第三章 ― 焚き火の記憶 ― 一、二、三
## 一 雨と屋根の下
十二日目の夕方、廃屋を見つけた。
荒野の中に、ぽつりと一軒だけ残っている建物だった。集落の跡でもなく、誰かが意図して建てたのか、流れ着いたのか、判断のつかない場所に立っていた。屋根の半分は落ちていたが、残りの半分は辛うじて形を保っていた。壁も三方は残っている。雨露はしのげる。
カイルが中を確認した。「獣の気配はない。使える」
三人は荷物を中に入れた。
久しぶりの屋根だった。荒野に出てから十二日、ずっと空の下で眠っていた。屋根があるだけで、空気が違う。閉じている、という感覚。ノアはそれが思ったより安心させるものだと知った。
カイルが焚き火を熾した。屋根が残っている側の、煙が抜けられる隙間の下に火を置いた。火が落ち着くと、建物の中が温かくなってきた。壁が熱を閉じ込めているのだろう。
三人は火を囲んで座った。
アタカが膝を抱えて、火を見ていた。珍しく静かだった。ノアは何も言わなかった。アタカが黙っているときは、何かを考えているときだ。それがわかるようになっていた。
しばらくして、アタカが口を開いた。
「ねえ、二人に聞いていい」
「なんだ」とカイルが言った。
「怖いと思ったこと、ある? この旅で」
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## 二 怖かったこと
カイルが先に答えた。
「ある」と、間を置かずに言った。「嵐の夜、お前が濡れたとき」
アタカが少し目を丸くした。「私が?」
「お前が濡れて、唇の色が変わった。あのままもっと体温が下がったらと思ったら、怖かった」
アタカは黙った。それから小さく「知らなかった」と言った。
「言わなかったからな」とカイルは言った。淡々と、でも柔らかく。「お前はどうだ、ノア」
ノアは火を見た。
「崖を上っているとき」とノアは言った。「アタカが上ってくる途中、一度足が滑った。下から見えた。あのとき」
「落ちると思った?」とアタカが聞いた。
「一瞬、そう思った」
「でも落ちなかった」
「落ちなかった。でも、あの一瞬が」ノアは言葉を探した。「長かった」
アタカはしばらく黙っていた。それから、「ごめん」と言った。
「謝らなくていい」とノアは言った。
「でも、心配させた」
「心配するのは俺の勝手だ」
カイルが短く笑った。「お前は時々、妙に格好いいことを言うな」
「格好いいとは思っていない。本当のことを言っただけだ」
「それが格好いいんだ」とアタカが言った。少し笑っていた。
ノアはアタカに聞いた。「アタカは?」
「私も、ある」とアタカは言った。膝の上のペンダントを握った。「最初の夜。カルノを出た夜、城壁が見えなくなったとき。急に足が止まりそうになった」
「そうだったのか」とノアは言った。知らなかった。
「ノアは前を向いて歩いてたから、見えなかったと思う。私、三歩くらい遅れてた」
「声をかければよかった」
「声をかけてほしかったわけじゃなかった。ただ、止まりそうだった」アタカは火を見た。「そのとき、ノアの背中が見えた。歩いてた。迷いなく。それで、歩けた」
ノアは何も言わなかった。
迷いなく、とアタカは言った。でもノアは迷っていた。城壁が見えなくなったとき、胸の中で何かが揺れた。それを顔に出さなかっただけで、迷いがなかったわけではない。
だがそれを言うべきか、ノアは少し考えた。
「俺も迷っていた」と、ノアは言った。「顔に出していなかっただけで」
アタカが顔を上げた。
「それでも歩けたのは、アタカが後ろにいたからだ。一人だったら、もう少しゆっくりだったかもしれない」
アタカはしばらくノアを見ていた。それから、ゆっくり前を向いた。「そっか」と言った。声が少し柔らかくなっていた。
カイルが薪を一本くべた。火が大きくなって、また落ち着いた。
「怖いのは、悪いことじゃない」とカイルは言った。「怖いということは、失いたくないものができたということだ。それは、荒野を十年歩いても手に入らなかったものだ」
三人は黙った。
火が揺れていた。外で風が鳴った。建物の壁が、その風を受け止めていた。
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## 三 ノアの話
夜が深くなった。
カイルが「俺は少し眠る」と言って、壁に背を預けた。目を閉じると、すぐに静かになった。眠るのも起きるのも早い男だった。
ノアとアタカだけが火の前に残った。
アタカが「ノア」と呼んだ。
「うん」
「ノアって、夢を見る?」
ノアは少し驚いた。「夢?」
「なんか、毎朝起きるとき、遠くを見てる顔をしてる。夢を見てたのかなって思って」
ノアは火を見た。話すべきか、少し迷った。これまで誰にも話したことがなかった。言葉にしにくかったからだ。でも、アタカになら話せる気がした。
「同じ夢を見る」とノアは言った。「ずっと前から」
「どんな夢」
「何かが手をすり抜けていく夢だ。追いかけようとするが、足が動かない。声を出そうとすると、喉が塞がる。目が覚める直前に、音が聞こえる」
「音?」
「風みたいな音。でも風じゃない。呼びかけに似た何かだ。目が覚めると忘れている。でも、渇きだけが残る」
アタカはしばらく黙っていた。
「いつから?」
「覚えている限り、ずっと。物心がついたときからある気がする」
「それが、旅に出た理由の一つ?」
「全部じゃないが、一つだと思う」
アタカはペンダントを握った。「私も、似たものがある。夢じゃないけど。朝、目が覚めたとき、自分がどこにいるかわからない瞬間がある。一秒くらい。その一秒の間、自分の名前も、カルノにいることも、全部知らない感じがする」
「それは毎朝?」
「毎朝じゃない。でも、ときどき。そのときの感じが、嫌じゃないんだよね」
「嫌じゃない?」
「うん。怖いんだけど、同時に、これが本当の自分かもしれないって思う。アタカという名前を知る前の、何か。それが一秒だけ覗く感じ」
ノアはその言葉を、胸の中で静かに置いた。
本当の自分。名前を知る前の何か。それはノアが夢の中で追いかけているものと、同じかもしれなかった。手をすり抜けていくものが、それかもしれなかった。
「俺たちは」とノアは言った。「何かを忘れているのかもしれない」
「忘れた、というより」とアタカは言った。「隠されてる、という感じがする。自分で隠したんじゃなくて、誰かに」
その言葉が、空気の中にしばらく残った。
火が一度大きく揺れて、また静かになった。




