第三章 ― 読めない文字 ―
## 一 四人になった旅
塔を出て、四人になった一行は、東へ向かって歩き始めた。
セラは小柄だったが、足取りはしっかりしていた。二年間、洞窟で一人暮らしていた少女は、見た目より頑丈だった。歩くペースも、すぐに三人に合わせられるようになった。
最初の数日、セラはあまり話さなかった。観察するように、三人の様子を見ていた。誰がどんな役割を持っているのか、確かめているようだった。
「お前」とカイルが、五日目の朝、セラに声をかけた。「人をよく見るな」
「おじいさんがそうだった」とセラは言った。「先に見て、それから話す。話してから見ると、間違えることがあるって」
「賢い教えだ」
「だから、しばらくは見てる」
カイルは少し笑った。「好きにしろ」
その日の夕方、焚き火を囲んで、セラがようやく口を開いた。
「ノアが、まとめてるわけじゃないんだね」
「言っただろう」とノアは言った。「まとめ役じゃない」
「でも、決める時はノアが多い」
「決めるんじゃなくて、感じたことを言ってるだけだ」とノアは言った。「決めるのは、いつも全員で」
セラはアウラを見た。「アウラは、感じたことを、すぐ言葉にしない」
「考えてから言うタイプだから」とアウラは言った。
「カイルは」
「俺は、無口なだけだ」とカイルが言った。
セラは少し笑った。初めて見る、子どもらしい笑顔だった。「やっぱり、おじいさんと似てる。カイルが」
「似てない」
「似てる。言葉が少なくて、でも見てる」
カイルは何も言わなかった。だが、嫌そうな顔ではなかった。
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## 二 板を読む
板の文字は、誰にも読めなかった。
ノアは毎晩、焚き火の前で板を眺めた。文字の形が、どこか覚えのある気がした。だが、読めはしなかった。意味が浮かばない。それでも、見ていると、何かが胸の奥で疼いた。
「読めそうで読めない」とノアは言った。「これが一番もどかしい」
「カルノの図書室にも、こういう文字はなかった」とアウラが言った。
「俺の街にもなかった」とカイルが言った。
セラが板を覗き込んだ。「おじいさんも、読めないって言ってた。でも、おじいさんは、これが『古い言葉』だって言ってた」
「古い言葉?」
「今の言葉より、ずっと古い言葉。人間が、まだ今の言葉を使う前の」
ノアは板を見つめた。今の言葉より古い。Noahが生きていた時代の言葉なら、確かに古いだろう。あの声が語った歴史が本当なら、今の世界の言葉とは、別の系統なのかもしれない。
「読める人間がいるとすれば」とカイルが言った。「ゼルファスかもしれない」
ノアはその名前を聞いて、胸の中で何かが動いた。確かに、ゼルファスなら知っているかもしれない。あの老人は、何かを知っていながら、語らずにいた。
「戻るか」とアウラが言った。
「戻る方向と、進む方向、どちらが近い」とカイルが聞いた。
ノアは地図代わりに描いてきた板を出した。「戻るのは、五日かかる。だが、声は『歩き続ければ見つかる』と言っていた。戻るのは、その言葉と違う気がする」
「進むべきだと思う」とアウラが言った。
「俺も」とカイルが言った。
セラは黙って三人を見ていた。それから「私も、進む方がいいと思う」と言った。
四人は、東へ進み続けることに決めた。
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## 三 古い道標
七日目、道の途中で、古い道標を見つけた。
石でできた、低い柱だった。表面に、塔で見たのと同じ渦の文様が刻まれている。文様の下に、矢印のような印があった。指す方向は、東よりわずかに南。
「これも、Noahの時代のものか」とアウラが言った。
「だと思う」とノアは言った。
道標を辿るように進路を変えた。荒野の地形は変わらなかったが、道標は一定の間隔で現れた。誰かが、かつてこの道を作った。あるいは、風が自然にこの道筋に、目印を残したのかもしれなかった。
その日の夜、カイルが珍しく自分から話し始めた。
「俺の出身の街には、こういう道標についての言い伝えがあった」
「言い伝え?」とノアが聞いた。
「外には、古い道がある。その道を辿ると、世界の果てに着く、と。子どもの頃聞いて、作り話だと思っていた」
「作り話じゃなかったな」とアウラが言った。
「そうらしい」カイルは火を見た。「俺の街でも、祈りの言葉があった。お前のカルノと、似たような言葉だったと思う」
「同じ起源かもしれない」とノアは言った。「Noahの言葉から分かれた、別の街の祈りかもしれない」
「だとすると」カイルは少し考える顔をした。「俺たちが街で教えられたこと全てが、元はNoahという一人の人間の言葉だったということになる」
「そう考えると、不思議な気がする」とアウラが言った。「私たちは、知らない誰かの言葉で、育てられてきた」
セラが口を挟んだ。「悪いこと?」
「悪いとは言ってない」とアウラは言った。「ただ、知らなかったことが、不思議で」
「おじいさんは、知らないことは悪いことじゃないって言ってた」とセラは言った。「知らないまま死ぬことが、もったいないだけだって」
四人は、その言葉をしばらく胸の中で転がした。
知らないまま死ぬことが、もったいない。
ノアは思った。だからこそ、自分は歩いている。知らないまま終わりたくない。その渇きが、今もこの足を動かしている。
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## 四 水のない谷
九日目、四人は水のない谷に差し掛かった。
地図はなかったが、地形を読むとそこに水場があるはずだった。だが、谷底に降りても、水の跡すらなかった。乾いた石だけが広がっていた。
「枯れたな」とカイルが言った。地面の跡を確かめながら。「かなり前に」
水筒の残量が心配な量になっていた。アウラの顔が少し曇った。「次の水場まで、どれくらい」
「わからない」とノアは言った。正直に。「地図にない場所だ」
セラが「待って」と言った。「あっち」
指差した方向、谷の奥の方に、わずかに緑が見えた。
「植物がある場所には、水の気配がある」とセラは言った。「おじいさんに教わった」
四人はその方向へ進んだ。緑は岩の隙間から伸びる、わずかな草だった。だが、その根元に、確かに湿った土があった。
カイルが地面を掘った。三十センチほど掘ったところで、水が滲み出てきた。少しずつだが、確かに水だった。
「あった」とアウラが声を上げた。
四人で交代しながら掘り進め、小さな水たまりができるまで待った。水筒を満たすには時間がかかったが、確実に水が湧き続けた。
「セラのおかげだ」とノアは言った。
「おじいさんのおかげ」とセラは言った。「私はただ、教わったことを覚えてただけ」
「それも才能だ」とカイルが言った。「教わったことを、必要な時に思い出せることは」
セラは少し照れたように、目を伏せた。
水を確保して、四人は谷を出た。振り返ると、わずかな緑が、乾いた谷の中で確かに揺れていた。命を繋いだ場所として、ノアの記憶に残った。
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## 五 夜の問い
その夜、ノアとアウラだけが起きていた。カイルとセラは先に眠っていた。
「ノア」とアウラが言った。
「うん」
「あの板のこと、ずっと考えてる?」
「考えてる」とノアは言った。
「読めるようになると思う?」
「わからない。でも、ゼルファスなら知ってる気がする」
アウラは少し沈黙した。それから、別のことを聞いた。
「光の中の声、また聞こえた?」
「あれから一度も」とノアは言った。「あの塔の中だけだったのかもしれない」
「寂しい?」
ノアは少し考えた。「寂しいというか……心強かった、と思う。だから、聞こえなくなって、頼れるものが一つ減った気がする」
「私たちがいる」とアウラは言った。
「わかってる」とノアは言った。「それでも、声には、何か特別なものがあった。導いてくれる感じが」
「導いてくれるものが、いつも近くにいるとは限らない」とアウラは言った。「でも、それがなくても、私たちは歩ける。声がなくても、ここまで来た」
ノアはアウラを見た。確かに、その通りだった。声が常にあったわけではない。むしろ、ほとんどの旅は、声なしで歩いてきた。
「そうだな」とノアは言った。「俺たちだけでも、歩ける」
「うん」とアウラは頷いた。「私もそう思う」
火が静かに燃えていた。
セラが寝言で何か呟いた。聞き取れない言葉だった。アウラが少し笑った。「子どもらしいところもあるんだね」
「子どもだろう」
「でも、しっかりしてる。二年間、一人で生きてきたから」
「お前も、しっかりしてる」とノアは言った。「カルノを出てから」
「ノアのおかげだよ」
「俺は何もしていない」
「してる。一緒に歩いてくれてる。それが、一番大きい」
ノアは何も言わなかった。ただ、火を見ていた。アウラも、火を見ていた。二人の視線が、同じ場所で重なっていた。
翌朝も、四人は歩き続けた。東へ。道標が示す、まだ見ぬ場所へ向かって。




