離婚
「離婚するぞ。」
夫は味噌汁を一口飲むなり、箸を置いてそう言った。
結婚して六年。
その言葉を聞くのは、もう何度目だろう。
最初は世界が終わるような気持ちになった。
「ごめんなさい。」
そう言って泣きながら謝った。
嫌われたくなかった。
捨てられたくなかった。
結婚した以上、いい妻でいなければならないと思っていたからだ。
夫はそんな私を見ると満足そうに笑い、「分かればいい」と言って機嫌を直した。
その日から、「離婚するぞ」は夫にとって便利な言葉になった。
夕飯の味が少し違う。
「離婚するぞ。」
シャツのアイロンが甘い。
「離婚するぞ。」
仕事で疲れて返事が遅れた。
「離婚するぞ。」
テレビを見て笑っていただけ。
「俺の話を聞いてないのか。離婚するぞ。」
夫は本気ではなかった。
自分でも分かっていた。
この言葉を言えば、妻は必ず謝る。
泣きながら「ごめんなさい」と言う。
そうすれば、自分が優位に立てる。
それだけだった。
だから、何度でも口にした。
言葉の重みなど考えたこともなかった。
一方、妻は少しずつ変わっていった。
最初は泣いた。
次は黙るようになった。
やがて謝ることも減った。
怒っているわけではない。
諦めていたのだ。
どれだけ努力しても、夫は文句を探す。
朝五時に起きて弁当を作り、洗濯をして、掃除をして、仕事へ向かう。
帰宅すれば急いで夕飯を作る。
それでも「気が利かない」と言われる。
頑張れば認めてもらえると思っていた。
でも違った。
夫は認める気など最初からなかった。
ある日、職場で同僚に言われた。
「最近、笑わなくなったね。」
その一言に、胸が締めつけられた。
そういえば、いつから笑っていないのだろう。
家では夫の機嫌ばかり気にしていた。
玄関の鍵が回る音が怖い。
足音が近づくだけで息が詰まる。
食器を置く音一つにも神経を尖らせる。
私は、家ではなく檻の中で暮らしていた。
三か月前。
夫は夕飯を見てため息をついた。
「また魚か。」
「昨日、お肉だったから。」
「言い訳するな。」
妻は黙った。
夫は続ける。
「ほんと気が利かない。」
醤油は夫の目の前にあった。
それでも夫は動かない。
「醤油。」
妻は手渡した。
夫は受け取りながら笑う。
「そういうところなんだよ。」
何が「そういうところ」なのか、妻には分からなかった。
「ごめん。」
その一言で終わると思っていた。
しかし夫は椅子にもたれながら言った。
「こんな嫁いらない。離婚するぞ。」
その夜、妻は一睡もできなかった。
何が悪かったのだろう。
どうすればよかったのだろう。
何度考えても答えは出ない。
そして朝が来た。
鏡を見ると、疲れ切った自分が映っていた。
目の下には隈ができ、笑顔は消えていた。
私はいつからこんな顔になったのだろう。
その日、昼休みに公園のベンチへ座った。
子どもを連れた夫婦が楽しそうに笑っている。
小さな女の子が転ぶと、お父さんが抱き上げ、お母さんが頭を撫でる。
自然な笑顔だった。
私は目を逸らした。
羨ましかった。
夫婦とは、本来こういうものではなかったのか。
帰宅すると、夫はソファで寝転びながらスマホを見ていた。
「飯。」
その一言だけ。
ありがとうも、おかえりもない。
妻は黙って夕飯を並べた。
その姿を見ながら夫は思う。
どうせ今日も何も言い返さない。
こいつは俺から離れられない。
そう信じ切っていた。
数日後。
妻は市役所へ向かった。
離婚相談。
自分でも驚くほど足取りは軽かった。
相談員は静かに話を聞き、「あなたは十分頑張ってきましたね」と言った。
その言葉を聞いた瞬間、涙が止まらなかった。
責められると思っていた。
「妻なんだから我慢しなさい」と言われると思っていた。
でも違った。
初めて、自分の苦しさを認めてもらえた。
その日から妻は少しずつ準備を始める。
通帳を確認する。
必要な書類を集める。
弁護士に相談する。
誰にも気づかれないよう、静かに。
夫は何も知らない。
今日も「離婚するぞ」と言えば終わると思っている。
そして迎えた日曜日。
食卓には焼き魚、味噌汁、小鉢が並んでいた。
夫は味噌汁を飲み、顔をしかめる。
「薄い。」
妻は答えない。
「聞いてるのか。」
沈黙。
夫は苛立ち、机を軽く叩いた。
「その態度、何だ。」
それでも妻は何も言わない。
夫はいつもの切り札を口にした。
「離婚するぞ。」
妻は静かに顔を上げた。
もう怯えていない。
涙も浮かんでいない。
「そうね。」
夫は鼻で笑う。
「やっと分かったか。」
「離婚しましょう。」
時間が止まった。
夫は数秒、言葉を失う。
「……は?」
「私もそうしたい。」
「何言ってるんだ。」
「本気だよ。」
妻は封筒を机に置いた。
離婚届。
弁護士の名刺。
財産分与のメモ。
夫は青ざめた。
「ちょっと待て。」
「待たない。」
「冗談だろ。」
「冗談で離婚届は用意しない。」
夫は初めて焦った。
「悪かった。」
その一言が、こんなにも軽く聞こえた。
何年も妻の謝罪を受け取ってきた男は、自分の謝罪がどれほど空虚か知らなかった。
「もう言わない。」
「何度も聞いた。」
「本当に変わる。」
「その言葉も何度も聞いた。」
妻は立ち上がる。
夫は腕を掴もうとする。
しかし、その手は空を切った。
妻は一歩後ろへ下がる。
「触らないで。」
その一言だけで、夫は動けなくなった。
玄関のドアが開く。
閉まる音が響く。
部屋には静寂だけが残った。
夫は一人、椅子に座ったまま動けない。
湯気の消えた味噌汁。
向かい側の空席。
壁に掛かった結婚写真。
そこには笑顔の二人が写っていた。
夫は初めて思い出した。
あの頃、自分は「幸せにする」と誓ったことを。
いつから「支配する」に変わってしまったのだろう。
スマートフォンを手に取り、妻へ電話をかける。
呼び出し音だけが続く。
切れる。
もう一度かける。
つながらない。
メッセージを送る。
既読はつかない。
静かな部屋で、夫は一人うつむいた。
何度も軽く口にした「離婚するぞ」。
それは妻を縛る言葉ではなかった。
自分の未来を切り捨てる言葉だった。
男はようやく知る。
言葉には責任がある。
しかし、そのことに気づいた時には、もう妻は戻らなかった。




