表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/25

第六章 ― 揺らぐ目的 ―

## 一 重くなった足


 ゼルファスと別れてから、三人の足が重くなった。


 気候のせいではなかった。天気は穏やかで、風も適度にあった。体の疲れも、これまでと変わらない。それでも、何かが違った。歩くたびに、胸の中で何かが揺れた。


 ゼルファスの言葉が残っていた。


 まだ足りない。風は生かすと同時に、壊す。来ればわかる。


 言葉は短かった。しかし短いからこそ、答えを探す余地が大きかった。歩きながら、食事をしながら、眠る前に、ノアはその言葉を繰り返した。繰り返すたびに、別の意味が浮かんで、また沈んだ。


 十七日目の夜。


 焚き火の前で、三人は珍しく黙り込んでいた。


 アウラが先に口を開いた。


「私、最近考えてることがあって」


「なんだ」とカイルが言った。


「私が旅に出た理由って、ペンダントのことだったじゃないですか。長老に、これを持つ者は街に居続けられないと言われて、だから出た」


「そうだな」


「でも今は」アウラはペンダントを見た。「それだけじゃなくなってる。ペンダントの謎を解きたい気持ちは今もある。でも、それより先に、私自身のことが気になってる。アウラという名前のこと。お母さんが隠していたこと。私が何者なのか」


「それは悪いことじゃない」とノアは言った。


「悪いとは思ってない。ただ、目的が変わってきてるのかなって。最初と今で、追いかけてるものが違う気がして」


 炎が揺れた。カイルが薪を一本足した。


「俺も」とカイルが言った。


 アウラが顔を上げた。


「十年、風を追ってきた。風の呼びかけの正体を知りたかった。今もそれは変わらない。だが、ゼルファスに会ってから、それだけじゃなくなった気がする」


「どう変わったんですか」とアウラが聞いた。


「言葉にするのが難しい」とカイルは言った。珍しく、少し迷った顔をした。「風の正体を知りたいのは同じだ。だが以前は、知ることが全てだった。今は、知った後のことを考えるようになった」


「知った後?」


「知って、どうする。それを初めて考えている」


---


## 二 ノアの迷い


 アウラとカイルが眠ってから、ノアは一人で火を見ていた。


 二人の話を聞きながら、自分のことを考えていた。


 俺の目的は何か。


 カルノを出たとき、理由は二つあった。アウラと一緒に行く、と言ったこと。そして、風の呼びかけの先を見たいという渇きだ。その二つは今も変わっていない。


 だが、ゼルファスに会ってから、何かが加わった。


 「Noah」と言いかけて「Noa」と言い直した、あの瞬間。自分の名前の中に、知らない何かがあるという感覚。それが、ノアの胸に刺さったまま抜けなかった。


 俺は、誰なのか。


 これまで考えたことがなかった問いだった。ノアはノアだ。カルノで生まれて、丘に登って、風を聞いていた少年だ。それ以上でも以下でもなかった。


 だが今は、その輪郭が少し揺らいでいる。


 名前の中に何かがある。その何かを知ったとき、自分は変わるのだろうか。変わることを、恐れているのだろうか。


 ノアは火を見た。炎は形を変え続けている。同じ形が続かない。それでも、火は火だ。形が変わっても、熱を持ち、光を出し、消えない。


 形が変わることと、自分が変わることは、別のことだろうか。


 わからなかった。


 ただ、一つだけわかることがあった。


 アウラが隣にいる。カイルが前を歩いている。その二人がいる限り、何が変わっても、俺は俺でいられる気がする。根拠はなかった。でも、そう感じた。


---


## 三 アウラの言葉


 翌朝。


 アウラがノアの隣を歩きながら、昨夜の続きを話した。


「隠さずに生きたい」とアウラは言った。「アウラという名前で、アウラとして。それが今、一番したいことかもしれない」


「できると思う」とノアは言った。


「でも、それだけじゃまだ足りない気がする」


 ノアは少し驚いた。「足りない?」


「隠さずに生きることは、始まりだと思う。でもその先に、何かしたいことがあるはずで。それがまだわからない」アウラは空を見た。「ノアは、旅が終わったら、何がしたい?」


 ノアは考えた。旅が終わったら。終わり方すら見えていないのに、その先を考えたことはなかった。


「わからない」と正直に言った。


「わからないよね」とアウラは言った。責めているのではなく、共感している声だった。「私もわからない。ただ、旅が終わっても、この三人でいたい気はする」


「俺も」とノアは言った。


「カイルさんはどうかな」


 二人で前を歩くカイルを見た。カイルは地面を見ながら歩いている。いつもの歩き方だ。


「カイルさん」とアウラが呼んだ。


「なんだ」


「旅が終わったら、どうしたいですか」


 カイルは少し黙った。歩きながら、前を向いたまま。


「木を彫る」と言った。


 アウラがノアを見た。ノアもアウラを見た。


「木彫りですか」とアウラが言った。


「ずっと完成させたことがなかった。落ち着いた場所で、時間をかけて、一つ完成させたい」


「何を彫るんですか」


「まだわからない。でも、彫り始めたら見つかる気がしている。今は、そう思っている」


 アウラは少し笑った。「カイルさんらしい」


「そうか」


「うん。やってみたら見つかる、っていうのが」


 カイルは答えなかった。でも、肩が少し軽くなった気がした。ノアにはそう見えた。


---


## 四 夜、一人ずつの問い


 十八日目の夜。


 カイルが「今夜は少し一人になる」と言って、焚き火から離れた場所に座った。珍しいことだったが、二人は何も言わなかった。カイルにも、一人で考えたいことがある夜がある。


 ノアとアウラが焚き火の前に残った。


 アウラが膝を抱えて、空を見ていた。星が出ている。あの夜、二人で名前をつけた星たちが、今夜も同じ場所にある。


「あれ、覚えてる?」とアウラが言った。


「曲がった橋」とノアは言った。


「あった。あの辺」


「誰かの横顔もあった」


「ある。あそこ」アウラが指差した。「変わらないね、星は」


「俺たちが変わった」


 アウラは少し笑った。「そうだね。カルノを出たときとは、全然違う」


「違うか」


「違う。ノアも、最初より話すようになった」


「そうか」


「最初の頃は、必要なことしか言わなかった。今は、少し余分なことも言う」


 ノアは少し考えた。「余分なこと?」


「余分、って言い方が悪かった。えっと、心の中のことを、少し言うようになった。以前はもっと閉じてた」


 ノアはそうかもしれないと思った。「アウラのおかげかもしれない」


「私が?」


「話を聞いてくれるから、話せる気がする」


 アウラは少し黙った。それから「ありがとう」と言った。「私もノアに話せるから、話してる。お互い様だね」


 風が一度、静かに吹いた。星が動いていた。見ている間には動かないが、確かに動いている。


「ノア」とアウラが言った。


「うん」


「さっきの話の続きなんだけど。私が隠さずに生きたい、その先に何があるか、まだわからないって言ったじゃないですか」


「言った」


「一つだけ、わかったことがある」


「何が」


「誰かの隣にいたい」とアウラは言った。「隠さなくていい誰かの。アウラのままでいられる誰かの」


 ノアは何も言わなかった。


「それが今、一番したいことかもしれない」とアウラは続けた。「大きな目的じゃないけど」


「大きくなくていい」とノアは言った。


「そう思う?」


「大きな目的を持つことが旅の理由じゃないと、最近思う。歩くことで見つかるものが、目的になっていく。最初から持っていなくていい」


 アウラはしばらくノアを見ていた。それから、前を向いた。


「ノアの隣がいい」と、小さく言った。


 風の音に混じるほど、小さな声だった。ノアには聞こえた。


 何も言わなかった。言葉にする必要がない気がした。ただ、隣に座っていた。それで十分だった。


---


## 五 カイルが戻ってきた


 しばらくして、カイルが戻ってきた。


 焚き火の前に座った。二人の様子を一度見た。何も聞かなかった。


 少し沈黙があってから、カイルが言った。


「一つ、話してもいいか」


「どうぞ」とノアは言った。


「俺は今まで、誰かのために歩いたことがなかった」カイルは火を見た。「自分のために、風を追って、一人で歩いてきた。それが当たり前だと思っていた」


「今は違うんですか」とアウラが言った。


「今は、お前たちが心配だ」とカイルは言った。淡々と、しかし真剣に。「心配というより、無事でいてほしい。そう思いながら歩いている。それが、これまでと一番違うことだ」


 ノアはカイルを見た。


「俺たちのために歩いてくれているのか」とノアは言った。


「そういうわけじゃない」とカイルは言った。「自分のためでもある。ただ、自分のためだけじゃなくなった。それだけだ」


「それだけ、って大きいことだと思います」とアウラが言った。


「そうかもしれないな」


 夜空に、風の渦のような雲が流れていた。うっすらと光を帯びて、ゆっくりと動いている。ノアはそれを見た。


 三人ともそれを見ていた。


 生きるだけじゃ足りない、とカイルが言った夜のことをノアは思い出した。意味を見つけよう、と続けた。


 今夜の話は、その続きだった。


 意味は、一度で見つかるものじゃない。歩きながら、少しずつ、形を変えながら、見つかっていくものだ。


 まだ足りない。


 でも、確かに積み重なっている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ