EP 12
平和すぎる朝と、行き倒れの勇者
抜けるような青空と、小鳥の爽やかなさえずり。そして、ふかふかの温かい土の匂い。
俺はタローマン製の大衆麦わら帽子を深く被り直し、クワを片手に額の汗を拭った。
昨晩の機械蟲との死闘や、あの狂乱の死蟲海老天丼の大宴会がまるで遠い幻だったかのような、完璧すぎるほどに穏やかなスローライフの朝だった。
「カナタさーん! こっちの畝の種まき、全部終わったよー!」
真っ白で大きなウサギの耳に麦わら帽子をちょこんと乗せた村長キャルルが、泥だらけの長靴姿で元気よく手を振ってくる。昨夜、マッハの飛び蹴りで鋼鉄の巨大化け物を粉砕した戦闘狂の姿からはおよそ想像もつかない、素朴で愛くるしい農家の娘そのものの笑顔だ。
「よし、お疲れ様。じゃあ、サクッと『収穫』まで終わらせちまうか」
俺は種が撒かれたばかりの黒々とした土の前にしゃがみ込み、土塊にそっと両手を触れた。
「対象、ポポロ村第3農区の土壌ネットワーク。養分供給のセーフティプロトコルを一時的に解除。種の『成長限界時間』を……一括で強制アンロックだ」
脳内でカチャリと『鍵』を回す。
直後、土の中からポンッ! ポンポンッ! と小気味よい音を立てて、黄金色に輝く丸々とした『月見大根』や、瑞々しく太った『たまんネギ』が、わずか数秒の間に種から完全な成熟状態へと急成長して次々に顔を出した。
「わぁぁっ! やっぱりカナタさんの魔法、すっごく便利! これなら一年中、いつでも新鮮で美味しいお野菜が食べ放題ね!」
「本来は世界の理や神のシステムに干渉する禁忌の力らしいんだが……まあ、毎日美味いサラダが山盛り食えるなら安いもんだろ」
俺は泥を払って立派に育った大根を引き抜きながら、楽しそうにカゴへ詰めるキャルルを見て笑う。
そのすぐ横の畝では、元アイドルのリーザが「草むしり一束につき、タローマートのポイントが1ポイント……! むしればむしるほど、今月の家賃が浮くわ!」と血眼になって雑草を引き抜き、執事のリバロンは純白のオーラ(闘気)を纏わせた名刺の束を空中に美しく乱舞させ、野菜を傷つけることなく数秒で畑の害虫だけをピンポイントで細切れに切り刻んでいた。
どこからどう見ても異常な光景だが、この村の『日常』としては極めて平和で穏やかな時間が流れていた。
「よし、そろそろお昼休憩にしようか! 今日のメニューは、昨日の『海老天』の残りを、特製のお出汁と卵でふんわり綴じた、特製海老天カツ煮丼にするわね!」
キャルルのその魅力的な言葉に、俺の胃袋がギュルルと元気な音を立てた。
* * *
一方、その頃。
ポポロ村の境界となる、薄暗い森の入り口の草むらに、泥まみれになりながら這いつくばる一つの哀れな影があった。
「はぁ……はぁ……。やっと、着い、た……」
社畜勇者、ユート・ディスパーダ。
睡眠時間はわずか2時間、三日三晩の不眠不休による強行軍の末、彼はついに神託が示す『極悪非道の魔の村』の目と鼻の先へと辿り着いたのだ。
(神託によれば、ここは世界を滅ぼす禁忌の兵器を密造し、悪魔のような残虐非道な住人たちが血の宴を開いている、大陸最悪の犯罪拠点……!)
ユートは薄れゆく朦朧とした意識の中で、震える手で聖剣(ローン残り34回払い)の柄を必死に握りしめた。
(残業代も出ない上に、失敗したら自己責任のデスゲームクソクエストだが……これを拒否すれば違約金で即座にマグローザ漁船行きだ。……やるしかない。俺が、この悪魔の村を討つ!)
決死の覚悟で最後の草むらを掻き分け、ユートは血走った目を村の広場へと向けた。
そこには、さぞ恐ろしい悪魔たちが凶悪な武器を研ぎ、生贄を捧げている血生臭い光景が――。
「んん〜っ! 鰹とたまんネギのお出汁、それに甘辛い醤油タレの匂いが最高! はいカナタさん、大盛り海老天カツ煮丼お待ちどうさま!」
「ありがとよ村長! サクサクの衣に半熟のトロトロ卵が絡んで……くぅぅっ、お世辞抜きでたまんねぇな!」
「食後はあたしのDIYサウナで一汗流そうじゃないか。キンキンに冷えた完熟フルーツ水も用意してあるよ」
ユートの視界に飛び込んできたのは、ポカポカとしたうららかな陽だまりの中で、信じられないほど美味そうな匂いを周囲に撒き散らす『丼ぶり』を大口で頬張り、幸福そうに笑い合うホワイトすぎる村人たちの姿だった。
「……え?」
ユートの脳が、あまりの現実のギャップに状況を処理しきれずに完全フリーズする。
極悪非道の兵器? 悪魔の血の宴? どこにあるんだ。あそこにあるのは、彼が勇者になってから一度も見たことがないほどの、圧倒的なホワイト環境(楽園)じゃないか。
そして、何よりも致命的だったのは『匂い』だ。
何日もカビの生えた硬い干し肉しか食べていないユートの飢えた鼻腔に、甘辛い極上の醤油ダレと、海老天の香ばしい油、そして熱々の半熟卵の匂いが暴力的なまでの密度で突き刺さった。
「あ……あぁ……」
ユートは聖剣を構えようと立ち上がりかけたが、極限の空腹と精神的疲労、そして目の前の天国のような光景との格差に、戦うための心が完全にポッキリと折れた。
グゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ……!!
静かな森の中に、凶悪な魔獣の咆哮よりもなお大きな、勇者の情けない腹の虫の音が盛大に響き渡る。
「……ま、魔の村……覚悟、しろ……飯、くれ……」
ユートは虚ろな目で天丼の方へと手を伸ばしたまま、限界を迎えて白目を剥き、村の入り口の草地でバタリと行き倒れた。
「ん? カナタさん、今そこから変な音がしなかった?」
海老天カツ煮丼を頬張っていた俺は、箸を止めて森の入り口へ目を向けた。
そこには、ボロボロの鎧と錆びかけた聖剣を身につけた若い男が、ピクピクと足を痙攣させながら無惨に倒れていた。
「……行き倒れか? おいおい、死んでないだろうな」
俺は慌てて丼を置き、駆け寄ってその男を抱き起こした。
「うわっ、ガリガリじゃない! 酷い栄養失調よ! まるでブラック企業から命からがら逃げ出してきたみたいな顔してるわ!」
そう言って、意識を失った青年をしっかりと抱き起こした、まさにその瞬間だった。
俺の『鍵使い』の視界に、彼のガバガバなシステムセキュリティを通り抜けて、その悲惨すぎるステータス画面が勝手にポップアップした。
【名前:ユート・ディスパーダ(勇者)】
【状態:限界過労・極度の栄養失調・重度の胃潰瘍】
【残有給日数:0日(休日出勤手当なし)】
【ローン残高:聖剣34回払い・防具リボ払い】
「……待て。こいつの人生のシステムコード、俺の前世(ブラックIT企業時代)より遥かに絶望的だぞ……!?」
あまりの明らかな『同業者の匂い(社畜の呪い)』に、俺は背筋に戦慄が走るのを禁じ得なかった。
「とりあえず、キャルル。……このカツ煮丼、少し分けてやろう。話はそれからだ。……いや、まずは胃薬か?」
最強の刺客(笑)として派遣された哀れな社畜勇者は、武器を交えることすらなく、ポポロ村の『圧倒的な飯の匂い』と、元社畜である主人公の特大の同情心によって、一瞬にして完全に陥落したのだった。
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