそう言って、ドアを閉めた。
ドアの向こうでサンダルの音が遠ざかっていく。
悠斗がベンチの上でふっと息を吐いた。
「後藤先生見るとこ細かいよなあ」
「俺の剣の角度三センチ深いって何で気づくんだろうな」
「気づくから後藤先生なんでしょ」
「まあな」
航はそう返し、自分のペットボトルを捻り直した。
◇◆◇
観客席通路の壁際で、後藤喜一郎はファイルを左の脇の下から両手の前に抱え直した。
通路の天井はフィールド側よりずっと低い。冬の朝の光はここまで届かない。観客席へ抜ける開口部から、低いざわめきだけが流れ込んでくる。
後藤はシャツの胸ポケットから煙草の箱を半分取り出しかけ、すぐ戻した。校舎内は禁煙だ。出てから吸う。もう何度目かわからない確認を自分に言い聞かせる。
「後藤先生」
通路の反対側から、藤村が歩いてくるところだった。
1年4組担任。緩い同僚関係の女性教官。左手に、数枚の紙束のチェックリストが握られていた。
「お疲れ」
「お疲れさまです後藤先生。神代班勝ちましたね」
「勝ったね」
「曲がる弓の一撃が決まった瞬間観客席どよめいてましたよ。私の左横に座ってた一年生思わず立ち上がりかけてました」
「あー立ち上がりかけてた子いたか」
「いましたいました。座らせるのちょっと大変でした」
「ご苦労さん」
「いえいえ」
藤村が笑った。
後藤も片頬を緩めて返す。
通路の奥から、もう一つの足音が近づいてくる。
「お後藤さん」
小野寺だった。
1年2組担任の男性教官。眼鏡の縁を指先で軽く押し上げながら、こちらに歩いてくる。
「小野寺」
「神代の試合見せてもらった。あれな夏のイレギュラーから一段上がってんなあ」
「上がったか?」
「上がってるよ。射の前のさ。引き分けに入ってから撃つまでの間が夏より明らかに違う。半呼吸長くなってる。あれは本人が勝手に身につけたやつだろ」
「本人が勝手にな」
「そういうのは外から教えられないからな結局は」
「うんまあそうかもな」
後藤はそう返し、ファイルの背を指先で撫でた。
藤村が横で笑う。
「楽しみですね決勝がもし1組同士の対決になったら」
「あー竹井のとこか」
「ええ。後藤先生決勝までに同クラス対決見たいでしょう」
「見たいねえ。けど決勝までいかせるかどうかは向こうの相手次第だしな」
「そうですけど竹井班強いですよ」
「強いねあれは。けど決勝で当たるかどうかはまだわからん」
「まあそれもそうですね」
藤村はそう返し、軽く頷いた。
小野寺がその横で、煙草の箱の入った後藤の胸ポケットの方をちらりと見た。
「後藤さんまだ吸えないだろここ」
「わかってるよ」
「我慢」
「我慢してる」
後藤はそう返し、ファイルを左脇に戻した。
戻したファイルの左上に、新しい青の付箋が貼られていた。
藤村も小野寺も、その付箋には気を留めなかった。
後藤は観客席通路の窓へ視線を戻した。
「明日3組第4班な」
「ああ機動型のとこ」
「あれと当たるのは組み合わせとしては面白いな」
「面白いね。風魔法に視界塞がれて神代がどう撃つか」
「どう撃つかなあ。多分撃たない方向で組んでくると思うけどなあの宮瀬の頭で」
「撃たない方向?」
「うん。撃たない方向で撃ったように見せる」
「ああなるほどな。あの転移囮で使うってことか」
「多分な。まあ明日見ようや」
後藤はそう返し、ファイルを抱え直した。
藤村と小野寺はそれぞれ頷き、通路の反対側へ歩いていった。
後藤はその背中を見送り、観客席通路の出口へ歩き出した。
胸ポケットの煙草の箱を指先で確かめる。あと半箱はあった。
◇◆◇
控室を出ると、廊下は観客席通路よりももう一段ほの暗かった。
医務室は、その廊下の右手、二つ目のドアの先にあった。
蒼真の左手の押し手は赤くなっていた。和弓の握りが普段より深く食い込んだ跡だ。
医務室の若い女性スタッフがその手のひらをガーゼで押さえ、湿布の角を皮膚に貼った。
「これ痛みますか?」
「いえもうほとんど」
「明日も試合ですよね? 今日のうちに馴染ませちゃってください」
「はい」
悠斗の擦り傷――右前腕に剣の鞘が当たって出来た赤い線――も湿布で押さえられた。航には特に傷がない。紅葉の左手に引っ掻き傷があったが、これも湿布一枚で終わった。
里奈と真帆は後衛だったため身体に傷はない。それでも二人とも診察台の端に座り、若いスタッフから簡単な体調確認を受けていた。
「明日も朝から動きますよね?」
「はい九時半集合です」
「水分ちゃんと取って寝てくださいね。冬は自分が思ってるより汗出てます」
「はい」
里奈の頬の赤みは、医務室の暖房でようやくいつもの色に戻りつつあった。
真帆は診察台の上で両手を膝に重ねている。視線は悠斗の前腕の湿布、里奈の頬、蒼真の左手の湿布へ順に移っていた。
航がその様子を横目で見て口を開いた。
「小林明日《光盾》出る場面多分あるぞ」
「はい風魔法二人いるので」
「《光盾》の範囲紅葉と中村同時に守れるか?」
「届きます」
「了解」
真帆はそう返し、視線を自分の手のひらへ戻した。指先が開いて閉じる。明日の《光盾》の発動の運びを、自分の中で確かめる所作だった。
◇
医務室を出て廊下を控室へ戻りかけた。
突き当たりの曲がり角の手前で別の足音の群れが近づいてきた。
1組第1班。竹井班だった。
先頭は竹井創。その後ろに本村涼と佐藤進が続く。さらに女性陣三名――斉藤、藤島、進藤。
竹井班も午前中の他試合を観戦してきた帰りらしい。各自の手には戦闘装備ではない私服寄りの上着がある。
「神代」
竹井が足を止めた。
「竹井」
「勝ったらしいな」
「ああ」
「曲弦射見えなかったぞこっちは」
「見せなかったってわけじゃないけど多分茂野の盾を抜く一射でしか出してない」
「ふうん。一発か」
「一発」
「うちはちょうど4組第1班の試合の方見てた」
「そっちはどう?」
「うちのクラスの相手にしてはまあまあってとこ」
「了解」
本村が、竹井の半歩後ろから口を開いた。
「神代決勝はまだ先だけどな」
「先だな」
「曲弦射決勝でもう一度出す気か?」
「相手次第」
「ふんまあそうか」
本村はそう返し、片頬で笑った。勝ち気な槍術士の表情だった。
佐藤が、その横から笑った。
「神代の班なんか面白い動きしてたみたいだな」
「面白いか?」
「面白いって観客席の連中が言ってたぞ。俺自身は寝てた」
「お前なあ……」
竹井が佐藤の後頭部を軽く押した。
佐藤はそれだけでふっと笑った。
女性陣三名はその後ろで、笑いを含んでいる。
「神代」
竹井がもう一度こちらに視線を戻した。
「明日機動型らしいな」
「らしいな」
「機動型視線切ってくるぞ」
「対策考えてる」
「お互いに決勝までは勝ち上がろうな」
「勝ち上がる」
「うん」
竹井はそう言って、軽く片手を上げた。
班員五人を引き連れて、廊下の反対側へ歩いていく。
本村が振り向きざまに、こちらを見た。
「神代」
「ん?」
「決勝でまた会おうな」
「ああ会おう」
本村はそう言って視線を戻した。
悠斗がその背中を横目で見送ってから、こちらに肩を振り向けてきた。
「あいつら煽ってんのか応援してんのかどっちなんだよ」
「両方じゃないか」
「両方かよ」
「両方だな多分」
悠斗はそう返し、短く笑った。
航が横で片頬を上げる。
紅葉が後ろからぽつりとつぶやいた。
「決勝見たい」
「見たいか?」
「フィールドの中から見たい」
その言葉が、廊下のほの暗い天井の下を揺らした。
蒼真は頷きの代わりに、和弓の握りの場所をもう一度左手で軽く確かめた。
和弓は控室に置いてある。けれども手のひらの方はもう、その握りの感触を覚え直していた。
◇
廊下を控室へ戻る途中、もう一つの曲がり角の手前だった。
向こう側から、二人の女子生徒がこちらへ歩いてきていた。
先頭は黒髪のロングストレート。冬のマフラーに口元を半分埋めている。
その後ろをもう一人――短めの髪で笑みを含んだ女子生徒が半歩遅れて歩いていた。
蒼真は、向こうから歩いてくるその姿を視界の中に捉えた。
歩幅がほんの一瞬だけ、半拍止まりかけた。
止まりかけた歩幅を、もう一度前に出す。
Sクラスの天城凛と、白瀬ほのかだった。
観客席の方を見ない。試合の朝、控室で自分で決めたことだった。
観客席にいたかどうかはわからない。けれども廊下でこうしてすれ違うのは、また別の話だった。
すれ違いの間際、凛の視線が一瞬こちらに向いた。
マフラーの上から向けられた視線は、半秒ほどだった。
声はなかった。会釈もなかった。
ただその視線が和弓を持っていない左手の指先で一瞬止まり、すぐ戻った。
すれ違った後、蒼真の左手の指先が半拍止まった。
止まった指先をゆっくり動かす。
「……今のは何だったんだろう」
蒼真は口の中だけでつぶやいた。
返事はもちろんなかった。
悠斗が半歩前で、肩越しにこちらを振り向いた。
「蒼真何か言った?」
「いや別に」
「お前たまに独り言増えるよな」
「増えてるかな」
「増えてる」
「ふうん」
悠斗はそう返し、前を向いた。
航はその横で、片頬で笑ってから、視線をもう廊下の先の控室のドアの方へ戻していた。
紅葉が後ろでぽつりとつぶやく。
「今天城さんの視線蒼真の左手のとこにちょっと止まったよね」
「見間違いだろ」
「見間違いじゃないよ。私視力強化持ってるんですけど」
「……」
「ふふん。まあ私は何も見てません」
「何も見てない奴がそれを言うか」
紅葉は肩をすくめ、けらけらとまた笑った。
その笑い声が、廊下のほの暗い天井の下でぱたと跳ねた。
◇◆◇
すれ違いの後、凛はマフラーに埋めていた口元をさらに押し込んだ。
ほのかが半歩遅れて隣に追いついてくる。
「凛ちゃん」
「ん」
「左手気になった?」
「……少し」
「弓を持ってない方の手?」
「うん。指先の止まり方が試合中と違った」
「そっか。凛ちゃんそういうところまで見るんだね」
「ほのかだって魔法の後の呼吸を見るでしょ」
「見る。だから分かる」
凛はそれを聞き、マフラーの中の口元をさらに押し込んだ。
マフラーの中に、自分の吐く息が温かくこもる。
声をかけない。声をかける必要はない。観客席にいることは、本人が知らなくていい。
それは四月から自分の中で何度も繰り返してきた距離の取り方だった。
けれども、すれ違いの間際のほんの半秒だけ、視線を向けた。
ただの観客席より、少し近い距離で。
半秒だけだ。
凛は廊下の天井の蛍光灯へ視線を上げた。
冬の朝の光はここまで届かない。蛍光灯の白さだけが廊下の床を照らしている。
その光の上で、自分とほのかの靴音が重なって響いていた。
「ほのか」
「ん?」
「明日からはもう来られない」
「うん。明日からはこっちも毎日試合だしね」
「決勝までは観戦無理」
「予選観に来られるの今日だけだったね」
「うん」
ほのかはそう返し、静かに前を向いた。
Sクラスのクラス内対抗戦も、明日から毎日連戦が始まる。凛とほのかの班も明日の朝は別の場所で別の試合に入る。
観客席に戻れるのは、決勝戦の日まで。
「ほのか」
「ん?」
「決勝観に来る」
「うん。私も」
「機動型視線切ってくる相手らしいけど」
「それを神代くん達がどう抜くかだね」
「……神代だけじゃない」
「うん。あの六人がどう抜くか」
「それなら見たい」
凛はもう、何も言わなかった。
◇◆◇
控室のドアを押し開けた。
午前中の冷えた空気は、もう室内の暖房の中で温まっていた。
蒼真は壁際の弓掛けにある和弓の弦を、指の腹で撫でた。
張りはいつも通りだった。
ベンチに腰を落とす。
悠斗が隣で、ペットボトルをもう一本開けた。
「明日九時半集合な」
「九時半」
「フェイント月曜のホワイトボードに書いてた線で行く」
「行く」
「了解です」
「了解」
「了解」
航たち四人の声が半拍ずつずれて控室に重なった。
蒼真は和弓の方へ視線を戻した。
弓の弦に残った汗の名残は、控室の暖房で乾きかけていた。
そこへ午後の弱い光が、控室の窓から半分だけ差し込んでいた。
予選第一戦は、終わった。
次の相手は明日。機動型。視線を切ってくる相手。
明日の朝、もう一度ここに戻ってくる。
六人で戻ってくる。
蒼真はペットボトルをベンチに置いた。
冷えた水の結露が、ベンチの木目に白い輪を残していた。




