第九話『深層の森の“気配”』
深層の森は、歩くだけで胸の奥がざわついた。
湿度は高いが、第一章の森とは違う。
空気の重さが“音の層”として肌にまとわりついてくる。
風が吹くたび、
木々の葉が重く揺れ、
その揺れが波形となって視界に広がる。
ザワァ……ザワァ……
葉の擦れる音が、
まるで森全体が呼吸しているように感じられた。
胸の奥の壱音が、
その揺れに反応して震える。
ふるり……ふるり……
「……落ち着け。飲まれるなよ」
壱音は弱い。
だが、弱いからこそ外の揺れに引きずられやすい。
深層の森は、音の密度が高すぎる。
一歩踏み出すたび、
足元の土が湿った音を立てる。
ぐしゃり……
その音が波形となり、
地面の奥へ沈んでいく。
——音が沈む森。
そんな異様な感覚があった。
「……ここ、本当にヤバい場所だな」
風が止むと、
森は一瞬で“無音”になる。
鳥の声も、虫の羽音も、
木々のざわめきすら消える。
静寂が、
空気を締め付けるように広がる。
胸の奥の壱音だけが、
かすかに震えていた。
ふるり……
その震えが、
逆に森の静寂を際立たせる。
「……この静けさ、嫌な感じだ」
そのとき——
コツ……コツ……
足音がした。
だが、
その足音は“軽すぎる”。
深層の森の音密度に対して、
あまりにも不自然な軽さ。
視界に波形が広がる。
細く、弱く、
まるで“存在が薄い”ような揺れ。
「……誰だ?」
俺はナイフを構え、
壱音を胸に集中させた。
ふるり……
刃が微かに震える。
茂みが揺れ、
影がひとつ現れた。
だが——
その影は、
“音を持っていなかった”。
《???(プレイヤー)
音階:無段》
「……プレイヤー?」
だが、違和感があった。
そのプレイヤーは、
フードを深く被り、
顔が見えない。
歩いているのに、
草が揺れない。
足音が波形にならない。
空気が動かない。
まるで——
存在そのものが“音を拒絶している”。
「……お前、無響か?」
その声は、
空気を震わせずに届いた。
まるで、
意味だけが脳に直接流れ込んでくるような声。
「……違う。俺は無響だけど、お前は……」
「俺は“無段”。
音階を持たない者だ」
その言葉に、
胸の奥の壱音が震えた。
ふるり……!
無段。
ローブの人物と同じ音階。
だが、
このプレイヤーはNPCではない。
名前の横に、
プレイヤー表示がある。
「……どういうことだ?
プレイヤーで無段なんて……」
「珍しくはない。
音階を得られずに死んだ者は、
無段のまま深層へ落ちる」
「……死んだ?」
「ログアウトじゃない。
“死んだ”んだよ」
その言葉に、
背筋が冷たくなった。
「このゲームは、
音階を持たない者を“存在”として扱わない。
存在が薄い者は、
深層の揺れに飲まれて消える」
プレイヤーは、
ゆっくりと顔を上げた。
フードの奥から、
淡い青い光が漏れている。
その光は、
ローブの人物と同じ色だった。
「……お前、NPCじゃないのか?」
「違う。
俺はプレイヤーだ。
だが、音階を得られなかった」
胸の奥の壱音が、
その言葉に反応して震える。
ふるり……ふるり……
「無響よ。
お前は壱音を得た。
だから存在できている。
だが、壱音は弱い。
深層ではすぐに飲まれる」
プレイヤーは、
俺の胸に手を伸ばした。
その手は、
空気を震わせなかった。
「壱音を守れ。
それが消えれば、
お前も“無段”になる」
その瞬間——
ガサッ!!
茂みが揺れた。
重い揺れ。
深い波形。
空気を押し潰すような圧力。
ディープ・ウルフとは違う。
もっと重い。
もっと深い。
プレイヤーが言った。
「来るぞ。
深層の“音喰い(おとぐい)”だ」
茂みが裂けた。
グォォォォ……!!
空気が震え、
胸の奥の壱音が悲鳴のように震えた。
ふるり……ふるり……ふるり……!!
「……っ……!」
プレイヤーが叫ぶ。
「壱音を守れ!
飲まれたら終わりだ!!」
深層の森が、
音で満ちた。
そして俺は、
第二章の本当の恐怖を知ることになる。




