最悪な男
彼の存在は知っていた。
……といっても、『そういう人』が同じマンションに住んでいる、という程度だけど。
有名なプロのバレー選手。高校の時から日本代表に呼ばれるくらい実力を認められていて、高校を卒業してからはプロチームの第一線で活躍している……らしい。
地元出身のその彼が、大学に通うために一人暮らしをしている私と同じマンションに住んでいるというのだ。
ごくたまに、出待ちっぽいことをしているファンの女の子を見ることがある。
私はオートロックのエントランスを抜けて、彼女たちの横を通り過ぎただけなので、彼女たちが彼に会えたかどうかは知らない。
そもそも私は運動音痴でスポーツ全般に興味がないので、そんな有名人が近くに住んでいると聞いても心底どうでも良かった。だから会いたいと思ったこともない。
そんな彼と偶然出会ってしまったのは、私の失敗からだった。
その日、私は紙袋に重たい荷物を入れていた。
家の洗剤や柔軟剤の在庫がまとめて一気になくなったので、それを薬局でまとめ買いしたんだけど、あいにくその日私はエコバッグを持っていなかった。
薬局で袋を買っても良かったんだけど、たいして裕福なわけでもない一人暮らしの私はそれをケチった。
で、たまたま持っていた紙袋に無理矢理重たい洗剤を全部詰め込んだ。
大丈夫かな、でもすぐに家に着くし……と思って急いで紙袋を持って歩いていた私は、マンションのエントランスで派手にそれらをぶちまけてしまった。
もちろんそれは、紙袋が洗剤の重さに耐えきれずに破れてしまったからだ。
やってしまった……!
盛大に床に散らばった、いくつもの洗剤や柔軟剤の詰め替え。
片手に別のバッグも持っているし、袋が破けてしまったら、もう洗剤を持つことができない。
どうしよう……と困っていたら、ちょうどそこに同じマンションの住人が通りかかった。
「大丈夫っすか?」
重量感のある、しっかりした声。
私が振り返ると、そこには背の高い、がっしりした体つきの男性が立っていた。
年齢は私より上っぽいけれど、おじさんというほどの年齢じゃない、若い男性。ぱっと見れば分かるけれど、明らかに整った顔をしていて、めちゃくちゃもてそうだ。
ものすごく背が高い。そしてこの体格! 筋肉質なんだけど、ボディビルダーみたいにムキムキに太いわけじゃない。でも絶対に何かスポーツをやっているんだろうな、というのが分かるような体形をしていた。
彼を見て少しだけひるむ。
それは彼が男性だったからだ。
声をかけてくれたのが女性だったら良かったのに……と思いながら、私はあいまいな表情で彼から床に落ちた荷物に視線を移した。
「だいぶ派手に散らかしとるな」
そう言って男性は荷物を拾ってくれた。
「あ、すみません」
ありがたいんだけど、拾ってもらっても受け取れない。何せ紙袋は破けてしまっているんだから。
受け取れずに困っていると、男性は状況が分かったようで、ああ、とうなずいた。
「部屋まで持ってくから。何階?」
私の先に立って歩き、エントランス奥にあるエレベーターのボタンを押す。
「いえ、えーと、悪いので……」
「って言っても、持たれへんのやろ?」
「それは……はい、そうです」
あきらめて私は自分が住んでいる階を彼に告げた。
エレベーターに乗り込み、彼が私の部屋がある階のボタンを押す。
エレベーターが動いている間、私たちの間には沈黙が流れた。
あー、嫌だなあ、男の人と二人でエレベーター……しかも私の部屋も知られてしまう。
それを警戒するくらいには私は危機感を持っていた。
だって一応、女性の一人暮らしだしね。
この人が変な人じゃないって保証もないわけだし。
私が小さく息をつくと、男性がおもしろくなさそうに口を開いた。
「なんなんあんた、俺を不審者扱いか? 俺、あんたのこと助けてやっとるねんけど」
「え」
びくっとして彼を見ると、口調の割には彼の表情はそんなに不服そうじゃなくて、肩をすくめて砕けた表情をしていた。
……もしかして、この重たい空気を軽くしようとしてる、のかな……
「あんた、俺のこと知らん?」
「え?」
「その反応は、知らんってことか。んー、もうちょっとニュースとか見とる方がええで」
……どういうことだろう? この人、ニュースに出たりするような人なの?
「ニュース……あなた、犯罪者?」
「なんでやねん! せめてそこは芸能人か、とかそっち方向に疑えや!」
「そんなこと言われても」
そもそもテレビをほとんど見ない。だから芸能人もよく知らない。この人がいくらよくテレビに出るような人だとしても、まず知りようがない。
エレベーターが止まり、扉が開いた。
私たちは一度会話を止めて廊下に出る。
私の部屋の前まで行ったところで、私はバッグから鍵を取り出して開けた。
もしこの人が私の部屋に上がり込もうとしたらどうしよう、と一瞬考えたけれど、彼は両手に抱えた私の荷物を玄関の入ったところにどさ、と置いたらすぐにドアの外に出た。
あ、大丈夫そう。良かった。
「あの、ありがとうございます」
「おう。ねーちゃん、覚えとけや。俺は今をときめく、そして未来永劫輝き続けるバレー選手の天嶺トモや。ちゃんとニュース見ろや!」
そのまま彼はさっさとエレベーターの方へ歩いていった。
バレー選手……
あ、この人か!
有名人がこのマンションに住んでるって言ってたの。この人のことだったのか。
うわ、私、そんな人のこと不審者扱いしてしまったのか……
それは悪いことしたなあ……
でもひとまず、話に聞いていただけの有名人が、本当に同じマンションに住んでいたんだってことは分かった。
そして私の洗剤、運んでもらえて良かった。
大学が終わった後、カフェに行ったりウインドウショッピングをしていたら少し帰りが遅くなってしまった。
駅からマンションまでの道を急ぎ気味に歩いていく。
マンション、あんまり駅から遠くないのはいいんだけど、帰り道に街灯が少ないのが嫌なんだよね。
その分駅から近いのにあまり騒がしくない、閑静な住宅街であるとも言えるんだけど。
歩いている時、靴の中に小石が入ったみたいで、痛い、と思って立ち止まる。
片足立ちになって靴を脱ぎ、中の小石を捨てる。
やれやれ、と思って靴を履き歩き出す。
……その時、あれ? と思った。
私が歩いている時、後ろから誰かが歩いている靴音が聞こえていた。でも、私が立ち止まるとその音も止まった。
……そして、私が再び歩き出した今。また、後ろから人が歩いている音が聞こえる。
え、いやいや、まさか。
気のせいだよね?
緊張しながら、私はまた立ち止まって、今度はバッグの中にある携帯を取り出す素振りをした。
すると、私が止まった直後、また後ろの音も止まった。
ぞわっと恐怖が立ち上ってくる。
……まさか。
まさかだよね?
私、誰かに後をつけられてる?
怖くて後ろを振り返られない。
早く帰らなくちゃ。
……いや待って、今私が普通にマンションに入っていったら、それは私が住んでいる場所を相手に教えることにならない?
だからってマンションを通り過ぎてどこに行くの? 行くところなんてない。
引き返して駅前の交番に行きたい。
でも引き返したら、その相手の前を通っていかないといけないんじゃないの?
何これ。私、どうしたらいいの!?
そろそろと歩き出すと、やっぱり再び足音も復活した。
音の大きさはさっきと変わらない。私と一定の距離を保ったまま、ずっと私の後ろを歩いている。
どうしよう。嫌だ。怖い。
口の中がカラカラに乾く。息が苦しい。
ありえないくらい胸がどくどくと鳴っているのを感じていたら、不意に私の正面から人がやってきた。
その人はランニング中の誰かで……上下白っぽいジャージを着て、姿が見えたと思ったらすぐに顔が見えるほど近付いてきた。けっこうな速さで走ってきている。
数少ない街灯の下を走り抜けるその人の姿を見て、あ、と思った。
あの人だ。天嶺トモ。
私はとっさに手を広げて、彼の通路を塞いだ。
「うわ」
彼が驚いて立ち止まる。
「なんやねん! びっくりするやんか! ……あ? あんた、前会った……」
彼がそこまで言った時、私はえい! と思い切って彼の腕にしがみついた。
この人は私の部屋に上がり込もうとしなかった。だからこの人が助けてくれることに賭けるしかない。
「うわ、なんや?」
「ごめんなさい、お願い、このまま歩いてほしいねん。変な人が後ろついてきとって……今私、一人でどこにも行かれへん」
私が彼だけに聞こえるように小さい声で、早口でそう言うと、彼は一瞬口をつぐんだ。
すぐに彼はくるっと体の向きを変えて、私の進行方向と同じ方向に歩き出した。
そして彼の腕をつかんでいる私の手を離して、代わりに私の肩をがしっと抱いた。
「おう、お前遅いから迎えに来てん。さっさと俺んち行くぞ」
わざとらしく大きい声でそんな風に言う。
あ、この人、演技してくれてる。
私が自分の家に帰っているわけじゃなくて、これからこの人の家に行くんだ、って周りの人に聞こえるようにしてる。
そのまま彼はしっかりと私の肩をつかんで、マンションの方へ歩き出した。
彼の力は強くて、肩は痛かったけれど、それは彼の強さの証明のように思えて、今だけは心強かった。
マンションのエントランスに入ると、ようやくほんの少し体の力が抜けた。
ここは明るい。
きっとあの後ろを歩いていた人物も、ここまでは入ってこないだろう。
まだ足ががくがくしていた。怖くて震えていたのかなあ? 何だか歩き方もぎこちない気がする。
彼は私の肩をつかんだままエレベーターのボタンを押す。エレベーターは一階に止まっていたようで、すぐに扉が開いた。
もう肩を抱いていなくていいんだけど……
私が少し身じろぎすると、彼は私を見下ろしながらエレベーターの階数表示のボタンを押した。
「……で? 俺の部屋に来るんか?」
「……え?」
彼の言っている意味が分からなくて、私は彼を見上げた。
「今どきはこういう誘い方するんやなー。最初はほんまになんかやばいんかと思ったやんか。まあ俺も乗せられたし、このまま俺の部屋に行ってもええけど。それともあんたの部屋の方がええか?」
私はしばらくぽかん、としていたけれど、やがて彼の言っている意味が分かった。
一瞬で全身が怒りに包まれる。私はめちゃくちゃ乱暴に肩に回された彼の手を振り払った。
「ふざけんといて。誰があんたみたいな男とどうにかなろうと思うんよ。目の前に金塊積まれたって断るわ」
「はあ? なんやねんその態度」
「あんたの態度の方をどうにかしたらどうなん? こんな根性腐りきった男と同じ空間で息してるなんて吐き気がする。あんたの方が闇夜で変質者に襲われてくたばればいいのに」
そう言った途端、また恐怖を思い出して、体がぶるっと震えた。
ああもう、嫌だ。何もかも嫌だ。
恐ろしい足音から何とか逃げ出せたと思ったのに、私を助けてくれたと思った男も結局クソ野郎だったなんて。
怒りのあまり目の縁に涙がにじんだ私を見て、彼はちょっとだけひるんだ。
「なんやねん、冗談やんか。いや、マジでそんな感じで俺の気を引こうとする女やっておるねんて! 今回のあんたは……ちゃうかったみたいやけど」
「ふざけんといて! あんたのその狭い価値観に私が当てはまるわけないやろ!」
私は自分が降りる階のボタンを連打した。
エレベーターはすぐに止まって、私は扉が開くのも待ちきれない気持ちで外に飛び出した。
もう、最悪、最悪だ!
エレベーターを降りて一人になった私の目から、ようやく大粒の涙がぼろっと零れ落ちた。
私は自分の腕を両手で抱きしめながら、とぼとぼと自分の部屋へ向かった。




