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第一部 終章 ― 風の囁き ―

## 一 見えてきたもの


 二十日目。


 その日の朝、地形が大きく変わった。


 これまで歩いてきた荒野が、緩やかに下り始めた。下りながら、視界が開けていく。三人は気づくと足を速めていた。誰かが指示したわけではない。風が、いつもより強く、いつもより近くに感じられたからだ。


 丘を越えると、それが見えた。


 遠くに、巨大な何かがあった。


 山ではない。建造物だ。あまりに大きく、最初は地形の一部に見えた。だが近づくにつれて、その輪郭がはっきりしてくる。塔のような形をしている。いや、塔と呼ぶには太すぎる。根元から先端まで、ほとんど真っ直ぐに、空へ向かって伸びている。先端は霞んで見えなかった。雲よりも高い場所まで続いているようだった。


「あれは」とアウラが言った。声が小さかった。


「わからない」とカイルが言った。「あんなものは、見たことがない」


 ノアはその建造物を見つめた。


 風が、そこから吹いていた。


 いや、正確には違う。風はそこへ向かって流れていた。荒野を渡ってきた風が、その巨大な構造物に向かって、まるで吸い込まれるように流れていく。風の道が、目に見えるようだった。


「あそこに、何かがある」とノアは言った。


「行くのか」とカイルが聞いた。


 ノアは少し迷った。あの建造物が何なのか、わからない。危険かもしれない。だが、ここまで導いてきた風が、はっきりとそこを指している。これまでで一番、はっきりと。


「行く」とノアは言った。


 アウラとカイルは、何も言わずに頷いた。三人は丘を下り始めた。


---


## 二 歩きながら


 建造物までの距離は、見た目よりずっと遠かった。半日歩いても、近づいた感じがしない。大きさの感覚が、これまで見てきたものと違いすぎるからだ。


 歩きながら、三人は言葉少なに過ごした。それぞれが、何かを考えていた。


 ノアは、ゼルファスの言葉を思い出していた。


 お前が向かっている先だ。風が導いている場所だ。


 あれが、その場所なのか。


 もしそうなら、ここに来てゼルファスが言った「風は生かすと同時に、壊す」という言葉の意味が、わかるのかもしれない。


 アウラはペンダントを見ていた。歩きながら、何度も手に取って、確かめていた。建造物が近づくにつれて、ペンダントが微かに温度を持ち始めていた。光るほどではない。ただ、わずかに温かい。


「反応してる」とアウラが言った。「峡谷のときみたいに、強くはないけど」


「危険じゃないのか」とカイルが聞いた。


「わからない。でも、嫌な感じはしない」アウラはペンダントを握った。「呼ばれてる、というより……懐かしい、みたいな感じ」


「懐かしい?」とノアが聞いた。


「うまく言えないんだけど。知ってる場所に近づいてる感じがする。来たことないのに」


 ノアはその言葉を聞いて、自分の胸の中を確かめた。


 懐かしい。


 その感覚が、自分にもあった。建造物を見たときから、ずっとあった。見たことがないのに、知っている気がする。何度も見た夢の中の景色のような、そんな感覚だった。


 言わなかった。でも、確かにあった。


---


## 三 夕暮れの中で


 日が傾いてきた。


 建造物はまだ遠かったが、その輪郭は一日の中で大きく変わっていた。朝には小さな点だったものが、今は空の一部を占めるほどの大きさになっている。それでも、まだ近づいているとは言い難い距離だった。


 三人は野営の準備をした。


 焚き火を囲みながら、誰も多くを話さなかった。だが、これまでの夜とは違う静かさだった。緊張ではない。何か、大きなものに近づいているという実感が、三人の間に共通してあった。


 アウラがふと言った。


「ここまで、二十日」


「そうだな」とカイルが言った。


「カルノを出たときは、こんなに遠くまで来るとは思ってなかった」


「俺もだ」とノアは言った。


 アウラは火を見た。「あの城壁の中で、何も知らずに暮らしてた頃が、もう遠い気がする」


「遠いな」とカイルが言った。「だが、悪い時間じゃなかったんじゃないか。あの場所での日々も」


「悪くはなかった」とアウラは言った。「ただ、足りなかった」


 その言葉に、ノアは少し体が動いた。


 足りなかった。


 あの丘の上で感じた渇き。何か足りない、という感覚。それが今、三人の言葉の中に、自然に出てきていた。誰も特別なものとして扱わなかった。当たり前のことのように、その言葉が出た。


「今は」とノアは言った。「足りないか」


 アウラはしばらく考えた。それから、火を見ながら、ゆっくり言った。


「今は……足りない、と思わない」


 ノアは驚いた。「思わない?」


「うん。何かが欠けてるって感じは、今もある。でも、それを『足りない』とは思わない。なんて言えばいいかな……足りないものが、これから来るって、わかってる感じ」


「来る、って」


「だから、不安じゃない。むしろ、楽しみな感じがする」


 カイルが頷いた。「俺も似たことを感じている。これまでの十年、風の正体がわからないことが、ずっと不安だった。だが今は、わからないことが、楽しみに変わってきている」


 ノアは二人の言葉を聞きながら、自分の胸の中を確かめた。


 あの渇き。あの足りなさ。


 まだあった。消えてはいない。だが、二人の言う通りだった。それは今、不安ではなかった。


 この先に、何かがある。


 その何かに、近づいている。


 それだけで、胸の中の渇きは、前とは違う質のものになっていた。


---


## 四 ノアとアウラ


 夜が更けて、カイルが眠りについた。


 ノアとアウラだけが、焚き火の前に残った。


 アウラがノアの方を見た。


「ノア」


「うん」


「明日、あの建造物に着くと思う?」


「わからない。でも、近づくと思う」


 アウラは少し考えてから言った。「着いたら、何が待ってるんだろう」


「わからない」


「ノアは、怖い?」


 ノアは火を見た。怖いかどうか、確かめてみた。


「怖くない」と、ノアは言った。「不思議だけど、怖くない」


「私も」とアウラは言った。「ゼルファスさんが言った『壊す』っていう言葉が、ちょっと気にはなるけど。それでも、怖くない」


 二人はしばらく、火を見ていた。


 アウラがゆっくりと、ノアに少し体を寄せた。肩が触れた。寒いからかもしれない。それだけではないかもしれない。ノアは何も言わなかった。


「ノア」とアウラがもう一度言った。


「うん」


「どんな名前でも」アウラは小さく言った。「どんなことがわかっても、隣にいてくれる?」


 ノアはアウラを見た。アウラは火を見ていた。横顔が、炎の光に照らされていた。


「いる」とノアは言った。「どんな名前でも。どんなことがわかっても」


 アウラは少し笑った。「ありがとう」


「お礼を言うことじゃない」


「言いたいの」


 ノアは何も言わなかった。アウラが少しだけ、肩に頭を預けた。重さがあった。確かな重さだった。


 風が一度、優しく吹いた。焚き火の炎が揺れて、また落ち着いた。


 ノアは思った。


 二十日前、丘の上で感じた渇き。何かが足りないという感覚。今もそれはある。だが、今この瞬間、それは満たされていないことの不安ではなかった。


 むしろ、何かが満ちていく途中にいる、という感覚だった。


 もう、足りなくはない。


 まだ全てが終わったわけではない。むしろ、何かが始まろうとしている。それでも、この瞬間だけは、足りないという言葉が当たらなかった。


 肩に重さがある。火がある。仲間がいる。


 それで、今は十分だった。


---


## 五 夜明け


 夜明け前、ノアは目を覚ました。


 アウラは少し離れた場所で眠っていた。カイルも眠っていた。火はまだ小さく燃えていた。


 ノアは一人で、東の空を見た。


 建造物の輪郭が、夜の闇の中にうっすらと見えた。先端は、まだ見えない。星明かりの中で、ただ巨大な影として、そこにあった。


 風が吹いていた。


 その風の中に、ノアは何かを感じた。これまでとは違う何か。呼びかけというより、もっと近い何か。まるで、すぐそばで誰かが息をしているような。


 ノアは耳を澄ました。


 言葉ではなかった。だが、確かに何かがあった。


 ――おかえり。


 そう聞こえた気がした。次の瞬間には消えていた。聞き間違いかもしれない。風の音が、たまたまそう聞こえただけかもしれない。


 ノアは胸に手を当てた。


 心臓が、いつもより少し速く動いていた。


 何かが、近づいている。あるいは、近づいているのは自分の方かもしれない。どちらでもいい。今は、その「何か」に向かって歩いていることが、確かだった。


 東の空が、少しずつ明るくなってきた。


 アウラが目を覚ます音がした。「ノア」と寝起きの声で呼んだ。


「おはよう」とノアは言った。


「もう起きてたの」


「少し前から」


 アウラが隣に来て、一緒に東を見た。建造物の輪郭が、朝の光の中で少しずつはっきりしてきた。


「今日、着くかな」とアウラが言った。


「着くと思う」


 カイルも起きてきた。三人は荷物をまとめた。


 誰も多くを話さなかった。だが、三人の足並みは、いつもより少し速かった。


 風が、東から、強く吹いていた。


 その風の中で、ノアは思った。


 まだ足りないものがある。それは確かだ。


 でも、もう、足りなくはない、と感じる瞬間が、確かにあった。それは消えていない。胸の中に、ちゃんと残っている。


 その両方を抱えたまま、ノアは歩き始めた。


 アウラが隣にいた。カイルが先を歩いていた。


 三人は、巨大な建造物に向かって、歩いていった。


---


*(with Noa 第一部・完 ― 第二部「名の欠片」へ続く ―)*


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