タタミイワシ
第三幕:タタミイワシ
相模湾の烈しい冬の寒風が、漁師小屋の薄い板壁をガタガタと叩いていました。
西暦一六三五年の冬の夜。
水道もガスも電気もない暗闇のなか、平八郎の小屋をかろうじて照らしていたのは、土製のおくどさん(竈)のなかに赤々と残る、炭火のほのかな明かりだけでございました。
現代の二〇二六年に生きる人々が「物価高」を嘆く世相など遥かに凌駕する、文字通り「生きるか死ぬか」の冷徹な現実が、この静まり返った小屋の空気を重く支配しています。
「あんた……戻ったのかい」
おくどさんの横で、五人の子供たちを凍える両腕で抱きしめるようにして座り込んでいた女房のトミが、かすれた声で顔を上げました。
その目は、昼間の激しい怒号の面影などどこにもない、飢えと寒さに疲れ果てたおんなの切実な涙を孕んでいました。米びつは上から下まで、これっぽっちの粒も残っていない完全な空っぽ。今日、何かを食べさせなければ、明日には小さな命のどれかが消えてしまうかもしれないという極限の淵に、トミは一人の母親として張り詰めていたのでございます。
平八郎は何も言わず、肩から重い天秤棒を下ろすと、懐から「それ」を取り出しました。
極寒の浜辺で、和紙すきの技術をハッキングし、冷水のなかで網を揺らし、ゴザの上で天日干しにして完成させた、世界で初めての食べ物――【畳鰯】。
平八郎は黙っておくどさんの炭火の網の上に、その薄く美しい銀色の板をそっと乗せました。
パチパチ、パチパチ……。
炭火の熱が通るにつれて、凍てついた小屋のなかに、おどろくほど濃厚で、香ばしい磯の香りがふんわりと立ち上り始めました。それは、生のままでは数時間でドロドロに腐ってしまうはずだったシラスの命が、天日と寒風によって極限まで凝縮され、最高の「旨味」へと生まれ変わった瞬間の匂いでございました。
匂いに釣られるように、五人の子供たちが「父ちゃん、それは何だい?」と目を輝かせ、トミもまた、ゴザの上に敷き詰められた無数の「銀の眼玉」の板を、息を呑んで見つめていました。
当時の日本、特に厳しい戒律と規律を重んじる臨済宗の禅寺などでは、食事の時間は完全な「私語厳禁」の静寂が美徳とされていました。
しかし、この貧しい漁師小屋のなかでも、言葉を発することは許されないような、張り詰めた沈黙が流れていました。声を出す気力すら、飢えによって奪われていたからであります。
平八郎は、さっと軽く炙られ、パリッと反り返った温かいたたみいわしを、トミと子供たちの前へ黙って差し出しました。
トミは、かじかむ指先でその薄い魚の和紙をちぎり、まずは子供たちの口へと運び、そして自らの唇へと運びました。
「――っ!」
誰も、一言も喋りません。喋ることなどできませんでした。
しかし、言葉の代わりに、小屋にいる全員の表情が一瞬で劇的に変わりました。
パリパリと小気味よい音を立てて噛み締めるたびに、大豆の精進料理では絶対に味わえない、海の野生の塩気と、脳髄をダイレクトに灼くような圧倒的な旨味が口いっぱいに広がっていきます。
ただの二束三文の雑魚だったシラスが、平八郎の知恵によって、お腹をふんわりと満たし、冷えきっていた体に温泉に浸かったかのような活力を漲らせる、至高の栄養源(大人の肴)へとイノベーションを起こしていたのです。
さっきまで飢えと寒さで真っ青だったトミの顔が、おくどさんの火のように真っ赤に、そしてふにゃりと優しく緩んでいきました。
一言も喋らない私語厳禁の静寂のなか、トミの目から、ぽろぽろと大粒の嬉し涙がこぼれ落ち、たたみいわしの上にこぼれていきました。
それは、昼間のトゲトゲした、おっかない女房トミ、の棘の裏に隠されていた、
「あんた、よくやってくれたね。これで子供たちが生き延びられる」という、目に見えない本当の愛情の結実でございました。
平八郎は、その沈黙の涙を見つめながら、確信していました。
この自分が創り出した銀の眼玉の板は、やがて西暦一六三八年の『毛吹草』に名産として刻まれ、西暦一六四三年の日本最古級の料理書『料理物語』において「たたみいわし肴によし」と大絶賛され、四百年後の未来まで受け継がれる「本物の価値」になるのだと。
水道も、ガスも、電気もない不便な西暦一六三五年の冬の夜。
けれど、ただ家族の命を救うためだけに、平八郎が流した愛の汗と技術は、トミと五人の子供たちには、いい父ちゃんになったのでありました。
おしまい。




