第六章 ― 揺らぐ目的 ―
## 一 重くなった足
ゼルファスと別れてから、三人の足が重くなった。
気候のせいではなかった。天気は穏やかで、風も適度にあった。体の疲れも、これまでと変わらない。それでも、何かが違った。歩くたびに、胸の中で何かが揺れた。
ゼルファスの言葉が残っていた。
まだ足りない。風は生かすと同時に、壊す。来ればわかる。
言葉は短かった。しかし短いからこそ、答えを探す余地が大きかった。歩きながら、食事をしながら、眠る前に、ノアはその言葉を繰り返した。繰り返すたびに、別の意味が浮かんで、また沈んだ。
十七日目の夜。
焚き火の前で、三人は珍しく黙り込んでいた。
アウラが先に口を開いた。
「私、最近考えてることがあって」
「なんだ」とカイルが言った。
「私が旅に出た理由って、ペンダントのことだったじゃないですか。長老に、これを持つ者は街に居続けられないと言われて、だから出た」
「そうだな」
「でも今は」アウラはペンダントを見た。「それだけじゃなくなってる。ペンダントの謎を解きたい気持ちは今もある。でも、それより先に、私自身のことが気になってる。アウラという名前のこと。お母さんが隠していたこと。私が何者なのか」
「それは悪いことじゃない」とノアは言った。
「悪いとは思ってない。ただ、目的が変わってきてるのかなって。最初と今で、追いかけてるものが違う気がして」
炎が揺れた。カイルが薪を一本足した。
「俺も」とカイルが言った。
アウラが顔を上げた。
「十年、風を追ってきた。風の呼びかけの正体を知りたかった。今もそれは変わらない。だが、ゼルファスに会ってから、それだけじゃなくなった気がする」
「どう変わったんですか」とアウラが聞いた。
「言葉にするのが難しい」とカイルは言った。珍しく、少し迷った顔をした。「風の正体を知りたいのは同じだ。だが以前は、知ることが全てだった。今は、知った後のことを考えるようになった」
「知った後?」
「知って、どうする。それを初めて考えている」
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## 二 ノアの迷い
アウラとカイルが眠ってから、ノアは一人で火を見ていた。
二人の話を聞きながら、自分のことを考えていた。
俺の目的は何か。
カルノを出たとき、理由は二つあった。アウラと一緒に行く、と言ったこと。そして、風の呼びかけの先を見たいという渇きだ。その二つは今も変わっていない。
だが、ゼルファスに会ってから、何かが加わった。
「Noah」と言いかけて「Noa」と言い直した、あの瞬間。自分の名前の中に、知らない何かがあるという感覚。それが、ノアの胸に刺さったまま抜けなかった。
俺は、誰なのか。
これまで考えたことがなかった問いだった。ノアはノアだ。カルノで生まれて、丘に登って、風を聞いていた少年だ。それ以上でも以下でもなかった。
だが今は、その輪郭が少し揺らいでいる。
名前の中に何かがある。その何かを知ったとき、自分は変わるのだろうか。変わることを、恐れているのだろうか。
ノアは火を見た。炎は形を変え続けている。同じ形が続かない。それでも、火は火だ。形が変わっても、熱を持ち、光を出し、消えない。
形が変わることと、自分が変わることは、別のことだろうか。
わからなかった。
ただ、一つだけわかることがあった。
アウラが隣にいる。カイルが前を歩いている。その二人がいる限り、何が変わっても、俺は俺でいられる気がする。根拠はなかった。でも、そう感じた。
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## 三 アウラの言葉
翌朝。
アウラがノアの隣を歩きながら、昨夜の続きを話した。
「隠さずに生きたい」とアウラは言った。「アウラという名前で、アウラとして。それが今、一番したいことかもしれない」
「できると思う」とノアは言った。
「でも、それだけじゃまだ足りない気がする」
ノアは少し驚いた。「足りない?」
「隠さずに生きることは、始まりだと思う。でもその先に、何かしたいことがあるはずで。それがまだわからない」アウラは空を見た。「ノアは、旅が終わったら、何がしたい?」
ノアは考えた。旅が終わったら。終わり方すら見えていないのに、その先を考えたことはなかった。
「わからない」と正直に言った。
「わからないよね」とアウラは言った。責めているのではなく、共感している声だった。「私もわからない。ただ、旅が終わっても、この三人でいたい気はする」
「俺も」とノアは言った。
「カイルさんはどうかな」
二人で前を歩くカイルを見た。カイルは地面を見ながら歩いている。いつもの歩き方だ。
「カイルさん」とアウラが呼んだ。
「なんだ」
「旅が終わったら、どうしたいですか」
カイルは少し黙った。歩きながら、前を向いたまま。
「木を彫る」と言った。
アウラがノアを見た。ノアもアウラを見た。
「木彫りですか」とアウラが言った。
「ずっと完成させたことがなかった。落ち着いた場所で、時間をかけて、一つ完成させたい」
「何を彫るんですか」
「まだわからない。でも、彫り始めたら見つかる気がしている。今は、そう思っている」
アウラは少し笑った。「カイルさんらしい」
「そうか」
「うん。やってみたら見つかる、っていうのが」
カイルは答えなかった。でも、肩が少し軽くなった気がした。ノアにはそう見えた。
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## 四 夜、一人ずつの問い
十八日目の夜。
カイルが「今夜は少し一人になる」と言って、焚き火から離れた場所に座った。珍しいことだったが、二人は何も言わなかった。カイルにも、一人で考えたいことがある夜がある。
ノアとアウラが焚き火の前に残った。
アウラが膝を抱えて、空を見ていた。星が出ている。あの夜、二人で名前をつけた星たちが、今夜も同じ場所にある。
「あれ、覚えてる?」とアウラが言った。
「曲がった橋」とノアは言った。
「あった。あの辺」
「誰かの横顔もあった」
「ある。あそこ」アウラが指差した。「変わらないね、星は」
「俺たちが変わった」
アウラは少し笑った。「そうだね。カルノを出たときとは、全然違う」
「違うか」
「違う。ノアも、最初より話すようになった」
「そうか」
「最初の頃は、必要なことしか言わなかった。今は、少し余分なことも言う」
ノアは少し考えた。「余分なこと?」
「余分、って言い方が悪かった。えっと、心の中のことを、少し言うようになった。以前はもっと閉じてた」
ノアはそうかもしれないと思った。「アウラのおかげかもしれない」
「私が?」
「話を聞いてくれるから、話せる気がする」
アウラは少し黙った。それから「ありがとう」と言った。「私もノアに話せるから、話してる。お互い様だね」
風が一度、静かに吹いた。星が動いていた。見ている間には動かないが、確かに動いている。
「ノア」とアウラが言った。
「うん」
「さっきの話の続きなんだけど。私が隠さずに生きたい、その先に何があるか、まだわからないって言ったじゃないですか」
「言った」
「一つだけ、わかったことがある」
「何が」
「誰かの隣にいたい」とアウラは言った。「隠さなくていい誰かの。アウラのままでいられる誰かの」
ノアは何も言わなかった。
「それが今、一番したいことかもしれない」とアウラは続けた。「大きな目的じゃないけど」
「大きくなくていい」とノアは言った。
「そう思う?」
「大きな目的を持つことが旅の理由じゃないと、最近思う。歩くことで見つかるものが、目的になっていく。最初から持っていなくていい」
アウラはしばらくノアを見ていた。それから、前を向いた。
「ノアの隣がいい」と、小さく言った。
風の音に混じるほど、小さな声だった。ノアには聞こえた。
何も言わなかった。言葉にする必要がない気がした。ただ、隣に座っていた。それで十分だった。
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## 五 カイルが戻ってきた
しばらくして、カイルが戻ってきた。
焚き火の前に座った。二人の様子を一度見た。何も聞かなかった。
少し沈黙があってから、カイルが言った。
「一つ、話してもいいか」
「どうぞ」とノアは言った。
「俺は今まで、誰かのために歩いたことがなかった」カイルは火を見た。「自分のために、風を追って、一人で歩いてきた。それが当たり前だと思っていた」
「今は違うんですか」とアウラが言った。
「今は、お前たちが心配だ」とカイルは言った。淡々と、しかし真剣に。「心配というより、無事でいてほしい。そう思いながら歩いている。それが、これまでと一番違うことだ」
ノアはカイルを見た。
「俺たちのために歩いてくれているのか」とノアは言った。
「そういうわけじゃない」とカイルは言った。「自分のためでもある。ただ、自分のためだけじゃなくなった。それだけだ」
「それだけ、って大きいことだと思います」とアウラが言った。
「そうかもしれないな」
夜空に、風の渦のような雲が流れていた。うっすらと光を帯びて、ゆっくりと動いている。ノアはそれを見た。
三人ともそれを見ていた。
生きるだけじゃ足りない、とカイルが言った夜のことをノアは思い出した。意味を見つけよう、と続けた。
今夜の話は、その続きだった。
意味は、一度で見つかるものじゃない。歩きながら、少しずつ、形を変えながら、見つかっていくものだ。
まだ足りない。
でも、確かに積み重なっている。




