第五章 ― 邂逅 旧き者の影 ―
## 一 崩れた街
峡谷を越えてから四日が経った。
地形はまた変わっていた。岩盤の赤みが消えて、土の色が灰色がかってきた。草はほとんどなく、代わりに白く乾いた低木が点在している。風が強い。荒野のどこでも風はあったが、この辺りは特に強く、絶え間なく吹いていた。
そして、街の跡が現れた。
集落ではない。もっと大きい。かつては相当な規模の街だったと思われる。建物の土台が、広い範囲に残っていた。道らしき跡もある。石畳だったのか、地面に規則的な石の並びが続いている。広場があったと思われる空き地もある。
だが、何もかもが崩れていた。
建物は全て倒壊している。壁の残骸が積み重なり、屋根の瓦礫が道を塞いでいる。火で焼けた跡のある石もある。長い時間をかけて風化した跡と、短い時間で壊された跡が混在していた。
「大きな街だったんだな」とカイルが言った。
「いつ頃のものだろう」とアウラが言った。
「わからない。だが、かなり古い」カイルは崩れた柱の断面を見た。「石の質が、カルノの城壁とは違う。もっと硬い。今はこういう石の切り出し方を知っている人間がいない」
ノアは街の跡を見渡した。
風が強く吹いた。瓦礫の間を抜ける風が、低い音を立てた。その音の中に、ノアはあの呼びかけを感じた。ここ数日、その感覚が強くなっていた。東へ来るほどに、呼びかけが大きくなっていた。
「ここに、何かある」とノアは言った。
「何が」とカイルが聞いた。
「わからない。でも、風がここを指している気がする」
アウラがペンダントを見た。光っていない。熱もない。峡谷での一件から、ペンダントは静かだった。
「進もう」とノアは言った。
---
## 二 老人
街の跡の中央部、かつて広場だったと思われる場所に、人がいた。
老人だった。
粗末な司祭服を着ていた。白に近い灰色の布で、継ぎ接ぎはなかったが、くたびれていた。長く着続けたものの色だ。白髪を短く刈り、背は高くはないが、姿勢が妙に真っ直ぐだった。老いているのに、背中が曲がっていない。
老人は三人が近づいても動かなかった。立ったまま、前を見ていた。目を閉じているのか開いているのか、遠目にはわからなかった。
「……来たか」
老人が言った。
声は低く、静かだった。大きくはないが、よく通った。風の音の中でも、はっきり聞こえた。
三人は立ち止まった。カイルが槍を手に持った。戦う構えではなく、念のための動作だ。
「誰だ」とカイルが言った。
「ゼルファスという」と老人は言った。こちらを向いた。目が開いていた。灰色の目だった。深い色で、年齢よりも多くのものを見てきた目だと、ノアは直感した。
「俺たちを待っていたのか」とノアは言った。
「待っていた、というより」ゼルファスはわずかに首を傾けた。「来るとわかっていた」
「なぜ」
「風が教えた」
その言葉に、カイルの肩が少し動いた。ノアも感じた。この老人も、風を聞く者だ。
---
## 三 ゼルファスの目
ゼルファスは三人を順番に見た。
カイルを見た。少し頷いた。長く歩いてきた者への、静かな敬意のような目だった。
アウラを見た。目が、わずかに細くなった。ペンダントを見ていた。ペンダントを見てから、アウラの顔を見た。何かを確かめているような目だった。
最後に、ノアを見た。
その目が、止まった。
ゼルファスの表情が変わった。変わった、というより、揺れた。何かを堪えているような、あるいは何かを思い出しているような。老人の顔が、一瞬だけ遠くを見た。
それからゼルファスは、ゆっくりと口を開いた。
「……Noah」
その言葉が、空気を揺らした。
ノアには聞き慣れた自分の名前のように聞こえた。しかし何かが違った。発音が違う。ゼルファスは「ノア」と言ったのではなかった。最後に、何か短い音が続いた。息のような、声にならない音が。
「……いや」
ゼルファスは言い直した。
「Noa」
今度はノアが知っている自分の名前だった。だが、言い直したという事実が、空気の中に残った。最初の言葉と、言い直した言葉の間の、わずかな間が。
ノアは聞こうとした。今、何と言ったのか、と。
だがゼルファスが先に動いた。「座るがいい。話がある」
---
## 四 紋章の話
瓦礫の上に腰を落ち着けて、四人は向かい合った。
ゼルファスが話し始めた。
「その紋章を見たことがある」
アウラのペンダントを指していた。
「どこで」とアウラが言った。
「遠い昔、別の場所で。持っていた者が違ったが、紋章は同じだ」
「誰が持っていた」
「お前の母親の、そのまた母親の、さらにその前の者だ。何代前かは、もう数えられない」
アウラは黙っていた。
「紋章は風の意思を映す器だ」とゼルファスは言った。「風が何を意思し、どこへ向かおうとしているか。それを感じ取るための器として、作られた」
「誰が作ったんですか」とノアは聞いた。
「作った、というより、生まれた、という方が近い」ゼルファスは遠くを見た。「風が、自分の意思を形にしようとしたとき、ああいうものが生まれる。人の手は、最後の仕上げをしたに過ぎない」
「風に意思がある」とカイルが言った。問いかけではなく、確かめるように。
「お前は感じているだろう」とゼルファスはカイルを見た。「十年、風を聞いてきた。風が方向を持ち、呼びかけを持ち、意思を持つことを、体で知っているはずだ」
カイルは答えなかった。しかし否定もしなかった。
「紋章は同時に、争いの種でもある」とゼルファスは続けた。「風の力を欲する者が、必ず現れる。お前たちが峡谷で会ったものも、その一つだ」
「影が、力を欲していた」とアウラが言った。
「影はかつて、風の力を持っていた。それを失って、今も求め続けている。哀れな存在だ」
「なぜ力を失った」とノアは聞いた。
ゼルファスは少し間を置いた。「それは、長い話になる」
「聞きたい」
「今は、まだその時ではない」
ノアは食い下がろうとした。しかしゼルファスの目が、「今ではない」と静かに告げていた。急かすことへの拒絶ではない。ただ、順番がある、という目だった。
---
## 五 ノアへの問い
ゼルファスがノアを見た。
「お前に聞きたいことがある」
「何を」
「風とは何だと思う」
ノアは少し驚いた。問われるとは思っていなかった。答えを求められているのか、あるいは考えさせようとしているのか、判断がつかなかった。
ノアは風を感じた。今も吹いている風を。瓦礫の間を抜けて、服の裾を揺らしている風を。
「風は、生かすものだと思う」とノアは言った。ゆっくり、言葉を探しながら。「種を運ぶ。水を呼ぶ。命を運ぶ。風がなければ、どこにも届かないものがある」
「それだけか」
「……声を届ける」とノアは続けた。「言葉にならないものを、運ぶ。誰かが何かを感じたとき、その感覚を、遠くの誰かに届ける。俺はそれが風だと思っている」
ゼルファスはノアをしばらく見ていた。
「なぜそう思う」とゼルファスは言った。
「俺が、風でそれを受け取ったから」とノアは言った。「丘の上で、風が呼びかけてきた。それは言葉じゃなかった。でも確かに、誰かの、何かの呼びかけだった。だから俺は、風はそういうものだと思っている」
ゼルファスは目を細めた。
「正しい」と、老人は言った。「そして、まだ足りない」
ノアは少し眉を寄せた。「足りない?」
「正しいが、まだ全てではない。お前が今言ったことは、風の一面だ。他の面は、これから知ることになる」
「どこへ行けば知れる」
「お前が向かっている先だ」ゼルファスは東を見た。「風が導いている場所だ」
---
## 六 別れ際
話が一段落して、カイルが立ち上がった。「そろそろ動く。日が傾いてきた」
ゼルファスは頷いた。引き止めなかった。
三人が荷物を持って立ち上がると、ゼルファスが言った。
「一つだけ、持っていくがいい」
「何を」とノアは言った。
「言葉だ」ゼルファスは三人を順番に見た。「風は生かす。しかし風は同時に、壊す。その両方を知るとき、お前たちの旅は次の段階に入る」
カイルが「壊す、とは」と言った。
「来ればわかる」とゼルファスは言った。それだけだった。
三人は歩き始めた。
ノアは少し歩いてから、振り返った。ゼルファスはまだそこに立っていた。こちらを見ていた。目が合った。老人の灰色の目が、何かを言いたそうにして、しかし言わなかった。
ノアは前を向いた。
胸の中に、あの言葉が残っていた。
最初にゼルファスが言いかけた言葉。「Noah」。言い直して「Noa」になった言葉。その間の、息のような短い音。
それが何なのか、ノアにはわからなかった。でも確かに、何かがあった。自分の名前の中に、自分がまだ知らない何かが。
風が東から吹いていた。
強く、まっすぐに。
---
## 七 その夜
その夜の焚き火で、三人はゼルファスについて話した。
「信用できると思うか」とカイルが聞いた。
「できると思う」とノアは言った。「嘘をついていない。ただ、全部は言わなかった」
「全部言わない理由がある」とアウラが言った。「言えない理由か、言う必要がないと判断した理由か」
「どちらだろうな」とカイルは言った。
ノアは火を見た。
「俺たちが自分で見つけるべきことを、先に言わなかったんだと思う」とノアは言った。「答えを先に言われると、たどり着いたとき、わからなくなる。なぜそうなのかが」
「体で知る必要がある、ということか」とカイルが言った。
「そう思う」
アウラがペンダントを見た。「紋章が風の器だって言ってた。私が持ってる理由が、少しわかった気がする。でも、まだわからないことの方が多い」
「わからないことが多い方が、旅は続く」とカイルは言った。
「それはどういう意味ですか」
「わかりきってしまったら、歩く理由がなくなる」カイルは薪をくべた。「俺は十年、わからないから歩いてきた。わかってしまったら、止まっていたかもしれない」
アウラは少し考えてから「それも寂しい気がする」と言った。
「そうだな」とカイルは素直に言った。「わかりたくもある。ただ、わからない時間も、悪くなかった」
ノアは聞きながら、ゼルファスの言葉を頭の中で反芻していた。
まだ足りない。
丘の上で感じたあの渇きと、同じ言葉だった。だがゼルファスの口から出ると、少し違う意味に聞こえた。足りないのは、欠けているのではなく、まだ来ていないのだ。これから来る。この先に、足りないものが待っている。
そう受け取ることもできた。
ノアはそう受け取ることにした。
東へ続く風が、焚き火の炎を一度揺らした。消えなかった。




