機嫌を取らせる男
第三話 機嫌を取らせる男
男は、怒鳴らなかった。
物を投げることもなかった。 誰かを殴ることもなかった。
だから、自分は「普通の夫」だと思っていた。 ただ、機嫌が悪くなるだけだった。
それだけで、家の空気は変わった。
「……。」
朝、妻が起きてくる。
夫は黙って新聞を読む。
「おはよう。」 返事はない。
「……おはよう。」
もう一度声をかけても、無視。
妻は夫の顔を見る。
眉間に皺が寄っている。
何かあったのだろうか。
昨日、何か言っただろうか。
心当たりを探す。
けれど、分からない。
「何か怒ってる?」 夫は新聞から目を離さない。 「別に。」 その「別に」が、妻には一番怖かった。
夫が怒鳴ってくれたほうが、まだ分かりやすい。
何が気に入らないのか分からないまま、家の中に重い空気だけが残る。
妻は朝食を作る。
夫の好物を並べる。
「朝ご飯できたよ。」 夫は椅子に座る。 「……。」 何も言わない。
箸を置く音が大きい。 味噌汁を飲む。
ため息。
妻はまた考える。
何が悪かったんだろう。
「今日、帰り何時くらい?」
「知らない。」
「夕飯、何がいい?」
「何でもいい。」
妻は黙る。
そして、夫の機嫌を直すために笑った。
「じゃあ、好きそうなもの作るね。」
夫は返事をしない。
それでも妻は、機嫌を取る。
怒っている理由が分からなくても、謝る。
「昨日、何か嫌なことあった?」
「別に。」
「私、何かした?」
「知らない。」
「ごめんね。」
その瞬間だけ、夫の口元が少し緩む。
「分かればいい。」 妻はほっとする。
その反応を見て、男は満足していた。
自分が黙れば、妻が慌てる。
自分が不機嫌になれば、妻が優しくなる。
自分が何も言わなくても、妻が自分の気持ちを察してくれる。
それが、男にとって愛情だった。
妻が自分の機嫌を取ること。
自分のために動くこと。
自分を最優先すること。
男は、それを「大切にされている」と勘違いしていた。
ある休日。 妻は友人と出かける予定だった。 久しぶりの約束だった。
朝、支度をしていると、夫が言った。
「どこ行くの?」
「友達とご飯。」
「ふーん。」 それだけだった。
妻は靴を履く。
「夕方には帰るね。」
「勝手にすれば。」
その声が冷たい。 妻は立ち止まる。
「……怒ってる?」
「別に。」
妻はため息をついた。
「じゃあ、行ってくるね。」
返事はない。
結局、妻は友人との食事を途中で切り上げた。 夫の機嫌が悪いまま家に帰るのが怖かった。
帰宅すると、夫はソファに座っていた。
「おかえり。」
妻が声をかける。 無視。
「……ただいま。」
「遅かったな。」
「ごめん。」 夫はテレビを見る。
「別に。」 妻はバッグを置いた。
「何か食べる?」
「いらない。」
「夕飯作るけど。」
「勝手にすれば。」
妻は台所へ向かった。
その背中を見ながら、男は思う。 ちゃんと帰ってきた。
結局、俺のところへ戻ってくる。
そう思っていた。
妻が自分の予定を変えたことを、愛情だと思っていた。
けれど、それは愛情ではなかった。
恐怖だった。
妻は夫を怒らせたくなかっただけだった。
数年が経つにつれ、妻は少しずつ疲れていった。
夫の機嫌を読むことに。
顔色を伺うことに。
「今日は大丈夫かな」と考えながら帰宅することに。
夫が黙っているだけで、心臓が速くなる。
ため息をつくだけで、何か悪いことをした気持ちになる。
そして、ある夜。
夫は仕事から帰ってきた。
妻はいつものように「おかえり」と言った。
返事がない。
妻は夫を見る。 「疲れてる?」
「別に。」 いつもの言葉。
けれど、その日は妻が謝らなかった。
「そっか。」 それだけだった。
夫は顔を上げた。
「……何だよ。」
「何が?」
「いや……。」
妻は夕飯を並べる。
「ご飯できたよ。」 夫は黙って食べる。
妻も食べる。 静かな食卓だった。
けれど、妻の表情は以前とは違っていた。
怯えていない。
夫は落ち着かなかった。
「今日、何かあった?」
「何もないよ。」
「じゃあ、何でそんな感じなんだよ。」
「普通だよ。」
男は苛立った。
「俺が怒ってるの、分からないのか?」
妻は箸を置いた。
「怒ってるなら、自分で言って。」
「……は?」
「私、もうあなたの機嫌を当てるの疲れた。」 男は言葉を失った。
妻は続けた。
「何が嫌なのか言わない。」
「……。」
「何をしてほしいのかも言わない。」 「……。」
「それなのに、私が勝手に察して、謝って、機嫌を取らないといけない。」
妻の声は静かだった。
「もうできない。」
男は初めて、自分の「別に」が通じなくなったことに気づいた。
「俺は怒ってない。」
「じゃあ、それでいいじゃない。」
「……。」
妻は立ち上がった。
「あなたの機嫌は、あなたの問題だよ。」
その言葉が、男の胸に刺さった。
翌朝。 男は目を覚ました。
妻はもう起きていた。
「おはよう。」 妻は普通に言った。 男も、 「おはよう。」 と返した。
それだけだった。
妻は朝食を作っている。 男は新聞を読む。
以前なら、妻は男の顔を見ていた。
今日の機嫌はどうだろう。
何か怒っていないだろうか。
でも今は違った。
妻は自分のペースで生活していた。
男は、それが妙に寂しかった。
自分の機嫌が、妻を動かさなくなったからだ。 それから少しずつ、妻は自分の時間を取り戻した。
友人と出かける。
趣味を始める。
一人で買い物に行く。
夫が不機嫌でも、予定を変えない。
夫が黙っていても、謝らない。
夫がため息をついても、顔色を見ない。
男は焦り始めた。
「最近、冷たくない?」
ある夜、そう聞いた。
妻は首を傾げる。
「そうかな。」
「昔はもっと俺のこと気にしてただろ。」
妻は少し考えた。
「昔はね。」
「じゃあ、何で今は違うんだよ。」
「疲れたから。」
「何に?」
「あなたの機嫌を取ることに。」
男は何も言えなかった。
そして数か月後。
妻から離婚を切り出された。
「別れたい。」
男は慌てた。
「何で?」
「あなたが嫌いだから、というより……。」
妻は静かに言った。
「あなたといると、自分が自分じゃなくなるから。」
男は必死に引き止めた。 「もう機嫌悪くならないし、怒らないし、ちゃんと話す。」
妻は黙って聞いていた。
そして首を横に振った。
「もう遅いよ。」
「これから変わる。」
「うん。」 妻は少し笑った。
「変われるといいね。」
その笑顔には、もう男への期待がなかった。 離婚後、男は一人暮らしになった。
最初は自由だった。
誰の機嫌も気にしなくていい。
誰にも合わせなくていい。
好きなときに寝て、好きなときに食べる。
けれど、夜になると部屋が静かだった。
誰も「おかえり」と言わない。
誰も「今日はどうだった?」と聞かない。
テレビをつけても、笑い声は自分一人。
男はスマートフォンを眺めた。
妻の名前が連絡先に残っている。
何度もメッセージを書いては消す。
「元気か?久しぶりに会えないか?」
結局、送れなかった。
ある夜、男はふと思った。
妻が自分の機嫌を取っていたのは、愛していたからではなかったのかもしれない。
自分が怖かったから。
怒らせたくなかったから。
そして、自分がそれを愛情だと思い込んでいただけだった。
男は一人で食卓についた。
自分で作った夕飯。
味は悪くない。
けれど、誰も「美味しい」と言わない。
男は箸を置いた。
静かな部屋に、自分のため息だけが響いた。 「……あの頃は、よかったな。」
誰も答えない。 男は初めて知った。
人は、機嫌を取らせることで愛されているわけではない。
相手が自分の顔色を見なくなったとき、それは嫌われた証拠ではない。
自分から解放されたということなのだ。
そして男は、誰にも機嫌を取ってもらえない部屋で、ようやく気づいた。 自分が欲しかったのは愛情だった。
けれど、自分が相手に求めていたのは愛情ではなく、服従だった。
その違いに気づいたときには、もう機嫌を取ってくれる人はどこにもいなかった。




