第十話『音喰い、深層の咆哮』
深層の森の空気が、急に重くなった。
湿度が増したわけではない。
温度が上がったわけでもない。
——音が、濃くなった。
胸の奥の壱音が、
ふるり……ふるり……
と震え続けている。
まるで、
“何かに触れられている”ような震えだった。
「来るぞ。構えろ、無響」
無段のプレイヤーが低く言った。
その声は空気を震わせず、
意味だけが脳に直接届く。
茂みの奥から、
重い揺れが近づいてくる。
草が揺れ、
土が震え、
空気が押し出されるように歪む。
ズ……ズ……ズ……
その揺れは、
ディープ・ウルフの比ではなかった。
波形が視界に広がる。
太く、深く、
まるで地面の奥から響いてくるような揺れ。
「……なんだ、この揺れ……」
「深層の捕食者だ。
音を喰う獣——《音喰い》」
無段のプレイヤーが言った瞬間、
茂みが裂けた。
グォォォォォ……!!
空気が爆ぜた。
胸の奥が押し潰されるような圧力。
耳の奥が震え、
視界が揺れる。
音喰いは、
狼のような姿をしていた。
だが、
その身体は黒い霧のように揺らぎ、
輪郭が定まらない。
目は赤く光り、
口の奥には“音の渦”が渦巻いていた。
呼吸のたびに、
空気が吸い込まれ、
周囲の音が消えていく。
ゴォ……ゴォ……
「……音を……吸ってる……?」
「そうだ。
音喰いは“音を喰う”。
音を立てる者ほど狙われる」
無段のプレイヤーの声が、
淡く響く。
「だが、お前は無響だ。
音を立てない。
だから——狙われにくい」
その言葉が終わる前に、
音喰いが跳んだ。
ドンッ!!
地面が爆ぜ、
土が跳ね上がる。
だが、
音喰いの跳躍には“音がなかった”。
空気が揺れただけ。
足音も、風切り音もない。
「……っ……!」
俺は横へ跳んだ。
泥が跳ね、
湿った土の匂いが鼻を刺す。
音喰いの爪が地面を抉り、
土が裂ける。
だが、
その裂ける音すら吸い込まれていく。
ズ……ズ……ズ……
音が、消えていく。
「……これが、音喰い……」
無段のプレイヤーが叫んだ。
「無響! 壱音を鳴らせ!
存在を示さなければ、飲まれるぞ!」
胸の奥の壱音が震える。
ふるり……ふるり……!
だが、
音喰いの吸引に引きずられ、
揺れが乱れていく。
「……っ……!」
俺は胸に手を当て、
壱音を抑え込むように意識した。
「鳴れ……!
俺はここにいる……!」
壱音が震え、
空気へ広がる。
ふるり……!
淡い波形が、
音喰いの吸引に逆らうように揺れた。
その瞬間——
音喰いの赤い目が、
俺を見た。
「……っ……!」
無段のプレイヤーが叫ぶ。
「壱音を鳴らしたな!
存在を示した!
だから狙われるぞ!!」
音喰いが跳んだ。
グォォォォ!!
空気が爆ぜ、
胸の奥が震える。
俺は泥を蹴り、
横へ跳んだ。
音喰いの爪が地面を裂き、
土が吸い込まれるように消えていく。
「……音を……喰ってる……!」
「そうだ!
音喰いは“存在の揺れ”を喰う!
壱音を狙ってくるぞ!」
胸の奥の壱音が震える。
ふるり……ふるり……!
音喰いが再び跳んだ。
その軌道が、
波形として視界に浮かぶ。
——見える。
呼吸の揺れ。
筋肉の収縮。
空気の歪み。
すべてが波形となって視界に広がる。
「……行ける……!」
俺は泥を蹴り、
音喰いの懐へ滑り込んだ。
ナイフを構え、
壱音を刃へ乗せる。
ふるり……!
「——壱音・揺律刃ッ!!」
ザシュッ!!
音喰いの身体が揺れ、
黒い霧が散った。
だが——
音喰いは倒れない。
むしろ、
霧が濃くなり、
赤い目がさらに光った。
無段のプレイヤーが叫ぶ。
「無響! 逃げろ!
音喰いは“壱音を喰う”!!
今のお前じゃ勝てない!!」
音喰いが吠えた。
グォォォォォォ!!
空気が裂け、
世界が揺れた。
胸の奥の壱音が、
悲鳴のように震える。
ふるり……ふるり……ふるり……!!
「……っ……!」
視界が白く染まり、
膝が崩れた。
音喰いが迫る。
赤い目が、
俺の壱音を狙っている。
——喰われる。
その瞬間——
空気が、止まった。
風が止み、
葉が揺れず、
音が消えた。
世界が“無”になった。
そして——
「無響よ。
まだ死ぬには早い」
あの声が、
背後から響いた。
ローブの人物が、
音もなく現れた。
その手が、
俺の胸に触れた。
壱音が、
静かに震えた。
ふるり……
音喰いが吠えた。
だが、
ローブの人物は微動だにしない。
「深層の音喰いは、
壱音では倒せない。
だが——
“弐音”なら話は別だ」
ローブの人物が、
俺の胸に手をかざした。
「無響よ。
ここからが本当の深層だ」
音喰いが跳んだ。
世界が揺れた。
そして——
第二章の核心が、
静かに開かれようとしていた。




