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謝らせる男


「ごめんなさい。」

妻がそう言うと、男は満足そうに頷い

。 「分かればいい。」

それが、二人の夫婦生活だった。

男は、自分が謝ることを嫌っていた。

何か問題が起きれば、まず相手の悪いところを探す。

妻の言い方が悪かった。

妻の態度が悪かった。

妻の気遣いが足りなかった。

妻が自分を怒らせた。 だから、妻が謝る。

それが当然だと思っていた。

結婚したばかりの頃、妻は夫のことを優しい人だと思っていた。

困ったときには助けてくれた。

重い荷物を持ってくれた。

記念日には食事にも連れて行ってくれた。

だから、少しくらい頑固でも仕方ないと思っていた。

けれど、結婚生活が長くなるにつれて、男の本性が少しずつ見えてきた。

「今日、帰りに牛乳買ってきてくれる?」

妻がそう頼んだ。

「分かった。」 夫は返事をした。

しかし、帰宅した夫の手には牛乳がなかった。 「牛乳、忘れた?」

妻が聞くと、夫は眉をひそめた。

「何だよ。」

「買ってきてってお願いしたよね?」

「そんなの聞いてない。」

「朝、言ったよ。」

「言ったって証拠あるのかよ。」

妻は黙った。 夫は続ける。

「人に頼んでおいて、その言い方は何なんだよ。」

「ごめん。」

結局、妻が謝った。 夫は満足した。

「最初からそう言えばいいんだよ。」

それが始まりだった。

何かあるたびに、妻が謝る。

夫が約束を忘れても、夫が帰宅時間を連絡しなくても、夫が妻の話を遮っても、 最後には必ず妻が謝った。

男にとって、謝罪は勝ち負けだった。

相手が「ごめんなさい」と言えば、自分の勝ち。 自分が「ごめん」と言えば、自分の負け。 だから、絶対に謝らなかった。

ある夜、妻が仕事から帰ってきた。

疲れていた。

それでも夕飯を作った。

夫はソファでスマートフォンを見ていた。 「ご飯できたよ。」

「遅い。」

妻は時計を見る。 いつもと同じ時間だった。 「今日は仕事が少し長引いて……。」

「言い訳するな。」 妻は黙った。

夫は食卓につく。

料理を一口食べる。

「味が濃い。」

「ごめん。」

「この前も言っただろ。」

「ごめんね。」

「何回言わせるんだよ。」

妻は俯いた。

本当は、夫のために作った料理だった。

仕事で疲れていても、帰宅してから作った。

それでも、夫から出てくるのは文句だけだった。

食事が終わると、夫はテレビを見始めた。

妻は食器を片付ける。

その背中を見ながら、男は何も感じていなかった。 妻が謝る。

それで家庭は元に戻る。

そう思っていた。

ある日、夫婦で出かける予定があった。

妻は朝から準備をしていた。

ところが夫は出発時間になっても起きてこない。

「そろそろ出るよ。」

妻が声をかける。

「分かってる。」

一時間経っても動かない。

「予約してるから、そろそろ行かないと。」 「うるさいな。」

夫は不機嫌そうに起き上がった。

結局、二人が家を出たのは予定より一時間遅かった。 店に着くと、予約時間を過ぎていた。 店員が困った顔をする。

妻は頭を下げた。

「申し訳ありません。」

夫は隣で黙っていた。 帰り道、夫が言った。 「お前、もっとちゃんと準備しろよ。」

妻は驚いた。

「私、朝から準備してたよ。」

「でも遅れたじゃん。」

「あなたが起きなかったから……。」

夫の顔が険しくなる。 「

俺のせいって言いたいのか?」

妻は黙った。

また始まる。

「ごめん。」

夫は鼻で笑った。

「最初から謝ればいいんだよ。」

その夜、妻は一人で泣いた。 自分は何に謝っているのだろう。

夫が起きなかったことまで、自分が謝らなければいけないのだろうか。

その疑問が、初めて心の中に残った。

それから妻は、少しずつ変わった。

「ごめん」をすぐに言わなくなった。

夫が怒っても、理由を考えるようになった。

そして、ある夜。

夫がまた言った。

「謝れよ。」 妻は夫を見た。

「何について?」

男は固まった。

「何って……。」

「私、何を悪いことしたの?」

「その態度だよ。」

「態度が悪いから謝るの?」

「そうだよ。」

妻は静かに首を横に振った。

「もう、意味のない謝罪はしたくない。」

男の顔が赤くなった。

「お前、俺に逆らうのか?」

「逆らってないよ。」

「じゃあ謝れ。」

「嫌。」

その一言で、部屋の空気が変わった。

男は初めて、妻が自分の言うことを聞かなかったことに驚いた。

「何だよ、その態度。」

「今まで、あなたが怒るのが怖くて謝っていただけ。」

「……。」

「悪いと思って謝っていたわけじゃない。」

男は何も言えなかった。

妻は続けた。

「あなたが謝らせることを勝ちだと思っているなら、私はもう、その勝負から降りる。」

男は笑った。

「何を偉そうに。」

妻は何も言わなかった。

それから夫婦の間で、何かが変わった。

男が怒っても、妻は謝らない。

男が責めても、妻は理由を説明する。

男が「俺は悪くない」と言っても、妻は黙っている。

以前なら、妻が泣けば男は満足した。

今は、妻は泣かない。

ただ、静かに男を見ている。

その目には、恐怖ではなく諦めがあった。

ある夜、男が帰宅すると、妻の姿がなかった。 テーブルの上には封筒が置かれていた。

男は嫌な予感がした。

中には離婚届と手紙が入っていた。

手紙には、短くこう書かれていた。

「私は、あなたに謝るために結婚したわけではありません。」

男は紙を握りしめた。

「待てよ。」 電話をかける。 出ない。 何度かけても、出ない。 メッセージを送る。

「話し合おう。」

既読にならない。 男は苛立った。

「何で俺が悪いんだよ。」

誰も答えない。

「俺はそんなに悪くないだろ。」

それでも、誰も答えない。

男は一人で部屋を歩き回った。

今までなら、妻がいた。

怒れば謝ってくれた。

責めれば黙ってくれた。

どんなに理不尽なことを言っても、最後には「ごめんなさい」と言ってくれた。

その言葉が、当たり前にあると思っていた。

けれど、もうない。

数日後、男は妻から離婚の意思が変わらないことを告げられた。

「最後に一つだけ聞いていい?」

男が尋ねる。 妻は頷いた。

「俺のこと、嫌いだった?」

妻は少し考えた。

「嫌いになったんじゃないよ。」

「じゃあ、何で?」

「謝ることばかり考えている自分が嫌になったの。」

男は黙った。 妻は続けた。

「あなたと一緒にいると、何か起きるたびに『私が悪いのかな』って考えるようになった。」

「……。」

「それが一番つらかった。」

男は何も言えなかった。 妻は立ち上がった。 「あなたが悪いことをしたら、あなた自身が謝ればいい。」

「……。」

「私の人生まで、あなたの代わりに謝る必要はないから。」

妻が去ったあと、男は一人になった。

テーブルの上に、昔の写真があった。

結婚式の日。 二人で笑っている。

男は写真を見ながら、あの日のことを思い出した。

「幸せにする。」 確かに、そう言った。

けれど、いつの間にか「俺を怒らせるな」に変わっていた。

「俺に逆らうな。」 「俺を否定するな。」 「俺に謝れ。」 そうやって、妻から少しずつ自信を奪っていった。

男はスマートフォンを手に取った。 妻にメッセージを送る。

「ごめん。」

今まで一度も言えなかった言葉だった。

送信する。 しばらくして、既読がついた。 返信はなかった。

男は画面を見つめたまま、長い間動かなかった。

初めて知った。

謝るということは、相手を負かすことではない。

自分の間違いを認めることだった。

そして、自分がそれを拒み続けた結果、最も大切だった人を失った。

男は一人きりの部屋で、もう一度呟いた。

「ごめん。」 今度は誰かに勝つためでも、許してもらうためでもなかった。

ただ、本当にそう思った。 けれど、その言葉を受け取ってくれる妻は、もう隣にはいなかった。

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