第四章 ― 秘められた名 ―
## 一 峡谷への道
東へ向かって三日歩いたとき、地形が変わった。
平らだった荒野が、少しずつ傾き始めた。地面が固くなり、草が減り、岩の色が赤みを帯びてきた。風の音が変わった。これまでは広い空間を渡る風だったが、今は岩と岩の間を抜ける、鋭い音になっていた。
カイルが足を止めた。前方を見ている。
「どうした」とノアは言った。
「峡谷だ」
ノアも前を見た。地面が途切れている。崖の向こうに、深い切れ込みが走っている。どこまで続いているのかわからない。幅は広いところで五十メートルほど、狭いところでは十メートルほどだろうか。深さは、見えなかった。底に光が届いていない。
「渡れるか」とアタカが言った。
「橋がある」とカイルが言った。「あそこだ」
カイルが指差した方向に、石造りの橋が見えた。古い橋だった。遠目にも、その古さがわかった。石の色が周囲の岩盤と同化していて、最初は地形の一部だと思った。人が作ったものとは思えないほど、長い時間をかけて風景に溶け込んでいた。
「あの橋、いつ作られたんだろう」とアタカが言った。
「わからない」とカイルは言った。「だが、誰かが作った。ということは、ここを渡った人間がいた」
「今も渡れるか」とノアは聞いた。
「確かめるしかない」
三人は橋に向かって歩いた。近づくにつれて、橋の造りがはっきりしてきた。石を積み上げて作られた、アーチ型の橋だ。幅は二人が並んで渡れるくらい。欄干はない。両端の石が一部崩れているが、中央部分は残っている。
ノアは橋の手前で立ち止まった。
風が、変わった。
峡谷から吹き上げてくる風が、冷たかった。冷たいだけではない。何か、質が違った。荒野の風とは違う成分が混じっている気がした。それが何なのか、ノアにはわからなかった。ただ、肌が反応した。
「どうした」とカイルが言った。
「風が、少し違う」
カイルも少し目を細めた。「わかる。この辺りは昔から、そういう場所だったらしい」
「知ってるのか」
「書庫で読んだ。峡谷地帯には、古い力の残滓が溜まりやすいと。何の力かは書いていなかった」
アタカがペンダントを押さえた。無意識の動作だった。ノアはそれを見た。ペンダントが、この場所に反応している。
「行くか」とカイルは言った。
「行く」とノアは答えた。
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## 二 橋の上で
橋を渡り始めた。
カイルが先頭、ノアが中ほど、アタカが最後尾。いつもの順番だ。橋の石は思ったより安定していた。足を置くと、しっかりとした感触がある。何百年経っても、この石は崩れていない。
峡谷の深さが、渡りながら感じられた。
欄干がないので、端まで行けば下が見える。ノアは一度だけ覗いた。底は暗かった。遠くに水の光らしきものが見えたが、はっきりしなかった。風が下から吹き上げてきて、その冷たさが強くなった。
「速く渡れ」とカイルが言った。「ここで長居するものじゃない」
歩調を速めた。橋の中央を過ぎたあたりで、アタカが小さな声を出した。
「ノア」
振り返った。アタカが立ち止まっていた。右手でペンダントを握りしめている。その手が、わずかに光っていた。
光、とノアは思った。
ペンダントが光を放っていた。弱い光だが、確かに光っていた。銀色ではなく、薄い青白い色をした光だ。アタカの顔が、その光に照らされてわずかに蒼白く見えた。
「アタカ」
「ペンダントが、熱い」とアタカは言った。「さっきから、少しずつ熱くなってた。今、すごく熱い」
カイルが戻ってきた。ペンダントを一目見て、「急げ」と言った。
「何が来る」とノアは聞いた。
「わからない。だが、これは呼び寄せている。向こうから、何かを」
三人は速足で橋を渡った。対岸の石に足をつけた瞬間、峡谷の下から音がした。
風ではなかった。
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## 三 影
音は、声とも風とも違った。
低く、長く、峡谷の石に反響して、どこから来るのかわからない。ノアは体の芯が冷えるのを感じた。怖い、という感覚ではなかった。もっと根本的な何か。生き物が持つ、古い警戒心だ。
影が現れた。
峡谷の壁から滲み出るように、影が形を作った。人の形に似ていたが、輪郭が定まらない。集まっては散り、散っては集まる。一つではなかった。三つ、四つ、気づくと五つになっていた。
カイルが槍を構えた。「下がれ」
二人は後退した。カイルが前に出た。
影の一つが動いた。速かった。カイルの槍が振られたが、影を通り抜けた。物理的な攻撃が効かない。カイルはそれを瞬時に理解したようで、槍を盾のように使い始めた。影が槍に触れると、そこだけ形が乱れた。完全には通れないらしい。
「何だ、これは」とカイルが言った。
ノアは影を見ていた。動き方に、規則性がある。ランダムではない。影たちは、アタカの方に向かっている。ペンダントに向かっている。
「アタカを狙ってる」とノアは言った。「ペンダントを」
「なぜ」
「わからない。でも、引き寄せられてる」
アタカはペンダントを見た。まだ光っている。熱を持っている。「私が、呼んだの?」
「お前のせいじゃない」とノアは言った。「ただ、影はこれを欲している」
影が二つ、カイルを迂回しようとした。ノアは間に入った。影がノアに向かってきた。触れると、冷たかった。体温を奪われる感覚。息が詰まる。ノアは踏ん張った。
アタカが叫んだ。「ノア!」
ノアは影を手で押した。影が形を乱した。手が触れた場所から、波紋のように歪みが広がる。影が一瞬、後退した。
「効いてる」とカイルが言った。息を呑んだような声だった。「俺の槍も、完全には通り抜けなかった。物理的なものが、ダメージになっている」
「でも倒せない」
「倒す必要はない。追い払えればいい。急げ」
三人は走った。影が追ってくる。峡谷から離れるにつれて、影の動きが鈍くなった。峡谷を離れると、影はそれ以上来なかった。
五十メートルほど走って、三人は止まった。
息を切らしながら、振り返った。影は峡谷の縁で止まっていた。こちらを見ているような、見ていないような。やがて、霧のように薄くなって、消えた。
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## 四 影の正体
呼吸が落ち着くまで、三人は黙っていた。
カイルが槍を下ろした。「怪我はないか」
「ない」とノアは言った。
「……ある」とアタカが言った。
二人が振り返った。アタカの左腕に、影が触れた跡があった。皮膚が変色していた。黒ずんでいる。痛そうだった。
「いつ」とノアは言った。
「橋の上で。一瞬触れた。大したことないと思ったけど」
「大したことある」とカイルが言った。近づいて、腕を確認した。眉をひそめた。「これは……冷えている。体温がない」
「どうすれば」とノアは言った。
「温める。火を起こす」
すぐに焚き火を熾した。アタカの腕を火に近づけた。しばらくすると、変色が薄くなってきた。完全には消えなかったが、広がりは止まった。
「痛いか」とノアは聞いた。
「しびれてる」とアタカは言った。「痛いというより、感覚がない」
「動かせるか」
アタカが指を動かした。「動く。大丈夫だと思う」
カイルが腕から手を離した。「しばらく温めておけ。あの影は、生命の熱を奪う。触れられると、そこだけ冷える」
「あれは何だったんですか」とアタカが聞いた。
カイルは少し間を置いた。「書庫の本に、一度だけ書いてあったものに似ていた。風の精霊が、力を失ったものの成れの果て、と」
「風の精霊」とノアは繰り返した。
「もともとは、風を司る存在だったらしい。だが何かがあって、力が暴走した。形を保てなくなって、影になった。今は、力の残滓を求めてさまよっている」
「ペンダントの力を、求めていた」とアタカは言った。
「そう思う。あのペンダントには、風の力が残っている。だから引き寄せられた」
アタカはペンダントを見た。もう光っていなかった。熱も引いている。ただの銀色の欠片に見えた。
「なんで私が持ってるんだろう」とアタカは言った。独り言のように。
「お母さんが渡した」とノアは言った。
「お母さんも、理由を知らなかった。手紙にそう書いてあった」アタカは目を細めた。「でも、知らないまま持ち続けた。私に渡すために」
その言葉が空気の中に漂った。
知らないまま、持ち続けた。何かが大切だとわかっていたから。理由はわからなくても。
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## 五 アウラ
夜になった。
焚き火を囲んで、三人はいつもより口数が少なかった。アタカの腕の変色は、だいぶ薄くなっていた。感覚も戻ってきたと言っていた。
カイルがしばらくして「眠る」と言い、壁に背を預けた。
ノアとアタカが残った。
アタカは火を見ていた。ペンダントを手の中で転がしていた。何かを考えている顔だった。ノアは声をかけなかった。
しばらくして、アタカが口を開いた。
「ノア」
「うん」
「一つ、話してもいいか」
「どうぞ」
アタカは少し間を置いた。ペンダントを握りしめた。
「私の本当の名前は、アウラという」
ノアは黙って聞いた。
「お母さんの手紙に書いてあった。本当はアウラという名前で生まれた。でも、この名前を持つ者は追われると書いてあった。だからアタカと名乗るようにと」
「追われる? 誰に」
「わからない。手紙にはそれ以上書いていなかった」アタカ――アウラは、火を見た。「だから、ずっとアタカとして生きてきた。本当の名前は誰にも言わなかった。言えなかった」
「俺に言ったのは」とノアは言った。
「今日、影に触れたとき」アウラは左腕を見た。「感覚がなくなったとき、思った。もしこのまま、誰にも言わずに終わったら、どうしようって。本当の名前を、誰にも知られずに」
ノアは火を見た。
「アウラ」と、声に出して呼んだ。
アウラが顔を上げた。
「覚えた。俺は覚えた」
アウラはしばらくノアを見ていた。それから、目を細めた。泣きそうな顔ではなかった。ただ、長く張っていたものが、少し緩んだような顔だった。
「ありがとう」と言った。
「名前は関係ない」とノアは言った。「アタカでもアウラでも、お前は俺の仲間だ」
アウラは少し笑った。「名前は関係ない、って言いながら、ちゃんと覚えてくれた」
「矛盾しているか」
「矛盾してない。どっちも本当だから」
風が一度、強く吹いた。焚き火が揺れた。消えなかった。
ノアは思った。アウラという名前を持つ者が追われる、とお母さんは書いた。何者が、なぜ追うのか。それはこの旅の先で、いつか明らかになるのかもしれない。
今はまだわからない。でも、仲間が本当の名前を教えてくれた。それだけで、今夜は十分だった。
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## 六 翌朝、カイルへ
翌朝、アウラがカイルに言った。
「カイルさん、一つ話があります」
カイルが振り向いた。
「私の本当の名前は、アウラといいます」
カイルは少し間を置いた。それからノアを見た。ノアが小さく頷いた。
「昨夜、ノアに話した。カイルさんにも知っていてほしくて」
「なぜ追われる」とカイルは言った。
「わかりません。でも、そういう名前らしい」
カイルはしばらく黙っていた。それから「わかった」と言った。「アウラだな」
「でも、アタカでも構いません。どちらでも」
「どちらがいい」とカイルは聞いた。
アウラは少し考えた。「……アウラの方が、自分に近い気がします。最近」
「ならアウラと呼ぶ」とカイルは言った。それだけだった。
追及はなかった。驚いた様子もなかった。ただ、受け取った。カイルらしかった。
アウラが小さく「ありがとうございます」と言った。
カイルは荷物を担ぎながら「追われるなら、俺がいる間はそう簡単に近づけさせない」と言った。こちらを見ずに、前を向いたまま。
アウラはノアを見た。ノアは肩をすくめた。カイルの不器用な優しさを、二人はもう知っていた。
三人は東へ歩き始めた。
峡谷は背後に遠ざかっていった。影はもう来なかった。ペンダントは冷たく静かだった。アウラの腕の変色は、朝の光の中でほとんど見えなくなっていた。
ただ、ノアの胸の中に、一つの問いが残った。
風の精霊が、力を失って影になった。それはなぜか。何が、精霊をそうさせたのか。そしてアウラのペンダントは、なぜその力を持っているのか。
答えは、まだ先にある。
風が東から吹いていた。




