嫁観察日記 sideアイリス・ヴシュターク(モブ君の祖母)
アイリスは姿見の前に立ち、自分の眉間にそっと指を伸ばした。
そこに深く刻まれた皺をなぞる。
今年で75歳なのだから、年齢相応といえばそれまでだ。
次いで、わずかに垂れてきた瞼に触れ、それをくいと持ち上げてみる。
もともと細い目が、加齢によってさらに開きづらくなっている。
前をはっきりと見ようと思えば、眉や瞼、目の周囲の筋肉にぐっと力を込めなければならない。
──だが、そうして目を見開くと。
「……うん、やはり凶相だねぇ」
鏡の中に現れたのは、身内でも怯えかねない凄まじい暗殺者の顔だった。
自分でも少し恐い。アイリスは苦笑しながら目の周りにハンドクリームを塗り込み、ぱちぱちと瞬きをして強張った筋肉をほぐした。
さて、今日の予定はどうしたものか。
数瞬ほど考えて、アイリスは「することが何もない」という贅沢な事実に思い至る。
数年前までは、こんな暇は微塵もなかった。
山肌の僅かな隙間にへばりつくようにして植えた蕎麦の実を収穫し、茹でてふやかしたものを、一族の皆でかろうじて分け合って食いつなぐ日々だったのだ。
それが、今はどうだろう。
屋敷の周りを見れば、頭から麦を生やした正体不明の生き物(走る麦)がそこらじゅうを元気に走り回っている。
最近では、両手に立派なりんごを実らせた巨大な樹木までが、屋敷の周囲をのそのそと徘徊し始めた。
すべては、可愛い孫モーブリィの嫁(ローレンツ家のご令嬢・フロランシア)が来てからの変化だ。
あの嫁は、信じられないほどの食料を我が家に持ち込んでくる。
肉を挟んだ柔らかいパンや、チーズと肉片を乗せた真っ赤で平たいパン。
それだけに留まらず、巨大なクラーケン、野生のイノシシや山鳥などを、実にあっさりと抱えて帰ってくるのだ。
おかげで一族一同、完全に食うに困らなくなってしまった。
あまりに食料が満ち足りているので、年寄りの仕事がまるでない。
仕方がないので、アイリスは掃除道具を手に取り、大広間へと向かった。
サッ、サッと、畳の目に沿って丁寧に箒を滑らせる。
嫁はこれを『畳』と言い張るが、そもそもこの畳には井草が一切使われていない。
よく見れば、薄緑色の細い鉄線が、さも井草であるかのように精密に編み込まれているのだ。
この建物自体、床も壁も天井も、部屋に置かれたタンスに至るまで、何から何までが金属か石で作られている。
あの嫁が雑に魔力を放つと、地面から建物がにょきにょきと生えてくるのだから恐ろしい。
どうやら井草や木材といった植物組織は生み出せないようだが、頑丈さで言えばこれ以上の砦はないだろう。
家の長らしく嫁に何か用事を言いつけようにも、最近はこうして先回りして掃除をするくらいしかやることがない。
「何か食料でも」とうっかり頼もうものなら、あの嫁はクラーケンどころか、リヴァイアサンやベヒモス、挙句の果てにはタイラントオーク・ジェネラルあたりを笑顔で狩ってきかねないのだ。
おいそれとパシリに使うわけにはいかなかった。
ふと気配を察知して外を見ると、今日は朝から嫁が忙しそうに動き回っている。
アイリスは掃除の手を止め、そっと気配を消して影から様子を眺めることにした。
あの嫁は、どうにも人間以外の生き物が大好きらしい。
今はアルラウネの上位個体と、とても楽しそうにじゃれ合っている。
嫁の周りには、トレントやマイコニド、例の走る麦たちが嬉しそうに集まっていた。
しかし、問題はもう一種。
どう見ても嫁の側から構っているわけではない、熱烈な生き物たちがいた。
大きな昆虫型をした、2匹のダンジョンマスター。
それらが、べったりと嫁につきまとっているのだ。
うち1匹は、我がヴシュターク領で古くから祀られてきた尊き『ダンジョン神様』
じっと観察していると、驚くべき事実が発覚した。
その高貴なるダンジョン神様と、もう1匹のレア個体(ローレンツ4号)は、嫁が気絶するまでその膨大な魔力を吸い上げている。
そして嫁のほうも、毎晩寝る前にわざわざ魔力を吸わせて、それを『睡眠導入剤』代わりにしているようなのだ。
(……いやいや、危ないねぇ!?)
現役暗殺者のアイリスをして、思わず素でツッコミを入れてしまうほどの異常光景。
魔力というのは、いくら底なしに見えても吸われすぎたら普通に死んでしまうものなのだが。
いくら我が領のダンジョン神様が相手とはいえ、孫の婚約者のあまりにも規格外で命知らずな日常に、アイリスは影の中からハラハラと冷や汗を流すのだった。




