天罰という選択
第二話 どうぞ、差し上げます
「離婚してくれ。」
元夫からそう言われたとき、私は泣くと思われていたのだろう。
夫婦として何年も暮らしてきた。
息子もいる。
だから、突然「離婚」と言われれば、取り乱して縋りつくと思っていたのかもしれない。
けれど、私は泣かなかった。
「理由は?」
そう聞くと、元夫は目を逸らした。
「……好きな人ができた。」
その言葉だけなら、まだよかった。
いや、よくはない。
けれど、私にはもう分かっていた。
この人は、一度では終わらない。
実際、これが初めてではなかった。
繰り返す不倫。
そのたびに謝り、もう二度としないと言い、私は息子のためにと夫婦を続けてきた。
けれど今回は違った。
元夫は、私が想像していたよりもずっと残酷な話を始めた。
「相手に子どもができた。」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……子ども?」
「もうすぐ生まれる。」
頭の中が真っ白になった。
不倫。
妊娠。
しかも、出産間近。
そこまで聞いても、私は泣かなかった。
ただ、目の前にいる男を見つめていた。
私と息子との家庭を捨ててまで、この人が選んだものは、これなのか。
元夫は続けた。
「相手は夜の仕事をしてるから、一人で子どもを育てるのは難しい。」
その言葉を聞いた瞬間、私は妙に冷静になった。
だから何なのだろう。
なぜ、それを私に説明する必要があるのだろう。
まるで、私なら理解してくれると思っているようだった。
「俺には責任がある。」
その言葉に、思わず笑いそうになった。
責任。
何度も不倫を繰り返しておいて。
家庭を裏切っておいて。
それでも最後には「責任」という綺麗な言葉を使う。
私は息を吐いた。
そして、元夫の目を見た。
「どうぞ。」
「……え?」
「どうぞ、差し上げますよ。」
元夫の顔から表情が消えた。
私は続けた。
「あなたが選んだんでしょう?」
「でも……。」
「だったら、行けばいいじゃない。」
泣いて止めると思っていたのだろう。
「離婚したくない」と縋ると思っていたのだろう。
けれど、私はもうそんなことをする気にはなれなかった。
夫が欲しいと言うなら、どうぞ。
私から奪っていくというなら、どうぞ。
ただし、一度手放したものは、簡単には戻ってこない。
それだけは伝えたかった。
離婚後、元夫は不倫相手と暮らし始めた。
そして、子どもが生まれた。
私は息子を育てながら、自分の生活を守った。
仕事を続けた。
息子の学校行事にも行った。
病気になれば病院へ連れて行った。
毎日の食事を作り、洗濯をし、眠る前に「おやすみ」と声をかける。
忙しかった。
大変だった。
それでも、穏やかだった。
一方、元夫の家庭には、想像していなかった現実が待っていた。
生まれてきた子どもには、知的障害と自閉症があることが分かった。
もちろん、それは子どもの責任ではない。
子どもに罪はない。
ただ、元夫は二度目の育児に直面した。
そして、妻は仕事を続けることが難しくなった。
思い描いていた生活とは、少しずつ違っていった。
育児。
療育。
病院。
生活のための手続き。
毎日の繰り返し。
元夫は、それまで子育てをほとんどしてこなかった。
息子の成長を支えることも、家庭を維持することも、妻に任せていた。
そんな男が、今度は自分自身が育児の中心になった。
現実は甘くなかった。
やがて元夫は心を病んだ。
鬱病になったという。
私は、その話をすぐには信じられなかった。
あれから十年。
お盆に元義母から聞いた話だった。
久しぶりに会った元義母は、少し老けていた。
昔のように元夫の話をすることもなくなっていた。
そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あなたと離婚したあと、大変だったの。」
私は黙って聞いていた。
「子どもに障害があってね。あの子も、思っていたよりずっと大変だったみたい。」
私は何も答えなかった。
「奥さんも働けなくなって……。」
元義母はため息をついた。
「息子も鬱になってしまってね。」
そこで初めて、私は元夫が今どんな人生を送っているのかを知った。
十年。
長い年月だった。
私はその十年で、息子と一緒に生きてきた。
大変なこともあった。
泣いた日もあった。
それでも、一歩ずつ前へ進んだ。
元夫はどうだったのだろう。
「こんなはずじゃなかったって、あの子が言ってた。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが刺さった。
こんなはずじゃなかった。
私はその言葉を心の中で繰り返した。
では、どんなはずだったのだろう。
不倫相手と結婚すれば幸せになれると思ったのだろうか。
子どもが生まれれば、すべてが上手くいくと思ったのだろうか。
私と息子を捨てれば、新しい人生が待っていると思ったのだろうか。
人生は、欲しいものだけを選べるものではない。
子どもにも人生がある。
障害があることは、不幸そのものではない。
その子が生まれてきたことに罪はない。
けれど、元夫が背負うことになった現実から逃げることはできない。
私は、元夫を憎み続けていたわけではなかった。
むしろ、十年も経つと、不思議なくらい何も感じなかった。
ただ、あの頃の自分を思い出した。
「どうぞ、差し上げますよ。」
あのときの私は、強かったのだろうか。
違う。
ただ、もう愛されるために自分を捨てることをやめただけだった。
元夫は、あのとき私が泣かなかったことを、どう思ったのだろう。
きっと誤算だったに違いない。
妻は自分に縋りつく。
息子のことを考えれば、離婚なんてできない。
そう思っていたのかもしれない。
けれど、私は違った。
裏切りを繰り返す人と一緒にいることが、息子のためになるとは思わなかった。
だから手放した。
そして十年後。
私は元夫が「こんなはずじゃなかった」と言っていることを知った。
私は、心の中で静かに答えた。
「私も、こんなはずじゃなかったよ。」
私だって、幸せな家庭を夢見ていた。
子どもが大きくなったら一緒に旅行へ行き、年を取ったら夫婦で笑い合う。
そんな未来を思い描いていた。
けれど、その未来を壊したのは私ではない。
元夫自身だった。
私は今、自分の人生を生きている。
息子も成長した。
あの日、夫を「差し上げた」ことで失ったものも確かにあった。
けれど、それ以上に手に入れたものもある。
自分の時間。
自分の選択。
そして、誰かの機嫌を恐れずに眠れる夜。
元夫の人生がどうなるのか、私には分からない。
幸せになれるかもしれない。
また何かを失うかもしれない。
それは、もう私の人生ではない。
ただ一つだけ分かることがある。
人は、自分が捨てたものの価値を、失ってから初めて知ることがある。
そして、そのときにはもう、取り戻せないこともある。
十年前、元夫は私に「離婚してくれ」と言った。
私は答えた。
「どうぞ。」
そして十年後。
「こんなはずじゃなかった」と嘆く男の話を聞きながら、私は静かに思った。
こんなはずじゃなかった人生を、どう生きるか。
それを決めるのは、誰かではない。
自分自身なのだ。




