表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/5

第一部 ――風の渇き――

## プロローグ ―― 足りない風 ――


 朝が来るたびに、ノアは同じ夢を見た。


 夢の中に言葉はない。色もない。ただ、何かが――手のひらをすり抜けていく。指を広げれば広げるほど、それは速く逃げていく。追いかけようとすると足が動かない。声を出そうとすると喉が塞がる。そして目が覚める瞬間、かすかな音が耳の奥に残る。風ではない。水でもない。それは呼びかけに似た何かだが、どこの誰が発したのか、目覚めるたびに忘れていく。


 それでも、渇きだけが残った。


 街は今日も静かだった。


 祈りの鐘が鳴ると、人々は仕事の手を止め、広場の方角へ顔を向ける。目を閉じ、唇を動かす。決まった言葉を、決まった順番で。子どもの頃から覚えさせられる言葉だ。ノアも知っていた。眠れない夜に枕に向かって呟いたこともある。だが、その言葉が何を意味するのか、誰に向けて発するのか――それを問うた者をノアは知らなかった。問うことは、許されていなかったからではない。ただ、誰も問わなかったのだ。


 それが不思議だと気づいたのは、いつのことだったろう。


 ノアは丘の上に立っていた。街を見下ろせる、草の少ない石ばかりの丘だ。風が吹いていた。服の裾を揺らし、髪を散らかし、そのまま何処かへ連れて行こうとするような風が。ノアはその風に顔を向けた。目を細めると、遠くに山の輪郭が見えた。川の光る帯が見えた。街の向こう、どこまでも続く荒野が見えた。


 ――まだ、この世界には何か足りない。


 言葉ではなかった。考えたわけでもなかった。それはただ、胸の奥から湧いてきた感覚だった。水が湧くように、ゆっくりと、しかし確かに。


 足りない。


 何が? どこに?


 答えは出なかった。だからノアは黙って、風の行く方を見続けた。風は街の上を越えて、どこかへ消えていった。ノアは思った。あの風はどこへ行くのだろう。そしてどこから来るのだろう。誰も教えてくれなかった。誰も考えていなかった。


 留まり続ければ、いつかこの渇きは胸の奥で潰れてしまう。


 そうなる前に、歩き出さなければならない。


 ノアはまだ、その理由を知らなかった。だが体は知っていた。足の裏が、この丘の石の冷たさを知っていた。その先に続く道の感触を、まだ知らないくせに求めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ