EP 4
絶対中立特区と、パンの耳を巡る死闘
「……本当にここが、三大国が恐れる『絶対中立特区』なのか?」
人間族のルナミス帝国、獣人族のレオンハート王国、そして魔族のアバロン魔皇国。
大陸を二分する……いや、三分する超大国たちが互いを牽制し合う泥沼の緩衝地帯。そのど真ん中に位置する永世中立の理想郷『ポポロ村』の入り口に辿り着いた俺は、目の前のあまりにもカオスな光景に、思わず深く眉間を揉んだ。
のどかな田園風景が広がり、遠くからはドワーフ製の魔導トラクターの牧歌的なエンジン音が響いている。そこまではいい。非常に牧歌的でスローライフにふさわしい。
問題は、村の広場にあるベンチ付近で繰り広げられている、あまりにも見苦しく、かつ緊迫した『死闘』だった。
「返しなさいよぉ! そのパンの耳は、私がタローソンのゴミ箱の廃棄ラインを見切って、野良犬との縄張り争いに完全勝利して手に入れた、今日の貴重なランチなのよぉぉっ!」
紫色のダサいルナミスデパート製芋ジャージに、履き潰された健康サンダルという信じられない格好をした美少女が、一羽の鳩とマジギレしながらパンの耳を引っ張り合っていた。
透き通るような青い髪に、南洋の真珠を思わせる圧倒的な美貌。設定資料が確かなら、海中国家シーランの気高き人魚族の姫君にしか見えないのだが、彼女から放たれるオーラは、完全に『パチンコで全財産を溶かしてポイ活で食い繋いでいる限界地下アイドル』のそれだった。
(なんだあの残念すぎる美少女は……。関わらない方が絶対に身のためだな)
俺がそっと視線を逸らし、村役場らしき大きな大理石の建物へ向かって歩き出そうとした、まさにその瞬間だった。
「――おや。随分と『重い』因果を背負ったお客様ですね」
背後から、草を踏む音すら立てず、完全に気配を消した冷徹な声が響いた。
心臓が跳ね上がるのを抑えて振り返ると、そこには漆黒の燕尾服を寸分の乱れもなく完璧に着こなした、背の高い男が立っていた。頭頂部から生えたピンと尖った黒い毛並みの獣耳。そして、洗練された紳士的な所作とは裏腹に、全身の細胞から陽炎のように立ち上る爆発的な闘気。人狼族だ。
「ポポロ村へようこそ。私は当村の宰相兼執事を務めております、リバロンと申します。……して、下界の旅のお方は、どのようなご用件で我が村へ?」
リバロンは優雅に、それこそルナミス帝国の最高級ラウンジの給仕のように深くお辞儀をしながら、胸ポケットから一枚の四角い『名刺』を取り出した。
次の瞬間、彼の細い手首が、しなる鞭のように冷酷に払われた。
ヒュッ……!!
空気を鋭く切り裂く真空の音。ただの高級和紙でできた名刺が、リバロンの人狼族トップクラスの闘気を極限まで薄く鋭く纏わされたことで、時速300キロを超える鋼鉄の斬撃と化し、俺の眉間目掛けて一直線に飛来する。
なるほど、これが噂に聞く人狼族の戦闘スタイル『バトラーイズム』。そして、新参者に対する容赦のない実力テストというわけか。
だが、前世で数々の理不尽なシステムエラーを深夜のオフィスで叩き潰してきた俺に、今更この程度の脅しは通じない。
俺は一歩も動かず、ただ飛来する名刺のシステムコードを見つめ、その『運動エネルギーの固定値』を脳内でカチャリと解除した。
パツンッ。
俺の鼻先わずか数ミリの空間で、名刺はすべての慣性を失って完全に静止し、そのまま重力に従ってヒラヒラと俺の足元へ落ちた。
「……ほう」
リバロンの冷徹な紅い瞳が、面白そうなバグを見つけた有能なプログラマーのように、妖しく細められる。
「物騒な名刺交換だな、リバロン執事。俺の名前はタカギ・カナタ。ただのしがない無職――いや、元S級パーティの『荷物持ち』さ。この村なら誰も俺を不当に使い潰さないと聞いて、移住の申請に来たんだが……」
「リバロ~ン! お客様にいきなり名刺手裏剣を投げちゃダメって、いつも言ってるでしょ!」
地響きのような声と共に、ズシンッ!! と大地が大きく揺れた。
見れば、純白の美しい髪としなやかな白いウサギの耳を激しく揺らす、小柄で大変愛らしい少女が立っていた。ラフで動きやすい現代風のパーカーを着ているが、彼女が背負っているのは、どう見ても軽トラの荷台ほどもある巨大な木箱だ。中には、丸々と太った『月見大根』が500キロ分は詰まっている。
彼女はその狂気的な重量の木箱を、まるで羽毛のクッションであるかのように軽々と地面に下ろすと、足元の土を深くえぐりながらこちらへ歩み寄ってきた。靴屋で売っているような可愛いスニーカーではない。タローマン製の、つま先に極厚のミスリル装甲(安全芯)が仕込まれた『特注安全靴』だ。
「ごめんなさいね! 私はこのポポロ村の村長をしてる、キャルル・ムーンハートよ! 移住希望の人ね、大歓迎よ!」
ニコニコと満面のひまわりのような笑顔を向けてくる彼女の愛らしさに、俺は一瞬で毒気を抜かれた。
しかし、ただの村じゃないことは一発で理解した。この美少女村長、基礎戦闘スペックが完全に神のバグ設定の領域にある。
「歓迎してくれるならありがたい、キャルル村長。……口約束だけじゃ怪しまれるだろうから、これ、移住の『手土産』というか、パスポート代わりに持ってきてやった。前の職場のクソ上司どもを退職代行(物理)した時にふんだくった戦利品だ」
俺は自身のインベントリから、あのダンジョンの宝物庫でエドワルドのポーチから回収した『月光薬の密輸依頼書』を取り出し、リバロンの前に差し出した。
受け取ったリバロンがそれに目を通した瞬間、有能な執事の口角が、冷酷な三日月のように美しく吊り上がった。
「……なるほど。ルナミス帝国のカギタ公爵派閥の裏帳簿、ならびに我が村の最高機密である『月光薬』を、大国の権力を盾に不当に買い叩こうとした恐喝の証拠書類ですか。……カナタ様、貴方は我が村に莫大な『外交的優位(脅迫の材料)』をもたらしてくれましたね」
「キャルル様、この男、ただの荷物持ちではありません。最上位のVIPとしてお迎えすべきかと」
「ええっ、そんな凄いもの持ってきてくれたの!? ありがとうカナタさん!」
キャルルがパァッと顔を輝かせ、嬉しそうに俺の胸元へとピタリと抱きついてきた。
柔らかい感触と、女の子特有の甘い人参のような香りに、ドキンと俺の心臓が激しく跳ね上がる。だが、彼女の長いウサギの耳が俺の左胸に押し当てられ、規則正しく刻まれる俺の『心音』をじっと聴き取っているのが分かった。
「……うん、心音の波形に嘘も悪意も混ざってない。本当に、ただブラックな場所から逃げて、ここでゆっくり休みたいだけなのね」
キャルルは俺の胸から離れると、慈愛に満ちた優しい目で俺の手をぎゅっと握りしめた。
「お腹空いてるでしょ? 村の宿屋兼食堂で提供してる『おでん』、最高に美味しいんだから! 私が奢ってあげるわ!」
「キャ、キャルルぅ……お腹と背中がくっついて、人魚から干物になりそうだわ……」
そこへ、先ほどのジャージ姿の人魚姫リーザが、ボロボロに千切れたパンの耳を後大事そうに握りしめながら、ゾンビのようにフラフラと這い寄ってきた。
「鳩とのデスマッチには……辛うじて判定勝ちしたわ……。でも、もう燃料がゼロよ……おでん、私にも施して……」
「もう、リーザちゃんったら! アイドルなんだからもっとちゃんとした生活をしなさいってば!」
キャルルが深くため息をつきながらリーザの脇を抱え、俺たちは連れ立って村の中央にある宿屋へと向かった。
宿屋のテーブルに着くと、すぐにリバロンの手によって、ドンガン地下帝国製の高性能魔導コンロが用意された。その上に載せられた特製の土鍋からは、すでに暴力的なまでの極上の香りが立ち上っていた。
「さあ、ポポロ村名物、月見大根とシープピッグの出汁染みおでんです」
蓋が開けられた瞬間、濃縮された黄金色の出汁の湯気が一気に店内に広がった。
中には、キャルルがさっきまで担いでいた、味が染みて黄金色に透き通った『月見大根』の極厚輪切り。そして、羊の柔らかさと豚のジューシーさを完璧に両立させたシープピッグの『特製つくね串』。さらには、生前は喋ってうるさかったはずのネタキャベツをフリーズドライして完璧に黙らせた『極上ロールキャベツ』が、グツグツと音を立てて躍っている。
リバロンが手際よく、ドワーフ製の安酒『イモッカ(度数37度)』をおでんの熱い出汁で割った『出汁割りコップ酒』を俺の前に置いた。
「いただきます……」
俺は箸で、ズッシリと重い月見大根を口に運んだ。
噛み締めた瞬間、おでんの汁がジュワァァァッ!! と口の中で爆発した。たまんネギ(賢者モード)から取られたという上品で雑味のない出汁の旨味と、大根の圧倒的な糖分が、前世のデスマーチと今世の奴隷労働でカサカサに擦り切れていた俺の五臓六腑へ、ダイレクトに染み渡っていく。
「……っ、うっま!! なんだこれ、美味すぎる!」
「でしょお? 私たちの自慢の農作物だもん!」
キャルルが我が事のように嬉しそうに胸を張る。
その横では、リーザが「んふぅぅぅ!」と、人魚とは思えない奇怪な声を上げながら、シープピッグのつくねを猛烈な勢いで吸い込んでいた。
「美味い……美味すぎるわ……! ねぇカナタさん、貴方、エドワルドとかいうクズから莫大な退職金を毟り取ってきたのよね? 財布が金貨の重みで悲鳴を上げてるわ。……どうかしら、私の『太客(筆頭株主ファン)』にならない? 今なら五円(御縁)のスパチャで、毎晩魔導通信石で私のLove & Moneyをプライベート演奏してあげるわよ?」
「リーザちゃん、お客様をカツアゲしようとするのはやめなさい」
リバロンの冷ややかな視線が突き刺さり、リーザは「現実はシビア〜……」と呟きながら、おでんのちくわを涙目で齧った。
熱々の出汁割りをコップからグイッと煽る。サツマイモのような芳醇な香りと高濃度のアルコール、そして濃厚な出汁が胃袋をカッと熱くさせた。
「ああ……決めた。俺は絶対に、何があってもこの村から離れないぞ」
涙が出るほど美味い飯と、最高にカオスで温かい住人たち。
俺はここを安住の地にする。そのためなら、自分の『鍵』の力をどんな風にだって使ってやる。そう心に深く誓った。
しかし、この時の俺はまだ知らなかった。
この最高に平和で、異常な隠し火力を誇る村の利権と、俺が持ち込んだ多額の現金を狙って――ルナミス帝国軍の腐敗した強襲部隊(マフィア化した汚職将校たち)が、すでに村の境界線の目と鼻の先まで、最新鋭の魔導ライフルを構えて迫りつつあるということを。
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