第一章補 ―― 荒野の二人 ――
## 〇 一日目、夕暮れの道
歩き始めて数時間が経った頃、ノアは足を止めた。
理由は、うまく説明できなかった。ただ、風が変わったと感じた。荒野を渡ってきた乾いた風の中に、別の何かが混じった。湿気というより、冷たさというより、もっと根本的な何かが。
「どうした」とアウラが言った。
「水場が、この先にある」とノアは言った。
「どうして」
「風が、そう言ってる気がする」
アウラは少し間を置いた。「風が?」
「うまく説明できない。ただ、感じる」
半信半疑のまま、アウラは歩き続けた。一時間ほど進んだ先に、岩の間から湧き出る小さな泉があった。
「本当にあった」とアウラは言った。
「ただの勘かもしれない」とノアは言った。
「勘じゃないと思う」とアウラは言った。ノアを見た。「あなた、こういうことよくある?」
「ある。でも、誰にも言えなかった。信じてもらえないから」
アウラはしばらく黙っていた。それから「信じる」と言った。「これからも、そういうとき、言って」
ノアは何も言わなかった。ただ、胸の中で、何かが少し緩んだ気がした。
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## 一 雨と、名前の話
二日目の夕方に、雨が降った。
予兆はあった。午後から風の質が変わっていた。乾いた砂の匂いがなくなって、代わりに遠い土の匂いが混じってきた。ノアはそれに気づいていたが、急げるほど急いでいるわけでもなかったし、雨宿りできる場所を探す余裕もなかった。
だから二人は濡れた。
大した雨ではなかったが、止む気配がなかった。岩の大きな影を見つけて、その下にしゃがみこんだ。岩の庇が狭くて、肩がぶつかるほど近くに並ぶしかない。アタカは膝を抱えて、じっと雨粒が地面を叩くのを見ていた。
「寒い?」とノアは聞いた。
「少し」
毛布を広げて、二人の肩にかけた。アタカが少し身を縮めて、毛布の端を掴んだ。
しばらく二人は黙っていた。雨の音だけがある。岩に当たる音、土に落ちる音、草を揺らす音。それぞれ違う音で、重なっている。ノアはそれを聞いていた。
「ノアって、雨の音、聞くんだね」とアタカが言った。
「聞く?」
「目をちょっと閉じてた。集中してるみたいな顔で」
ノアは自分でも気づいていなかった。「聞こえるから、聞く」
「私には全部同じ音に聞こえる」
「同じじゃない。岩に当たる音と、土に落ちる音は全然違う」
アタカは少し首を傾けた。それから真剣な顔で耳を澄ます様子をして、「……そう言われると、確かに」と呟いた。「でも今まで気にしたことなかった」
「気にしなくていいことだと思ってた」
「雨の音が?」
「そういうことが、全部」
アタカは何も言わなかった。ただ、また耳を澄ます顔をした。少ししてから、「岩のは、もっと硬い音」と言った。
「そう」
「土のは、ぐっと吸い込むみたいな」
「うん」
「……面白い」とアタカは言った。ゆっくりと、自分で発見したように。
ノアは少しだけ笑った。アタカが笑い返した。肩が触れていた。毛布の中は思ったより温かかった。
雨はその後も一時間ほど降り続けた。二人はずっとそこにいた。話したり、黙ったりを繰り返した。話すときは他愛もないことだった。カルノで嫌いだった食べ物の話。苦手だった習い事の話。アタカは刺繍が壊滅的に下手で、先生に三度作り直しさせられたと言った。ノアは笑いをこらえようとして、こらえきれなかった。アタカが「笑うな」と言いながら自分でも笑っていた。
それから、アタカが少し声を落として言った。
「ノアって、名前、好き?」
突然の問いだった。「どういう意味」
「自分の名前。好きか嫌いか」
ノアは考えた。好きでも嫌いでもなかった。ただ、自分の名前が「ノア」であることに、時々違和感を覚えることがあった。何かが欠けているような、もう少し続きがあるような。うまく言えないので、言ったことはなかった。
「普通かな。嫌いじゃない」
「私はアタカって名前、あんまり好きじゃなかった」
「なんで」
「なんか……自分じゃない気がして」アタカはペンダントを握った。服の上から、その輪郭を確かめるように。「このペンダントを見つけてから、もっとそう思うようになった。本当の名前が、どこかにある気がして」
ノアはその言葉を、胸の中で転がした。本当の名前。
「本当の名前って、どこにあると思う」
「わからない」とアタカは言った。「でも、この旅の先にあるんじゃないかって。根拠はないけど」
根拠はない。ノアも同じだった。根拠なく信じていることが、自分にもある。
雨が上がった。空の端が、薄い橙色になっていた。岩の下から出ると、荒野が洗われたように落ち着いていた。土の匂いが濃い。ノアは深く息を吸った。
「行こうか」
アタカが頷く。毛布をたたみながら、「ありがとう、毛布」と言った。
「毛布に言うな」
「あなたにも。……温かかった」
ノアは答えなかった。ただ、少し先を歩き始めた。耳が、かすかに熱かった。
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## 二 夜番と、星の数え方
三日目の夜、二人は交互に見張りを立てることにした。
荒野の夜は思ったより静かではなかった。遠くで獣の声がする。何の獣かはわからない。カルノで習った知識の中に、外の獣の話は出てこなかった。外は危険だと教えられるだけで、具体的に何が危険なのかは誰も言わなかった。
最初の夜番はノアが引き受けた。アタカに毛布を渡して、岩の上に腰掛けた。
空が広かった。
カルノの中でも星は見えた。だが城壁と家の屋根が視界を遮るので、空は狭かった。ここでは遮るものが何もない。地平線の端から端まで、空だ。星がある。数え切れないほどの星が、いくつかの塊になったり、線になったりしながら、ぎっしりと張り付いている。
ノアは星を見るのが好きだった。理由を聞かれたら答えられないが、好きだった。眺めていると、胸の中の渇きが少しだけ落ち着く。足りないものが、遠くにあると教えてくれるような気がする。
一時間ほどして、アタカが「眠れない」と言って起き上がった。
「見張りは俺がやる」
「わかってる。でも眠れない」
アタカはノアの隣に座った。毛布を肩にかけたまま、空を見上げた。
「すごい」と短く言った。
「星?」
「こんなに見えるの、知らなかった」
「カルノでも見えるけど」
「全然違う。ここのは……手が届きそう」
ノアは空を見た。確かに、そう感じた。手を伸ばせば届く気がする。届くはずがないのに。
「ノアは星に名前つけたりする?」とアタカが聞いた。
「しない。つけたことない」
「私は昔、雲に名前つけてたじゃない。星にもつけてみたことある。でもすぐわからなくなった。どれがどれか」
「全部同じに見えるから?」
「違う違う。多すぎて管理できなくなった」
ノアは思わず笑った。「管理」
「そう、管理。ノートに書いてたんだけど、三日で諦めた。百二十三個まで名前つけたのに」
「百二十三個」
「うん。でも翌朝にはもう、どれが『パン屋のおじさん』でどれが『水色の魚』かわからなくなってた」
「……パン屋のおじさん」
「あの辺の、ちょっと明るいやつ」アタカが指差す。「だと思う。たぶん」
ノアは指の先を見た。星が三つ、近くに集まっている。どれがパン屋のおじさんなのか全くわからなかったが、そう言われると何となくそれらしく見えてきた。
「俺には数え方がある」とノアは言った。
「数え方?」
「名前はつけない。でも、集まり方を覚える。あの四つは四角。あの六つは川の字。そうやって、形で覚える」
アタカは真剣な目で空を見た。「確かに……四角、ある」
「あの細長い線も。七つ並んでる」
「見える。見える、それ」アタカが少し身を乗り出した。「あっちにも。三角形になってる」
「それはノアが見つけた」
「え、今私が見つけた」
「今アタカが見つけた、という意味」
アタカは少し間を置いてから、「……ノア」と呼んだ。
「なに」
「あなたって、不思議なしゃべり方するときがある」
「そうか」
「そうだよ。でも嫌いじゃない」アタカは毛布を引き上げた。「続けて。あと何個、形がある?」
二人は夜番を忘れて、しばらく星の形を探した。ノアが見つけ、アタカが名前をつけた。「曲がった橋」「大きな犬」「誰かの横顔」。名前をつけるたびにアタカは楽しそうだった。ノアはその横顔を、星と同じくらい見ていた。
気づいたら、東の空が少し白んでいた。
「寝なくていいのか」とノアが言った。
「あなたもでしょ」
「俺は見張りだから」
「じゃあ私も見張り」
「二人でやる意味は」
「意味はないけど、眠くない」
ノアは何も言わなかった。言い返す気になれなかった。アタカが「曲がった橋、また見つけた」と言ったので、ノアはそちらを見た。確かに、さっきと別の場所に同じ形があった。
「星って、動くんだな」とノアは言った。
「知らなかったの?」
「知ってたけど、実感したことなかった」
「カルノにいたら、動く前に屋根に隠れるもんね」
そうだ、とノアは思った。カルノでは見えなかったものが、ここでは見える。それは星だけじゃないかもしれない。
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## 三 転んで、助けて
四日目の朝、アタカが転んだ。
大した地形ではなかった。岩が多い下り坂で、足元に気をとられながら歩いていた。ノアが少し先を行っていたとき、後ろで短い声がした。振り返ると、アタカが膝をついていた。
「大丈夫か」
「……っ、うん」
声が少し上ずっていた。大丈夫ではない声だった。ノアは戻った。アタカの手首を見ると、皮が剥けて赤くなっている。膝も同じだった。石で擦ったのだろう。
「痛い?」
「平気」
「聞いてることに答えてない」
アタカは少し黙った。「……痛い」
「正直に言えるじゃないか」
「意地張ってた」
ノアは荷物から布を出した。水筒の水で濡らして、傷に当てた。アタカが少し息を呑んだ。しみるのだろう。でも声を出さなかった。
「我慢しなくていい」
「我慢してない」
「顔に出てる」
「……しみる」
「わかってる」
傷を拭いながら、ノアはアタカの手首を持っていた。細い手首だった。カルノでは気にしたことがなかった。二人で並んで歩いていても、手首を持つことはなかった。荒野に出て、初めて気づいた。
「ノアって、こういうの慣れてるの」とアタカが言った。
「こういうの?」
「傷の手当て。手つきが慣れてる感じがする」
「父親が怪我しやすい人で」とノアは言った。「仕事でよく手を切って帰ってきた。子どもの頃から手当てさせられた」
「お父さん、元気にしてるかな」
ノアは手を止めなかった。「元気だと思う。心配性だから、俺がいないことに気づいたら騒いでるかもしれないけど」
「怒る人?」
「怒らない。ただ、泣く」
アタカが少し目を丸くした。「お父さんが?」
「うん。怒るより先に泣く。だから扱いが難しい」
「……ノアのお父さん、好きだわ」
「俺も好きだよ」と、ノアは言った。言ってから、少し胸が痛くなった。戻れるかどうかわからないのに、好きだと言えた。それが不思議だった。好きなら戻るべきかもしれない。でも行かなければならなかった。その二つが、胸の中で矛盾なく並んでいた。
布を結んで、処置が終わった。アタカが手首を動かして確かめた。「ありがとう」と言った。
「気をつけろ」
「気をつけてたのに転んだ」
「もっと気をつけろ」
「冷たい」
「冷たくない。次は傷が深くなるかもしれないから言ってる」
アタカは少し笑った。「ノアが心配してるって言えばいいのに」
ノアは答えなかった。立ち上がって、先を見た。坂の下に平らな地形が続いている。歩きやすそうだった。
「行けるか」
「行ける」とアタカが立ち上がった。少し足を引きずったが、歩けた。「ほら」
「無理するな」
「してない。本当に行ける」
二人は歩き始めた。しばらく黙って歩いてから、アタカが「ノア」と呼んだ。
「なに」
「心配してくれてありがとう」
「してない」
「してる」
ノアは前を向いたまま答えなかった。アタカは笑い声を立てた。小さな笑い声で、風に溶けるようにすぐ消えた。
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## 四 焚き火の前の約束
四日目の夜。
獣の声が、昨夜より近かった。
二人は焚き火を熾した。木は少なかったが、枯れた草と枝を集めれば何とかなった。火は小さかったが、あるとないとでは大違いだった。温かさだけでなく、光があることで、お互いの顔が見えた。それだけで、荒野の暗さが少し和らいだ。
遠くでまた獣の声がした。アタカが少し肩を張った。
「大丈夫」とノアは言った。
「わかってる」
「わかってるなら肩を張るな」
「張ってない」
ノアは何も言わなかった。アタカは少しして、「……張ってた」と認めた。
「獣は、火を嫌がる。近づいてこない」
「本当に?」
「カルノの図書室に書いてあった。荒野の動物は、火を見ると避ける習性がある」
「それ、本当の話?」
「……たぶん」
「たぶん!」
「あの本は古かったから。でも理屈は合ってる。熱いから近づかない」
アタカは「そこは合理的に考えるんだ」と言った。呆れたような、でも笑っているような声だった。
火が少し落ち着いてきた。ノアは枝を足した。炎が一瞬大きくなって、またゆっくり収まった。
「ノア」
「うん」
「もし私が、もう進めないって言ったら、どうする?」
唐突な問いだった。ノアは少し間を置いた。「なんで」
「なんとなく聞きたくなった。もし私が途中で諦めたら、あなたはどうするかって」
ノアは火を見た。炎は風に揺れて、一定ではない。同じ形が続かない。それでも消えない。
「アタカが行けないなら、行けるところまで待つ」
「でも目的地に着けないかもしれない」
「それでもいい」
「どうして」
「一人で着いても、意味がない気がするから」
アタカはしばらく黙っていた。火の音だけがある。パチパチと、乾いた音。
「ノアはずるい」とアタカが言った。
「何が」
「そういうことを、さらっと言う」
「本当のことを言っただけ」
「だからずるい」
ノアには意味がよくわからなかったが、アタカが怒っているわけではないことはわかった。声が柔らかかった。
「私も」とアタカが言った。「ノアが行けなくなっても、待つ。それだけは約束する」
「俺は行けなくならない」
「わからないじゃない」
「俺は丈夫だ」
「私だって丈夫なのに転んだ」
それは反論できなかった。ノアは黙った。
「約束して」とアタカが言った。「お互いに、置いていかないって」
ノアは火を見た。炎が揺れた。消えなかった。
「約束する」
アタカが頷いた。それ以上何も言わなかった。二人はしばらく、同じ火を見ていた。遠くで獣の声がしたが、近づいてこなかった。火は朝まで持つだけの枝がある。
ノアは思った。一人だったら、ここまで来られたかもしれない。でも一人だったら、星の形に名前をつけてもらえなかった。雨の音を、一緒に聞けなかった。転んだ誰かの手首を、持てなかった。
足りないものは、まだ見つかっていない。
でも、旅の仲間がいる。それだけで、荒野は少し違う場所になった。




