表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/13

第二章 ―― 荒野に響く声 ―― 三、四、五

## 三 カイルという男


 男の名はカイルといった。


 廃墟の中で最も壁が残っている建物に、男の荷物があった。大きなリュックと、毛皮の寝具と、鍋と、食料の袋。それなりの量だった。一人でここに留まっていたのは、数日ではないとわかった。


「なぜここにいる」とノアは聞いた。焚き火の準備をしながら。


「通り道だ」とカイルは言った。薪を割りながら。「西から東へ向かうと、ここを通るのが一番早い。食料と水を補充して、また動く」


「水は」


「あの井戸は枯れてるが、東の岩場に湧き水がある。半日歩けば着く」


 アタカが鍋の中を覗いていた。「これ、何の肉?」


「鳥だ。昨日捕った」


「荒野に鳥がいるの?」


「いる。小さいが、旨い。焼いても煮ても食える」カイルは火に枝をくべながら言った。「カルノでは教えないだろうな。外には何もないと言うから」


「知ってたのか、カルノのことを」


「少しな」


 ノアはカイルを見た。この男もカルノの出身なのか、それとも別の場所から話を聞いたのか。聞こうとしたとき、鍋が音を立て始めて、アタカが「沸いてきた」と言った。


 夕食は鳥の肉と、カイルが持っていた根菜を煮込んだものだった。汁物だ。五日間、乾いたパンばかりだったノアには、それだけで十分すぎるほどだった。アタカは最初の一口を飲んで、目を閉じた。


「おいしい」と言った。感情が漏れた、という感じの声だった。


 カイルは照れたのか、そっぽを向いた。「大したものじゃない」


「大したものだよ」とアタカは言った。「五日ぶりにあったかいもの食べた」


「五日間何を食ってた」


「パン」


「……よく歩けたな」


 食事が終わって、火が落ち着いた頃、カイルは腕を組んで二人を交互に見た。「聞いていいか」


「何を」と、ノアは言った。


「街を出るには、それぞれ事情ってもんがある。俺は詮索が好きじゃないから根掘り葉掘りは聞かない。ただ一つだけ。――お前ら、戻るつもりがあるか」


 ノアはアタカを見た。アタカはノアを見た。二人は同時に前を向いた。


「ない」とノアは言った。


「今は、ない」とアタカが言った。「でも、いつかは、わからない」


 カイルは頷いた。それ以上聞かなかった。


 しばらく沈黙があった。火が時々はじける。風が廃墟の隙間を抜ける。遠くで、また獣の声がした。昨夜より遠い。


「あんたは」とアタカがカイルに聞いた。「戻るつもりは?」


「どこへ」


「街へ。カルノじゃなくても、どこかの街へ」


 カイルは少し間を置いた。「俺も、今はない」


「事情があるんですか」とアタカが言った。


「あると言えばある」カイルは槍を横に置いて、火を見た。「詮索しないと言ったが、お前らが話したいなら聞く。俺の話も、聞きたければ話す。どうする」


 ノアはアタカを見た。アタカが小さく頷いた。


「聞かせてほしい」とノアは言った。


---


## 四 風の音を聞いた者


 カイルはしばらく黙っていた。火を見ていた。それから、ゆっくり話し始めた。


「俺も街にいた。カルノじゃない、別の街だ。似たような場所だったが。祈りがあって、外に出てはいけなくて、決まった仕事をして、決まった時間に眠る。そういう場所だ」


「いつ出た」とノアは聞いた。


「十年ほど前だ。正確には覚えていない」


「十年」とアタカが言った。「ずっと荒野にいたの?」


「ずっとじゃない。街と街の間を動いている。定住する気になれなくてな」


「なぜ出たんですか」とノアは聞いた。


 カイルはまた少し黙った。それから、薪を一本手に取って、ゆっくり折った。二つに折れた薪を火に入れた。炎が揺れた。


「丘で、風の音を聞いたんだ」


 ノアは体が少し固まるのを感じた。


「風は毎日吹いてた。だが、ある日の風が、違った。音が違った。何かを言っているような気がした。言葉じゃない。だが確かに、呼びかけていた。俺に向かって」


 ノアは何も言わなかった。


「街の連中に話したら、異端だと言われた。精霊が個人に語りかけることはない、祈りの時間に皆で聞くものだ、そういう決まりがあるんだと。俺の聞いた風は、幻聴だと言われた」カイルは火を見たまま言った。「だから、逃げた。幻聴だとしても、聞こえたものは聞こえた。それを否定されて、その場所にいる理由が消えた」


 沈黙が落ちた。


 ノアは自分の胸の奥を感じた。あの渇き。あの足りなさ。風に向かって顔を向けるとき、何かが呼んでいると感じる、あの感覚。それと同じものを、この男も持っていた。


「俺も」とノアは言った。声が少し出にくかった。「風が、呼んでいると感じることがある」


 カイルがノアを見た。


「言葉じゃない。でも、確かに呼びかけている。その正体を探しに、街を出た」


「正体を探すために、目的地がないのか」とカイルは言った。


「そうかもしれない」


 カイルは少し目を細めた。それから、口の端をまた上げた。今度の笑いは、さっきより深かった。苦みがあったが、温かくもあった。


「お前らといると、不思議と風がはっきりする」とカイルは言った。「さっきから、聞こえる」


 ノアは耳を澄ました。


 確かに、風があった。廃墟の隙間を抜ける風が、いつもと少し音が違う気がした。気のせいかもしれない。だが気のせいではないかもしれなかった。


「俺も行く」とカイルは言った。「邪魔なら遠慮するが」


「邪魔じゃない」とアタカが即座に言った。


 ノアはカイルを見た。十年荒野を歩いた男だ。槍を持ち、鳥を捕り、水場を知っている。一緒に行けるなら、その方がいい。それだけでなく――この男も、同じものを探している気がした。


「一緒に来てほしい」とノアは言った。「俺たちだけでは、知らないことが多すぎる」


「素直だな」とカイルは言った。


「必要なことを言っただけだ」


 カイルは笑った。今度は声が出た。短い、乾いた笑いだったが、本物だった。


「明日から三人だ」とカイルは言った。「俺はカイル。お前らは?」


「ノア」


「アタカ」


 カイルは頷いた。「ノアとアタカ。覚えた」


 それだけだった。握手もなく、誓いもなく、ただ名前を交わした。それで十分だった。


 三人は同じ火を囲んだ。廃墟の風が、また一度強く吹いた。看板が軋んだ音を立てた。祈りを捨てし者の末路、と書かれた看板が。


 ノアはその音を聞いた。今日の風は、昨日よりはっきり聞こえた。


---


## 五 翌朝


 朝、カイルが先に起きていた。


 ノアが目を覚ますと、カイルはすでに荷物をまとめ終えていて、廃墟の入り口に立って東の空を見ていた。夜明け前の淡い光の中で、その背中は思ったより大きかった。


「早い」とノアは言った。


「癖だ」とカイルは振り向かずに言った。「明るくなる前に動く。荒野では日が高くなると熱い」


「なるほど」


「お前は寝起きがいいな」


「悪い方じゃない」


「お嬢さんの方は?」


 ノアはアタカを見た。まだ毛布にくるまっていた。顔が半分隠れている。


「……寝起きは悪い」


「そうか」とカイルは言った。特に驚いた様子もなく。「ならもう少し待つ」


 ノアはカイルの隣に立った。東の空を見た。地平線が薄い橙色から、少しずつ赤に変わっていく。雲が一筋あって、その裏から光が滲み出ている。


「カイル」


「なんだ」


「十年、一人で歩いて、怖くなかったか」


 カイルは少し間を置いた。「怖かった」


「でも続けた」


「風が聞こえたから」


 それだけだった。それ以上の説明はなかった。ノアは頷いた。説明は要らなかった。同じことだから。


 しばらくして、後ろで毛布がもぞもぞと動いた。アタカが起き上がる音がした。「……んん」という声がした。


「おはよう」とノアは言った。


「……うるさい」


「何も言ってない」


「存在が。……今何時」


「時計はない」


「カイルさん、今何時ですか」


「さあ。日が出るまで一刻もないくらいだ」


「一刻……」アタカはしばらく沈黙した。それから「わかった、起きる」と言った。


 カイルがノアの方を見た。目が「お前たちは面白い」と言っていた。声には出さなかったが、ノアにはわかった。ノアは少し肩をすくめた。


 三人は荒野へ出た。朝の風が吹いていた。冷たく、広く、どこか遠くから来る風だった。


 ノアは歩きながら思った。二人から三人になった。カルノから出て五日、廃墟の集落で、同じ風を聞く男に出会った。これは偶然だろうか。偶然だとしても、意味がある気がした。


 足りないものは、まだ見つかっていない。


 でも、探す仲間が増えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ