第104話 曲弦射、十ヶ月ぶり
茂野の大盾が、また半歩、前に出た。
盾の面が、蒼真の視界を塞ぐ。
藤野のいた後衛側も、赤羽の杖先も盾の銀色に飲まれて見えなくなる。
直射では抜けない。
『弐』を込めても、正面からでは判定を取れない。
なら、正面から撃たない。
蒼真は、弓を数度だけ傾けた。
弓の軸の縦線が、垂直の位置から、ほんの数度だけ右側へずれる。
蒼真の視線は茂野亘の大盾の縁のその右の外側の空気をまっすぐに貫いている。
左手の押し手が和弓の握りの上で最後の角度を整え直した。右手の弽の革の上で指先が弦に乗る。矢の筈が弦の真ん中の位置にまっすぐ収まった。
蒼真は、引き分けを、深く取った。
胸の真ん中まで、矢を引き寄せる。冬の朝の空気が、肺の奥まで白く流れ込む。
弓がいつもよりも半呼吸長く引き絞られた状態で止まった。
茂野の大盾が、フィールドの中央で、銀色の弧をもう半歩こちらへ向けて進めてきた。盾の縁の鋼が、冬の朝の弱い光の中で、白く光っている。盾の正面のその右の外側の空気――
曲射ではない。
頭上から落とす射ではなく、弓の軸をずらし、矢のしなりで射線を横へ逃がす。
神代の道場では、それを曲弦射と呼んでいた。
盾の正面は抜かない。
盾の縁を、回り込む。
「行く」
蒼真は口の中だけでつぶやいた。
弦が、指先から離れた。
矢が蒼い軌跡をフィールドの上に引いた。
軌跡は、いつもの直線ではなかった。フィールドの中央をまっすぐに進んだ後、茂野の大盾の手前で、ふっと横へ流れた。矢柱のしなりと復元が、軌道を盾の右側の外側へ滑らせるように押し出していく。
矢は茂野の大盾の右の縁を紙一重の幅ですり抜けた。
盾の縁の鋼の輪郭と蒼い軌跡が一瞬だけ重なってすれ違う。
茂野の表情が初めて動いた。
寡黙な職人の眉が、一瞬上へ動いた。盾の角度を右へ向けようとして、けれども、矢はもう盾の縁を回り込んでいた。
盾の取り回しの、職人芸の速度を矢の軌道の横への流れがほんの半拍だけ上回っていた。
矢の蒼い軌跡が盾の右側の外で石床の高さへ戻っていく。
矢の軌道は、もう、まっすぐな直線に近い形に復元している。
盾の後ろの、その死角の位置に、矢の先端が滑り込んでいった。
落ちる先は、フィールドの西側、藤野の足元。
盾の後ろから、半身だけ出して、杉浦の右腕に白い光をかけていたその藤野の。
「――!」
藤野の口が何かを言いかけて止まった。
矢は藤野の左肩から鎖骨の上へ、横から浅く当たった。
判定光が藤野の身体の周りで赤から橙へ、そして深い赤へと色を濃くした。
審判のスピーカーが低くけれどはっきりと響いた。
「四組第二班、魔法使い・藤野、KO判定」
藤野の身体が、その場で、糸を切られたように膝から地面に崩れた。魔道具の精神フィードバックが、藤野の意識を、その場で刈り取っていた。
茂野の大盾の後ろで榊原と赤羽が振り返る動きを半拍遅らせた。盾の後ろの最後尾の安全地帯がたった一矢で消えていた。
会場のどよめきが冬の朝の空気を揺らした。
観客席のあちこちから、低い声が、白い息と一緒にこぼれた。
「曲がった……?」
「盾の、横、回り込んだ」
「あいつ、弓で、あんな事が」
蒼真は、その声を、視界の端でも聞いていなかった。
すでに、矢筒から、次の矢を抜いていた。
◇◆◇
観客席の東側上段から、二段ほど下りた位置で、凛は両手をマフラーの中から引き抜いていた。
膝に、片手が乗る。もう片手が、座席の縁を一瞬握り直す。腰が浮きかけた。
立ち上がりかけた、その肩を、隣からぽんと軽く叩かれた。
「凛ちゃん」
ほのかの声が、隣で静かに響いた。
「……うん」
「少し座ろう。今の、ちゃんと見えた?」
「見えた。見えたから、立ちかけた」
「うん。あれは、立ちたくなる」
「ほのかも?」
「白魔法使いの子を抜かれた側で考えたら、背中が冷たくなるくらい」
「……そう」
凛は浮きかけた腰を座席に戻した。
マフラーの中に、手を、戻す。けれども、もう、手のひらは温まらなかった。
凛は、視線をフィールドの方へ戻した。
あの矢は、見えていた。引き分けを取る瞬間から、矢が、弓を離れるその一瞬まで。
それでも、矢が本当に茂野の大盾の右の縁を紙一重で回り込んで藤野の肩に当たったその瞬間――
息が止まった。
九ヶ月前――四月の半ば。入学から、十日余りの、あの日。同じ演武場の、もっと、下の段の観客席。
あの時フィールドの中央に立っていたのは一人だった。
あの時煙幕の中から須藤大河の盾の死角へ横から回り込むように落ちたあの蒼い軌跡。
あれもたぶん技だった。
あの時から、ずっと、観客席にいる。
ずっと、観客席で、見ている。
「あの人の弓」
凛は、口の中だけで、つぶやいた。
ほのかが、隣で、小さく頷いた。
「うん」
「まだ、奥がある」
「今のも、その一つ?」
「たぶん。全部じゃない」
「じゃあ、ちゃんと見ておかないとね」
「……うん」
凛の視線は倒れた藤野から、すでに次の矢を抜いている弓術士へ戻されていた。
彼の右手の弽の革が矢筒の縁に触れ、また離れる。その動作のテンポは変わっていない。
白魔法使いを一人フィールドから刈り取った直後だというのに、その手のリズムは九ヶ月前のあの日と同じだった。十六分の一秒の間すら乱れていない。
凛は、自分の中の何かに、小さく頷いた。
◇◆◇
「藤野は落とした」
航が、剣を構え直しながら、半歩悠斗の隣で低い声を返してきた。
「これで、相手、回復ないな」
「ああ。西島は止まれない」
「来るか」
「来る。盾で固め直す前に、前衛を押し出してくる」
蒼真は、次の矢を引き絞りながら、フィールドの西側を視線で押さえた。
西島慎也の声が、相手側のフィールドから、低くけれどもいつもより一段硬く飛んだ。
「茂野、盾、引かない! 杉浦、後ろに下がれ! 赤羽、火炎温存! 榊原盾の後ろを離れるな!」
西島の指示は、まだ、迷っていなかった。
藤野を失った瞬間に、剣士四人の戦力配分を組み直そうとしている。一年生の班長らしい少しの硬さは残っていたが指示の単語はまだしっかり選び抜かれていた。
「上手いな、相手」
蒼真は口の中だけでつぶやいた。
白魔法使い一人を抜かれて即座に陣形を組み直す。その判断の速さは、戦術書通りの動きを身体で訓練してきた班のものだった。
けれども、戦術書通りの動きは戦術書通りの対応でほどける。
「悠斗、杉浦! 今、後ろへ下がるところ!」
蒼真の声が悠斗の背中に飛んだ。
「行ける!」
悠斗の槍が、杉浦の正面で、もう一度大きく振り回された。
藤野の回復を失った杉浦の右腕は、もう、まともに動かなかった。剣の防御の角度がぎこちなく半呼吸遅れる。
悠斗の槍の穂先がその遅れた剣の上をすり抜けるようにして杉浦の腹部の中央にまっすぐ突き入った。
判定光が杉浦の身体の周りで深い赤の輪郭へと一気に色を変えた。
「四組第二班、剣士・杉浦、KO判定」
審判の声が響いた。
杉浦の身体が、その場で、糸を切られたように崩れた。
「もらった!」
航は剣を下ろし、何か言いかけてやめた。代わりに、柄頭を親指で軽く叩く。
「悠斗、声、デカい」
「いいんだよ、勝ってる時は!」
「勝ってない、まだ」
「勝ってる半分は!」
「半分は勝ってる」
「お前も認めるじゃねえか!」
航は、それ以上は、何も返さずに視線を西島の方へ戻した。
西島の表情に、ほんの一瞬、迷いが走った。藤野と杉浦二人。試合開始から八分も経たないうちに二人を失った相手班の側で最初の動揺がようやく表面に出始めた。
「里奈」
蒼真は、後衛位置の左側に、声を投げた。
「氷床、行ける?」
「行けます!」
「茂野の盾の後ろ。榊原と赤羽の足元を、帯で横一本」
「盾の後ろを逃げ場ごと凍らせるんですね。やります!」
里奈の声が、いつもより、半拍弾んで返ってきた。
杖の魔導具の連動部分から、淡い白い光が、上向きにもう一度立ち上がる。けれども今度は《氷壁》の時のような垂直の壁ではなかった。光はフィールドの石の床の上を横向きに走った。
「《氷床》!」
里奈の声がフィールド東側の空気を凍らせた。
フィールドの中央、茂野の大盾の、ちょうど後ろの位置に白い結晶の帯が横一直線に伸びた。帯の幅、約一メートル。長さ、約五メートル。榊原と赤羽の足元がその帯の上にちょうど乗っている。
「足、凍った!」
赤羽の声が跳ねた。杖を構え直そうとした右足が、床から剥がれない。
榊原は無理に踏み込もうとして、体勢を崩した。靴底が氷の帯を滑り、剣の切っ先が一瞬だけ下を向く。
茂野の盾が迷った。
赤羽を守る角度か。榊原の前を塞ぐ角度か。西島の進路を残す角度か。その選択が、半呼吸、遅れた。
「真帆」
蒼真は、後衛位置の右側に、続けて声を投げた。
「《光球》、茂野の盾の真正面に、もう一個」
「真正面、了解です!」
真帆の杖の先に、もう一個の白い光の球が、ふわりと生まれていた。今度の球は、茂野の大盾の、ちょうど目の高さの正面に滑るように近づいていく。
茂野の視線がほんの一瞬その球の白い輝きに引かれた。盾の角度が上向きにずれた。
「悠斗、突っ込め!」
蒼真の声が、フィールドの中央に、飛んだ。
悠斗は、もう、走り始めていた。槍を腰だめに構え直しながらフィールドの石の床を強く蹴った。
「《脚力強化》!」
悠斗の足の下で緑がかった光が一瞬走った。
次の瞬間には、悠斗の身体は、もう茂野の大盾の脇をすり抜けていた。盾の角度が、《光球》の白い輝きに引かれて、上向きにずれていたそのわずかな隙間を悠斗の槍が突っ切った。
盾の後ろの赤羽の腹部に悠斗の槍の穂先がまっすぐ突き入った。
「四組第二班、火魔法使い・赤羽、KO判定」
審判の声がもう一度響いた。
赤羽の身体が、氷の帯の上で、ずるりと滑り落ちるように崩れた。
茂野が、初めて、振り向いた。
寡黙な職人の表情の、静けさが、初めて揺れた。
振り向いた茂野の左肩。盾を構えるため後ろへ引かれていた左肩の位置に、蒼真はすでに次の矢を引き絞っていた。
通常射、十二メートル。
魔力を、込めない。普段通りの射。
茂野の盾は、今、悠斗の方を向いている。
矢が、蒼真の指先から、離れた。
蒼い軌跡がフィールドの石床に白い尾を引いた。
矢は、茂野の左肩の付け根に垂直に近い角度で当たった。判定光が、茂野の身体の周りで、橙から赤そして深い赤の輪郭へと一気に色を濃くした。
「四組第二班、剣士・茂野、KO判定」
茂野の身体が、大盾を抱え込むようにして、その場でゆっくり膝から地面に崩れた。
大盾の鋼の縁が、石の床の上で、軽く金属音を立てて転がった。
◇
「弐、込めるぞ」
蒼真は、航の方を、振り向かないままで低くつぶやいた。
「了解だ」
航の返事は、半呼吸、早かった。
残るは、フィールドの中央で、航と打ち合っている西島とその後ろで氷の帯の上をよろめきながらもう一度剣を構え直そうとしている榊原。前衛二枚と後衛なし。
蒼真は、新しい矢を、矢筒から抜いた。
弽の革の上で、指先が、弦に乗る。引き分けを取る瞬間いつもより半呼吸長く矢を胸の真ん中まで引き寄せた。
息をゆっくり吸い込む。
身体の内側で魔力の流れを鏃の方へ束ねる。
弓を引く動作と、魔力を束ねる動作が、一つの呼吸の中で重なる。
鏃の先で、蒼い光の輪郭が、いつもの通常射よりももう一段濃く立ち上がった。
矢柄がその光の濃さに応じて唸るような音を立てる。
『弐』。九十五。
決め所に、一射。
蒼真は、矢を、放った。
矢の蒼い軌跡が、フィールドの石の床の上に、いつもよりもう一段濃く白く尾を引いた。
軌跡は、まっすぐフィールドの中央へ、走った。航の剣の動きを半呼吸外しその向こうで上体を立て直しかけていた西島の胸の中央へ。
判定光が西島の身体の周りで深い赤の輪郭へと一気に色を変えた。
「四組第二班、班長・西島、KO判定」
審判の声が、フィールドの上に、響いた。
西島の身体が、剣を取り落とすことなく、まっすぐ後ろへ倒れた。最後の最後まで剣士としての構えを崩さなかった倒れ方だった。
「最後の一人!」
悠斗の声が、フィールドの中央から、飛んだ。
氷の帯の上で、榊原が、靴底を滑らせながらそれでも剣をもう一度構え直そうとしている。
航がすでに榊原の正面に回り込んでいた。
「《斬撃強化》」
航は、いつもの平らな声で、短くつぶやいた。
剣の刃に、銀色の輪郭が走った。
半呼吸の間に航は踏み込んでいた。氷の帯の上で足を取られた榊原の剣が半拍遅れて上がる。航の剣がその剣の腹を軽く外して、榊原の脇腹へ当たった。
判定光が榊原の身体の周りで深い赤の輪郭へと変わった。
「四組第二班、剣士・榊原、KO判定」
審判の声が、もう一度響いた。
榊原の身体が、氷の帯の上で、横向きにゆっくり倒れた。
◇
審判のスピーカーがフィールドにはっきりと響いた。
「四組第二班、全員、KO。試合終了。一組第五班、勝利」
フィールドの中央で、悠斗が、槍を地面にすとんと立てた。
航が、剣を鞘に戻しながら、半眼のまま口角の片側をいつもよりもう一段上げた。
紅葉が中衛右側で半身の構えをようやく解いた。
里奈の杖の魔導具の連動部分の淡い白い光がすっと消える。氷壁と氷床が両方とも結晶の輪郭から水蒸気へと変わっていく。
真帆の《光球》がフィールド中央の上空で霧散していった。
蒼真は、和弓を、ゆっくり降ろした。
左手の押し手の素手が、和弓の握りから、離れる。右手の弽の革が矢筒の縁に軽く触れてまた離れた。
息をゆっくり吐く。白い息が口元で雲になった。
審判のスピーカーがもう一度響いた。
「試合時間、八分四十二秒。一組第五班、KO勝ち」
会場のどよめきがもう一度冬の朝の空気を揺らした。
観客席のあちこちで拍手が立ち上がる。小さく始まった音は、すぐ確かな密度を持った。
「勝った」
悠斗が、槍を、地面に立てたままこちらを向いていつもの肩を揺らした笑い顔で声を張った。
「勝ったな! 八分。八分だぞ!」
「八分」
「弐、最後の一発、効いたなぁ!」
「効いた」
「曲弦射、あれ、すごかった! 十ヶ月ぶりがいきなり本番だもんな!」
「いきなり本番」
「お前ぶっつけ本番上手すぎだろ!」
「ぶっつけじゃないよ。訓練で何百回も」
「俺何百回は見てない!」
「悠斗口動かしすぎ」
航が、半眼のまま、剣を鞘に戻し終えた手で悠斗の槍の柄を軽く横からつついた。
悠斗が、肩を、もう一段揺らして笑った。
「いいんだよ、勝った時くらい!」
「勝った時くらい、な」
「お、お前も、認めるんかよ!」
「認めないとは言ってない」
「ほんとお前性格悪いな!」
「知ってる」
「悠斗声まだフィールドの外まで届いてるよ」
紅葉が、半身の構えを解いた後、ようやく半歩こちらへ寄ってきた。口元には、戦闘中よりも、もう一段はっきりとした笑みが乗っていた。
「いいんだよ、届いて!」
「観客席に、紅葉のお父さん、来てないよねほんとに」
「来てねえって、何度言わせるんだよ!」
「よかった」
「お前それ二回目!」
紅葉は、肩越しに、ふっと短く笑った。
里奈と真帆が、後衛位置から、ほぼ同時に半歩前へ歩み寄ってきた。
「《氷壁》、最後まで、もちました」
「《光球》、二個目も、効いてくれてよかったです」
「二人とも上手かった」
蒼真は、頷きながら、二人に短く返した。
里奈の頬は、寒さのせいか緊張がほどけたせいか、いつもより色づいて見えた。真帆の白い手が杖の柄をぎゅっともう一度握り直してからゆっくり力を抜いた。
「八分」
航が、その横で、もう一度つぶやいた。
残り時間、六分十八秒を、まだ消費していなかった。
◇
審判の指示で、両班の選手が、フィールドの中央にもう一度集まった。
四組第二班の六人は、魔道具の解除を経て、それぞれゆっくり立ち上がっていた。精神フィードバックで気絶していた身体が解除と同時に現実の感覚を取り戻してけれどもその表情にはまだ試合中の集中の余韻が残っている。
西島が、フィールドの中央に、まっすぐ歩み出てきた。
胸の位置に出ていた深い赤の判定光はもう消えていた。けれども、その立ち姿の、足の幅はまだ剣士のままだった。
「神代」
西島の声は、低かった。
「弓潰しは、想定通り、跳ね返された」
「想定通りに行ってもらえたから、こちらも、揃えられた」
「あの曲がるヤツ」
「うん」
「情報として知ってはいたが実際初見で対応するのは難しかったな」
「あれは十ヶ月撃ってなかったから」
「ふん」
西島は一度息を吐いた。
「うちの茂野の盾抜くのに、横から回り込ませるとはな」
「正面は無理だった。あの盾、最後まで嫌だったよ」
「嫌だった、か。なら少しは仕事したな」
「ああ。だから曲げた」
「次は勝つ」
「望むところだ」
西島は、それだけ言って、右手をまっすぐ差し出してきた。
蒼真は、その手を、左手の押し手の素手でしっかり握り返した。
西島の手のひらは戦闘中の汗で湿っていた。蒼真の手のひらも同じように汗ばんでいた。
茂野が、その横から、半歩近づいてきた。
寡黙な職人の表情は、もう、いつもの静けさに戻っていた。けれども視線だけが蒼真の右手の弽の革の上をじっと見ていた。
「あの軌道」
茂野は、初めて、こちらに声をかけた。
「うん」
「盾の右の縁、半拍、回り込まれた」
「茂野の盾、想定よりも、ずっと固かったから」
「ふん」
茂野はそれだけ言って、視線をフィールドの石床に戻した。
蒼真は、その短いやりとりの中に、職人が職人を認めた時の静かで確かな空気を感じた。
◇◆◇
観客席の東側上段から、二段ほど下りた位置で、凛は両手をマフラーの中にもう一度深く埋め直していた。
フィールドの中央で、両班の班長が、握手を交わしている。
その握手の長さが九ヶ月前の四月のあの日のあの握手の長さとほとんど同じだった。
「凛ちゃん」
ほのかの声が、隣で、静かに響いた。
「ん」
「さっきの一射、決勝でも出すと思う?」
「分からない。相手が違えば、使い方も変わる」
「そっか。じゃあ、今日見たまま覚えておく」
「うん。ほのかも、白魔法使いの動き見てたでしょ」
「見てた。藤野さん悪くなかったよ」
「……私もそう思う」
ほのかはそれ以上何も言わなかった。
凛は視線を、握手を解いて自分の班員の方へ戻っていく弓術士の背中へ戻した。
あの背中の歩幅は九ヶ月前の四月のあの日より広い。
その横に五人が立っている。
凛は、自分の中で、小さく頷いた。
誰にも、何も、言わなかった。
◇◆◇
審判の指示で、両班の選手がフィールドから退場する。
退場ゲートの方へ向かいながら、悠斗が肩越しに振り返ってきた。
「蒼真!」
「ん」
「次の試合も、あれ、出すのか?」
「相手次第。次の機動型には、たぶん、出さない」
「マジか」
「視線切ってくる相手に横へ流す射は合わない」
「お前引き出し多いな」
「必要だから増やしてる」
「謙遜すんなって」
「謙遜じゃないよほんとに」
「……ほんとお前らしいな」
「お前らしいって何だよ」
「いいんだよそれで」
悠斗は、肩を、もう一度揺らして笑った。
航がその隣を半歩後ろからついてくる。剣はもう鞘の中に収め直していた。
「悠斗、声」
「フィールドの外まで届いてる、だろ? 知ってるわ、もう」
航はそれだけ返して、口角の片側を上げた。
紅葉と里奈と真帆が、後ろから、半歩遅れてこちらの歩幅に合わせてついてきていた。
◇
退場ゲートを潜る直前、蒼真は、一瞬視線を観客席の方へ向けかけた。
けれども、その視線は、観客席の縁の庇の下までは上げなかった。
観客席の方は見ない。試合の朝控室で自分で決めたことだった。
冬の朝の弱い太陽光が、フィールドの石床にまだ白く落ちている。
その光の上を、班員五人の足音がこちらに合わせて退場ゲートへ向かっていく。
蒼真は、和弓を左手の脇に軽く抱え直した。
退場ゲートの先には、選手控室がある。控室の先には、医務室と、廊下と観客席通路がある。観客席通路の先には、次の試合の次の相手がいる。
予選第二戦。3組第4班。機動型。風魔法と斥候。視線を切ってくる相手。
「次、機動型」
航が、半歩後ろから、ぽつりとつぶやいた。
「機動型」
「視線、切られる」
「切られる」
「曲弦射、出さない方向だな」
「出さない」
「《小転移》、フェイント、行くか」
「たぶん」
「了解だ」
航はそれだけ返すと何も言わず、こちらの半歩後ろを保ったまま退場ゲートを潜った。
蒼真もその後を追って退場ゲートを潜る。
ゲートの先、控室へ続く通路の下で五人の足音と自分の足音が重なって響いた。
冬の朝の、最初の試合が、終わった。
残り、三戦。




