第一部 ――風の渇き――
## プロローグ ―― 足りない風 ――
朝が来るたびに、ノアは同じ夢を見た。
夢の中に言葉はない。色もない。ただ、何かが――手のひらをすり抜けていく。指を広げれば広げるほど、それは速く逃げていく。追いかけようとすると足が動かない。声を出そうとすると喉が塞がる。そして目が覚める瞬間、かすかな音が耳の奥に残る。風ではない。水でもない。それは呼びかけに似た何かだが、どこの誰が発したのか、目覚めるたびに忘れていく。
それでも、渇きだけが残った。
街は今日も静かだった。
祈りの鐘が鳴ると、人々は仕事の手を止め、広場の方角へ顔を向ける。目を閉じ、唇を動かす。決まった言葉を、決まった順番で。子どもの頃から覚えさせられる言葉だ。ノアも知っていた。眠れない夜に枕に向かって呟いたこともある。だが、その言葉が何を意味するのか、誰に向けて発するのか――それを問うた者をノアは知らなかった。問うことは、許されていなかったからではない。ただ、誰も問わなかったのだ。
それが不思議だと気づいたのは、いつのことだったろう。
ノアは丘の上に立っていた。街を見下ろせる、草の少ない石ばかりの丘だ。風が吹いていた。服の裾を揺らし、髪を散らかし、そのまま何処かへ連れて行こうとするような風が。ノアはその風に顔を向けた。目を細めると、遠くに山の輪郭が見えた。川の光る帯が見えた。街の向こう、どこまでも続く荒野が見えた。
――まだ、この世界には何か足りない。
言葉ではなかった。考えたわけでもなかった。それはただ、胸の奥から湧いてきた感覚だった。水が湧くように、ゆっくりと、しかし確かに。
足りない。
何が? どこに?
答えは出なかった。だからノアは黙って、風の行く方を見続けた。風は街の上を越えて、どこかへ消えていった。ノアは思った。あの風はどこへ行くのだろう。そしてどこから来るのだろう。誰も教えてくれなかった。誰も考えていなかった。
留まり続ければ、いつかこの渇きは胸の奥で潰れてしまう。
そうなる前に、歩き出さなければならない。
ノアはまだ、その理由を知らなかった。だが体は知っていた。足の裏が、この丘の石の冷たさを知っていた。その先に続く道の感触を、まだ知らないくせに求めていた。




