第102話 立川学院演武場
二月第二週、火曜日の朝六時前だった。
目覚ましのアラームより、五分早く目が覚めた。神代蒼真は布団の中で天井をひとしきり眺めてから、上体を起こした。
錦町のマンションの六階の自室。和室の畳の上にはまだ薄い暗さが残っていて、雨戸越しの窓に、立川の冬の朝の灰色が透けている。寒さは、骨の芯にすっと触れるほどではない。昨夜、寝る前に和弓に左手を当てた時の指先の感覚は、今朝もまだ残っていた。
布団を畳んで、押し入れの中に放り込む。
台所に立って、まずは湯を沸かした。コップに白湯を一杯。胃の中の冷えを起こしてから、ご飯を炊いている間に、和室に戻って装備一式の確認に入る。
和室に戻ると、矢筒とナイフポーチを順に開いた。矢は二十四本。ナイフは六本。触媒も昨夜のうちに結び直してある。机の上のメンテナンスノートには、最後の一行だけが残っていた。
『明日、六人で、やる』。
全部、揃っていた。
台所からご飯の炊ける匂いが薄く立ち上がってくる。蒼真はメンテナンスノートを閉じて、机の引き出しに片付けてから、もう一度台所へ戻った。
朝飯は、普段と同じものを並べた。炊き立てのご飯に味噌汁、納豆。卵焼きだけは昨日の残りだ。
いただきます、を口の中だけで言って、箸を取った。
昨夜の悠斗の「明日の朝はさあ、緊張で入らない可能性、まあまああるんだよ」を、ふと思い出した。あいつは今朝、寮の食堂で、ちゃんとご飯を食べているだろうか。あの口ぶりだと、たぶん大盛りを頼んで半分は腹に押し込む。おかずだけ平らげて、ご飯は残す――そんな食べ方が目に浮かんだ。
蒼真はひとり、卵焼きの最後のひと切れを口に運びながら、口角が動いたことに気づいた。
箸を置いて、湯呑みのお茶を、ひと口。
朝の七時前だった。
◇
玄関で靴紐を結ぶ前に、蒼真は和弓ケースの肩紐を一度だけ引いた。腰の矢筒と右太腿のナイフポーチも、歩いて揺れない位置に収まっている。
和弓は本体ケースに収めて肩から背負う形。メンテナンスノートとペンとタオルと予備の弦と矢羽の補修用の小道具は、布製のサブバッグの中。
弽の布袋から、革を取り出した。十二歳の頃から使い込んできた、神代家伝来の独自仕様の弽。右手の親指の付け根に革を当て、手の甲側へ回り込ませる形でいつもの位置に着け直す。革の馴染んだ感触が、指の付け根の骨の上に、すっと落ちた。
冬の薄手の手袋を、両手の甲側に。指先までは覆わず、手の甲と手首の冷えだけを抑えるための綿の手袋。右手側は弽の革の上に手袋を乗せる形。左手側も、同じく、手の甲側だけ。
玄関の鏡に、一度だけ目を向けた。
九ヶ月前の四月、入学初日の朝とは明らかに違う身体つきの自分が、そこに立っていた。背丈はあの頃から大きく変わっていない。それでも肩の幅と腕の輪郭には、矢を引き続けてきた九ヶ月分の厚みがあった。
「――いくか」
声に出して、靴紐を結び直した。
マンションの一階のエントランスを出て、錦町の住宅街の細い道を、立川駅前の方へ向かって歩き出す。冬の朝の空気が、頬の上を白く流れた。歩幅は、いつもの登校時より、わずかに広かった。昨夜めしや鷹丸の暖簾を出た時に航から言われた「お前、今日、歩幅広いな」が、ふと頭をよぎる。
でも今朝の歩幅は、自分でもはっきり自覚していた。
頭の中では、もう次の手を組み始めている。隠せそうになかった。
◇
立川駅前のロータリーで、悠斗と航と紅葉と落ち合った。
寮通学組の三人は、寮からここまで来た格好で悠斗が片手を挙げた。
「おう、おはよ」
「おはよう、悠斗」
蒼真が頭を軽く下げると、悠斗は槍を担ぎ直してから、両手を背中の後ろで組んだ。
「お前、朝飯食ってきたか?」
「食ったよ。ご飯と味噌汁と納豆と、卵焼きの残り」
「卵焼きが残ってる男、強いな」
「何が強いんだよ」
「自炊レベルが高い男は、たぶん精神も安定してる。学術的に証明されてる」
「されてねえだろ、それ」
航が横から、湯気の出る白い息を吐いた。
「悠斗、お前は、何食ってきたんだ」
「俺? 俺は寮の食堂で、白米と味噌汁と焼き魚。お代わり一回。あとはバナナ二本」
「バナナ二本、多いな」
「試合前はバナナ、っていうの、聞いたことあるんだよ。糖が抜けにくいとか何とか」
「お前、それ、根拠あんのか?」
「ない。雰囲気だ」
「雰囲気で食うな」
航が小さく半眼を返して、悠斗が肩を揺らして笑った。
紅葉が斜め後ろから、その様子を見て、淡く笑みを含んだ目元のまま、口を開いた。
「私、リンゴ半分とトースト」
「軽いな」
「朝、あんまり入んないの私」
「お前、試合中もつのか?」
「もつよ。エネルギーバー、ポーチに二本入れてある」
「準備、いいな」
「準備しないと、嫌だから」
紅葉は、それだけ言って、駅前のロータリーの方を見た。
ロータリーの向こうから、里奈と真帆が、改札の方から並んで歩いてくるのが見えた。電車通学組の二人だった。蒼真は片手を軽く挙げて、ふたりを迎えた。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはよ、ふたりとも」
里奈の声は、いつもより声量が控えめだった。緊張で身体が縮こまっているわけではない。声の出し方が、まだ朝の冷えに馴染みきっていない雰囲気だった。
真帆は肩に掛けた小さなポーチの紐を両手で軽く整えてから、にっこりと笑った。
「電車、混んでた?」
「中央線はいつもの感じ。私、三鷹からだからかちょうど座れたの」
「私も、今朝は座れたよ」
「よかった」
悠斗が、両手を背中の後ろに組んだまま、ふたりの方へ顔を向けた。
「ふたりとも、朝飯は?」
「私、おにぎり一個とお茶」
「私は、家を出る前に、お母さんが、おうどん作ってくれて」
「おうどん、いいな」
「あったかいの、もらってきました」
真帆の母親が娘の試合の朝にうどんを作ってくれる。その光景が、蒼真の頭の中に浮かんだ。真帆は、家族の手の中で、温かいものを口に入れてから、ここに立っている。
「いい朝飯だな」
蒼真は、思わず口に出した。
「な、お前、家族から、何か言われた?」
「うん、お母さんが、『頑張ってきなさい』って。お父さんは、まだ寝てて――」
「お父さん、まだ寝てたか」
「うちのお父さん、朝、弱いんです」
「弱いか」
「弱いです」
真帆はそう言ってから、マフラーの端を口元へ引き寄せた。
航が腕時計に目を落とした。
「時間、いいか? 今、七時三十五分。集合は九時。演武場まで、徒歩、十五分。途中で軽くお茶を入れる時間もある」
「お茶、入れたいな」
「グリーンスプリングスのカフェ、開いてる?」
「七時開店だな。確認済みだ」
「お前、それも調べたのか」
「調べた」
航は淡々と返してから、サンサンロードの方を示すように半歩前へ動いた。
「行くか」
六人が、それぞれの方向の足を、サンサンロードの中央へ向かって、揃え直した。冬の朝の光が、アーケードの天井から白く落ちていた。
◇
グリーンスプリングスの一階のカフェで、六人とも、温かい飲み物を一杯ずつ取った。
蒼真はホットの紅茶。悠斗はミルクの多いカフェオレ。航はブラックのコーヒー。紅葉はホットのほうじ茶。里奈はホットのカフェオレで、真帆はホットのミルクティーだった。
テーブルを囲んで腰を下ろした六人の頭上に、店内の暖房の風が静かに落ちてくる。
「今日、寒くないか、思ったよりも」
悠斗がマグカップを両手で抱えながら、つぶやいた。
「寒くないか?」
「うん、寒くない。昨日の夜と、変わらない」
「変わらないか」
「昨日の夜、サンサンロード歩いて帰る時、もっと冷えてた気がする」
「気のせいだ」
航がコーヒーをひと口飲んでから、半眼で返した。
「今朝の気温、五度。昨夜は二度。今朝の方が三度高い」
「お前、気温まで調べたのか」
「調べた」
「お前、最近、調べすぎじゃないか?」
「役割だ」
「また、それかよ」
悠斗が肩を揺らして笑った。紅葉が湯呑みのほうじ茶を、両手で軽く回しながら、ふっ、と短く笑った。
里奈が自分のカフェオレに口をつけてから、湯気の立ち上る先をしばらく見つめた。
「あの、ね」
里奈は静かに切り出した。
「私、今朝家を出る時に、お母さんが玄関まで送りに来てくれて」
「うん」
「『行ってらっしゃい』って、二回、言ってくれたんだよね」
「二回?」
「いつもは、一回なんだけど。今朝は、たぶんお母さんもちょっと、緊張、してて」
「お母さんも緊張するんだな」
「するみたい。お父さんは、いつも通り朝刊読んでた」
里奈は自分で言ってから、ふっと短く笑った。
「お父さん、たぶんそっちの方が、私のためにはいいんだと思う」
「いい、っていうのは?」
「うん、家の中で誰かがいつも通りに新聞をめくっててくれる感じが、たぶん」
里奈はそこでいったん言葉を止めて、カフェオレをもうひと口すすった。
真帆が湯気の向こうから、両手で湯呑みを包んだまま、にっこりと頷いた。
「うちのお父さん、今朝はまだ寝てたから――起きてたら、たぶん何も言わずに新聞をめくってたと思う」
「そういうお父さん、いいよね」
「うん、いい」
ふたりの母娘の朝の光景が、蒼真の頭の中に二つ並んだ。
里奈の家の玄関先、お母さんが「行ってらっしゃい」を二回。
真帆の家の台所、お母さんがうどんを作って、お父さんは寝ている。
それぞれの家族の見送り方が、紅茶のマグカップの湯気の向こうで揺れた。
悠斗が、自分の家族の話を、いつになく自然に振った。
「俺んち、仙台だからさ。今朝はLINEで母さんが『頑張りなさい』って、それだけ。スタンプも、何も、なし」
「シンプルだな」
「うちの母さん、シンプルなんだよ。父さんは、たぶんまだ何も知らないと思う」
「お前、父さんに、対人戦の話、してないのか?」
「してないわけじゃないけど。仕事が忙しい時期だから、母さんからは『お父さんは、今朝も会社に行った。試合のことは、夜になったら伝えとく』だってさ」
「夜になったら、か」
「うん、夜になったら」
悠斗は半笑いで、カフェオレをもうひと口飲んだ。
航が湯呑みを置いてから、視線を、机の中央のあたりに落とした。
「俺は、伝えてない」
「家族に?」
「ああ。試合の日程は、伝えてある。だが、勝った負けたの結果については、伝えるつもりはない。試合の終わった夜、メッセージが向こうから来たら、その時に返す」
「お前らしいな」
「らしさ、っていうのは何だ」
「お前のは、家族に対して、結果報告を取りに行かない感じ。向こうが訊いたら、答える。訊かなかったら、それまで」
「悪いか?」
「悪くない。むしろ、お前らしい」
「らしさ、っていうのは結局、何なんだ」
航が半眼で悠斗を見返した。蒼真は思わず、紅茶のマグカップを口元に運ぶ手を、一拍だけ止めた。
紅葉が小さく肩を揺らして笑い、里奈と真帆も、互いに顔を見合わせて、口元を緩めた。
「お前ら、たぶんずっとこの調子だな」
「うん、ずっと、この調子だね」
紅葉が短く返してから、ほうじ茶をゆっくりとすすった。
◇
八時三十分前、六人は学院の正門をくぐった。
正門を入ってすぐの広場には、いつもよりも明らかに人の数が多かった。観戦に来た上級生、講師陣、それから対人戦予選を観るために集まった他クラスの一年生。ジャージ姿の生徒たちの中に、ぴしっとしたコートを羽織った保護者らしき人影も混ざっている。
蒼真は、その光景を、視界の端だけで捉えた。じっくり見て頭の中で意味付けする時間は、今朝はなかった。
「お、観客、多いな」
悠斗が槍を担ぎ直しながら、白い息を吐いた。
「百人、超えてるか?」
「たぶんな。一年生の他クラスの分と、上級生の分」
「うわ、四月の時より、多いんじゃないか?」
「四月の時って?」
「お前と須藤の模擬戦の時」
「ああ――」
蒼真は一拍だけ、足を止めかけて、また歩き出した。
「あの時は、たぶん百人ちょい」
「今日は、百五十、いってんじゃねえか」
「いってんな」
航が淡々と続いて、視線を演武場の方へ向けた。
立川学院の演武場は、正門から見て、敷地の南西側、屋外スタジアム型の構造を取った石造りの楕円形フィールドだった。フィールドの周りを階段状の観客席が取り囲み、観客席の最上段の上に、薄い庇が張り出している。冬の朝の弱い太陽光が、庇の影越しにフィールドの石の床へ斜めに落ちている。
九ヶ月前――四月の半ば、入学から十日余りのあの日。
蒼真がこのフィールドの中央に立って、須藤大河と向き合った日。
あの日のフィールドの石の床は、今朝の冬の朝の石の床と、同じ場所だった。
蒼真はフィールドを見渡した。石床の色も、観客席の角度も、四月と同じだ。けれど、背中の後ろには五人分の気配がある。その違いだけで、足裏の感触まで変わっていた。
「蒼真」
航が、横から短く声をかけた。
「あの日と、似てるか?」
「似てるけど、違う」
「どう違う」
「あの日は、自分一人で立ってた。今日は、五人と、一緒に立つ」
「――そういう違いか」
「そういう違いだ」
航は、それ以上は何も訊かなかった。ただ、口角の片側を上げた。蒼真は、それを横目で見て、自分も口角の動きを、一度だけ自分で確認した。
悠斗が、その横で、槍を一度地面に立てて、軽く石突きを石の床に当てた。コツ、という乾いた音が、冬の朝の空気にぽつりと響いた。
◇
演武場の南側に、選手控室への入口があった。
扉を押し開けると、内側はリノリウムの床の、四角い部屋だった。八畳ほどの広さで、壁際に長椅子と、ロッカーが並んでいる。窓は北側に細長く一枚だけ。室内には、暖房が、控えめに効かせてある。
蒼真たちが入ってから一分ほど後、扉の外から、軽い足音がした。
「失礼する」
扉を開けて入ってきたのは、後藤喜一郎だった。
いつもの薄茶のコートを羽織って、首元に薄い灰色のマフラーをくたっと巻いて、片手にクリアファイルを抱えている。気だるげな顔つきは普段通りだったが、目元だけはかすかに笑っていた。
「おはよう、ございます」
「おはよう。今日の天気、いいな」
「はい」
「神代、緊張してるか?」
「――してます」
「それでいい」
後藤はそう返してから、控室の中をぐるっと見渡した。
悠斗が立ち上がって頭を下げ、航と紅葉と里奈と真帆も、それぞれ頭を下げた。後藤は、片手を一度、軽く振った。
「揃ってるな」
「揃ってます」
「装備は?」
「最終確認、これからです」
「うむ」
後藤はクリアファイルを長椅子の上に置いて、その上に右手を、軽く乗せた。
「審判団からの注意事項を、これから配る。九時半に、フィールド係の引率で、入場ゲートに移動。九時四十分にフィールド入場。九時五十分に、相手班との挨拶と所定位置への移動。十時に、銅鑼の音で試合開始。試合終了は最大で十時十五分」
「了解です」
「終わったら、控室に戻って、装備を解除。十一時までに、観客席へ移動。同グループ三班の試合観戦、午前と午後で全部観る、ということでいいな?」
「はい、その予定です」
「よし」
後藤はそれ以上は、何も指示を加えなかった。ただ、立っている位置から室内の六人の顔を一人ずつ見ていった。
最後に、蒼真の方を見て、片手のクリアファイルの上に乗せた手を、軽く動かした。
「神代」
「はい」
「お前らの戦い方は、お前らの戦い方でやれ。俺はフィールドの外から、見てる」
「ありがとう、ございます」
後藤はそれだけ言って、扉の外へ戻っていった。閉まる扉の向こうで、薄茶のコートの背中が廊下へ消えた。
「先生、いいよなあ」
悠斗が、扉を見たまま、小さく笑った。
「いいよな」
「『お前らの戦い方は、お前らの戦い方でやれ』だってさ」
「そういう人だよな」
「俺、ああいう大人になりたいな」
「無理だな」
「なんで!?」
航が即答で半眼を返し、悠斗が肩を揺らして笑った。蒼真も思わず口元が緩んだ。
◇
九時前、装備の最終確認に入る。
蒼真は和弓を弓立てから外し、弦の張りをもう一度軽く弾いて確かめた。
矢筒を腰の右側に固定。矢、二十四本。
スローイングナイフのポーチを右太腿の外側に固定。ナイフは六本。爪と髪の触媒は、それぞれ柄の根元に括り付け済み。
弽の革は、玄関で着けてからずっと、右手に馴染んでいる。
冬の薄手の手袋は、フィールド入場前に外す。フィールド内では、いつも通り弽のみ+押し手は素手の構え。
悠斗が槍の重心を、両手の中で何度か入れ替えながら、軽く振った。
「うん、いつも通り」
「重さ、感じるか?」
「感じないな。たぶん、いい状態」
航が剣を目の前に立て、刃先と柄の根元のラインをひと目で確かめてから鞘に戻した。
「いいな」
「整ってるか?」
「整ってる」
紅葉が斥候用の細身の短剣と装備ベルトの取り回しを、両側から順番に押さえて位置を直した。
「うん、大丈夫」
「左右、ずれてないか?」
「ずれてないよ」
里奈が杖を両手で立てた。杖頭の魔導具の連動部分で、淡い白い光が一度だけ脈打って消えた。
「魔力の通り、いいです」
「氷、出せるか?」
「出せます。今朝、家で氷の欠片を出す基礎練習だけ試しました」
「お前、家でも試したのか」
「ちょっとだけ」
「いいね、それ」
真帆が膝の上に置いていた杖を両手で持ち直した。杖頭の白い魔導具に指先を添えて目を閉じる。
「《光球》、《光盾》、《回復》。全部、頭の中でシミュレーションは終わりました」
「いいぞ、真帆」
「ありがとう、ございます」
真帆は目を開けて、杖を胸の前に立てたまま笑った。
九時十五分を過ぎる頃には、誰も声を張らなくなっていた。槍の柄を撫でる悠斗、剣帯を直す航、杖の位置を確かめる里奈と真帆。その小さな音だけが控室に残った。
蒼真は和弓を、もう一度左手で握り直してから、目を閉じた。
頭の中で、これから始まる試合の最初の十秒をもう一度なぞる。
審判の銅鑼。フィールドを覆う魔道具の起動光。悠斗が前衛位置から床を蹴る音。航が一拍遅れて剣を低く構える音。紅葉が半歩前に出る気配。里奈の杖が下から上へ持ち上がる音。真帆が杖頭に指先を添える気配。
そして、自分の手の中の和弓の握りに、左手の感触が乗る。
最初の十秒を頭の中で走らせ終えると、和弓を握る左手の指先に感覚が戻ってきた。
目を開けた。
控室の中の五人は最後の準備の途中だった。それでもどこかで、お互いの存在を無音のまま確認し合っているように見えた。
蒼真は和弓を左手で下ろした。
「――行くか」
蒼真は短く口を開いた。
「行こうぜ」
悠斗が即答で立ち上がって、槍を肩に担ぎ直した。
航、紅葉、里奈、真帆も装備を持って立ち上がった。
◇
九時三十分、フィールド係に呼ばれて、控室を出た。
演武場の南側の入場ゲート前で、もう一度フィールド係の指示を受ける。
「神代班、こちらが入場ルートです。フィールド入場後、東側の所定位置で待機してください。相手班――4組第2班――は、西側からの入場で、所定位置は西側です。両班の位置で待機いただいた後、九時五十分の合図でフィールド中央に集まり、両班長の挨拶と握手。終わったら、それぞれの位置に戻ってください。試合開始の合図は、銅鑼の音、一打。同時に、フィールド全体を覆う魔道具の起動光が青く一度脈打ちます」
「了解です」
蒼真は短く返し、フィールド係にもう一度頭を下げた。
入場ゲートの前で、六人が、隣り合うように並んだ。
右端に悠斗。その隣に航。蒼真は真ん中で、紅葉、里奈、真帆と続く。先週の通し稽古で使ったフォーメーションC第一稿と、ほぼ同じ並び方だった。
ゲートの内側の通路の先には、フィールドの入口の光が、薄く広がっていた。
悠斗が槍を、軽く担ぎ直した。
「な、蒼真」
「ん?」
「変に格好つけんなよ」
「そっちこそ」
「俺はいつでも格好いいだろ」
「それはない」
蒼真は、即答で返した。
航が、肩越しに、視線を蒼真の方へ向けた。
「歩幅、まだ広いか?」
「広いな」
「今日は、それでいい」
「うん、それで行く」
航はそれだけ言って、視線をフィールドの入口へ戻した。蒼真はもう一度、自分の口角が動くのを感じた。
◇
九時四十分、ゲート上のランプが点灯してフィールド入場の合図が示された。
六人がゲートの通路を、東側の入場口へ向かって歩き出した。
通路の先の光が、フィールドの石の床に白く落ちている。観客席の上の方から、ざわめきが空気を伝って降りてきた。
蒼真は和弓を左手に持ち直し、歩幅を身体の中で揃え直した。
フィールドの入口を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
石造りの楕円形フィールド。仮設の障害物は、石柱に見立てたものが三本。足場の段差に見立てた合板の台が二つ。配置は、先週の通し稽古で使った屋内訓練場とほぼ同じ。事前に協会データベースで公開された予選試合用の障害物配置データの通りだった。
観客席は、フィールドを取り囲む形で、階段状に、四方に伸びていた。座っている人の数は、入場前に正門前で見上げた印象通り百人を超えていた。Sクラスの区画らしき場所は、観客席の東側の最上段の付近。上級生らしき集団は西側。一般クラスの一年生の生徒たちは、両側に散らばっている。
蒼真は、観客席の方を、長く見なかった。
今見るべきは、フィールド西側から入場してくる4組第2班の輪郭。所定位置の足場。自分の射撃位置から見える障害物の影の入り方。
観客席の方には、目を向けなかった。
◇◆◇
観客席の東側の上段から、二段ほど下りた位置に、コートを羽織った女子が二人、並んで座っていた。
凛は両手を膝の上に重ねたまま、フィールド東側の入場口から入ってきた六人を視線で追っていた。
隣のほのかが、両手をマフラーに埋めながら、横目で凛を見た。
「凛ちゃん、息、浅くなってる」
「……そう?」
「うん。試合前って、見てる側も少し緊張するよね」
「ほのかも?」
「するよ。白魔法使いの子がいる班だと、余計に」
「……なら、同じ」
凛は、視線をフィールドの東側からそらさなかった。
九ヶ月前――四月の半ば、入学から十日余りのあの日。
凛がほのかと一緒に観客席のもっと下の段に腰掛けて、Sクラスの須藤大河と、まだ名前を知らない一般クラスの弓術士の模擬戦を初めて見た日。
あの日、フィールドの中央に立った弓術士は、一人だった。
今日、フィールドの東側に立っているのは、六人だった。
凛はその違いの意味を、自分の中でゆっくり確認した。
「凛ちゃん」
「ん」
「あの弓術士の子、こっちは見てないね」
「見てない。……今は、それでいい」
「うん。試合前だもんね」
「ちゃんと見たい。六人で立ってるところ」
「うん。わたしも見たい」
凛は、小さく頷いて、フィールドの東側へ視線を戻した。
フィールド東側の弓術士は、九ヶ月前より肩幅が広くなっていた。腕の輪郭にも、前にはなかった強さがある。
凛はその変化を、目で確認した。
◇◆◇
フィールドの西側の入場口から、4組第2班の六人が、入場してきた。
班長――西島慎也と思しき長身の剣士が先頭。その後ろに大盾を背負った剣士ともう一人の剣士。火炎の魔法使い、斥候、ヒーラーが続く。
西島がフィールド西側の所定位置で立ち止まり、班員五人を後ろに従えた。視線はフィールド東側の蒼真へまっすぐ向けられている。
蒼真は、その視線を、まっすぐに受け止めた。
九時五十分、銅鑼の事前打ちが軽く鳴り、フィールド中央への移動を知らせた。
両班の班長が、それぞれフィールド中央へ歩き出した。
フィールドの中央で、蒼真と西島が、向かい合った。
西島は蒼真より半歩ほど背が高い。剣士らしく肩まわりが厚く、両手は剣の柄に軽く乗っていた。視線はまっすぐで、迷いはない。
「神代、だな」
「ああ」
「お前の弓は見たことがある。先週の予選前、協会データベースにお前の試合動画が何本か上がってた」
「うん」
「曲がる矢と《小転移》、両方見せてもらった」
「そうか」
「うちの班は剣士四、火炎一、ヒーラー一。お前の弓に対する答えは揃えてきた」
「準備完了ってとこか」
西島は、片手を差し出した。
「いい試合にしよう」
「ああ、いい試合にしよう」
蒼真は西島の手をしっかり握り返した。
握り合った手から、西島の汗ばみが伝わってきた。自分の手のひらも同じように湿っている。
握手を解いて、それぞれの所定位置へ戻る。
蒼真がフィールドの東側に戻ると、班員五人はそれぞれの位置で最初の構えに入っていた。
悠斗は前衛位置で、槍の石突きを石の床に一度立てた。コツ、という乾いた音。
航は悠斗の半歩斜め後ろで、剣を低く構えた。
紅葉は中衛の右側、斥候の動線の起点で、半身の構え。
里奈は後衛位置の左側で杖を両手で立て、魔導具の連動部分に淡い白い光を一度だけ脈打たせた。
真帆は後衛位置の右側で杖を胸の前に立てた。悠斗、航、紅葉、里奈の位置を順番に目で確かめる。
蒼真は中衛の射撃位置で、和弓を左手に持ち直した。
冬の薄手の手袋は、控室で外してきた。右手の弽の革は、親指の付け根にある弦枕の位置にしっかり乗っている。左手の押し手の感覚も、和弓の握りの上でいつも通り整っていた。
頭の中で、月曜のホワイトボードの七行がもう一度走った。
《小転移》――使う/使わない/フェイント、三択を回す。
本物発動は、たぶん温存。
『弐』、九十五。決め所に一射か二射。
里奈の氷床、帯。真帆の《光盾》と《回復》。紅葉の索敵。悠斗と航の前衛。
全部、頭に入っている。
審判の声が、フィールド中央のスピーカーから響いた。
「両班、所定位置、確認。試合開始まで、三十秒」
蒼真は和弓の握りに、左手の指先をもう一度しっかり乗せた。
矢筒の右側に、右手の指先で軽く触れた。
昨夜ノートに書いた最後の一行が、身体の奥でもう一度、静かに息を吹き返した。
――明日、六人で、やる。
蒼真は口の中だけで、もう一度それをなぞった。
審判の合図は、銅鑼の音一打。
低く長い銅鑼の音が、フィールドに広がる。その寸前の張りつめた静寂の中で。
蒼真は両足で、石の床をしっかり踏み締め直した。
冬の朝の光が、フィールドの石の床に白く落ちていた。




