第4章 敗者の疑念2
昼休み、中庭へ出ると、レオポルド様が噴水の前に立っていた。
朝の決闘で使った剣は外している。濃紺の制服から砂は払われていたが、革手袋の縫い目にはまだ白っぽい砂粒が残っていた。
周囲には、朝の決闘を見ていた生徒が十人ほど集まっている。レオポルド様がここで私達を待っていると聞き、ついてきたらしい。
お兄様は私の隣で立ち止まった。
「ハワード先輩。何かご用でしょうか」
「二人に言っておくことがある」
レオポルド様はまず、お兄様へ向けて頭を下げた。
「今朝の決闘は、俺の完敗だ。条件にも、立会いにも、勝敗にも異論はない」
彼の声が、中庭にはっきり響いた。
見物していた生徒の一人が身じろぎした。レオポルド様ほどの人が、大勢の前でもう一度敗北を認めるとは思っていなかったのだろう。
お兄様が、レオポルド様へ答える。
「すでに決着したことです」
「いや。勝負の前に、俺が口にしたことは別だ」
レオポルド様はこちらを向いた。
鋼色の目は、決闘前と同じように真っ直ぐだった。見下す色はもうない。それでも、親しさと呼べるものもなかった。
「マチルダ嬢。俺は殿下の言葉に間違いはないと言い、あなたの反論を聞く必要もないと決めつけた」
「はい」
「忠義を理由に、自分で考えることをやめていた。剣で負けたからではない。昨日の俺の振る舞いが、騎士を志す者として誤っていた。あの発言は撤回する」
胸の奥に詰まっていたものが、少しだけ解消された。
国王陛下の裁定とは別に、レオポルド様は自分で判断した。王太子への忠義を捨てず、それを言い訳にもしていない。だからこそ、その言葉は信じられた。
「ありがとうございます、レオポルド様」
「礼を言われることではない。謝るべきはこちらだ」
レオポルド様はもう一度、今度は私へ頭を下げた。
「申し訳なかった」
「お顔を上げてください。私も、勝負一つで全てを信じていただけるとは思っておりません。これから、見ていただければ十分です」
「……そうか」
短い返事だったが、レオポルド様の肩からはわずかに力が抜けたようだった。
集まっていた生徒達の間で、小さな囁きが起きる。昨日までなら、その全てが自分への悪意に聞こえただろう。今は、何を話しているのか確かめようと思えた。
「ハワード先輩」
お兄様が呼びかけると、レオポルド様は頭を上げた。
「発言を改めてくださったこと、兄として感謝します」
「俺は事実を言っただけだ。それより、アシュフォード」
レオポルド様は、お兄様の両手へ目を落とした。
「一つ聞きたい。今朝、俺の初撃を外した時、何をした」
周囲の囁きが止んだ。
私も答えを待った。見ていた限り、お兄様は大きな魔法を使っていない。剣へ触れてさえいなかった。
「右足を少し移動させただけです」
「それだけか」
「はい。先輩は踏み込む直前、左の踵へ一度重心を移します。右足が半歩ずれれば、剣先も同じだけ外れる」
レオポルド様の眉が動いた。
「では、霧の中で俺の手首を取れたのは」
「剣を振り下ろした後、肘が伸び切る癖があります。霧は目隠しですが、先輩の剣が走る場所は分かっていました」
「最後の水の帯は。俺は足を地面へ固定していた」
「固定していたのは足元です。剣と手首は動く。鍔の向きを変えました」
説明はついた。特別な魔力量も、秘密の術式も要らない。相手の癖を読み、必要な場所へ必要なだけ力を使った。それだけだ。
説明だけなら、それで終わる。けれど、レオポルド様は拳を一度握りしめた。右手のストラップを、指先で締め直している。
「俺が、どこへ打つか。いつ足を固定するか。全て分かっていたと言うのか」
「全てではありません」
「では、何を読み違えた」
お兄様はすぐには答えず、レオポルド様の左肩へ目を向けた。
「二撃目は、思っていたより速かったです。受け損ねれば、こちらの肩に当たっていたでしょう」
「またそれか。慰めは要らないと言ったはずだ」
「だから、慰めではありません」
お兄様が、ごくかすかに微笑む。
「次に戦う時は、二撃目の前に左肩を下げない方がいい。あれで狙いが読めます」
レオポルド様は黙った。
勝ち方の秘密を尋ねたのに、返ってきたのは自分の隙への助言だった。怒るかと思ったが、鋼色の目はお兄様から離れない。
「……覚えておこう」
やがて、レオポルド様は右拳を胸へ当てた。騎士が敬意を示す時の礼だ。
お兄様も同じ礼を返す。
友人になったわけではない。レオポルド様は今もエドワード殿下へ忠義を向けている。それでも昨日までのように、殿下の言葉だけで私を見てはいなかった。
彼は私達の横を通り過ぎ、校舎へ戻っていった。数歩進んだところで、また右手のストラップへ触れる。今度は締めるのではなく、確かめるような動きだった。
私はその背中を見送ってから、お兄様を振り返った。
「全て、お教えになったのですか」
「今朝使った範囲はね」
「使わなかった範囲は?」
「聞かれなかったから、答えていない」
やはり、お兄様だった。嘘は一つも言わず、真実の底だけを見せない。
「では、私も聞きません」
「気にならない?」
「お兄様が必要だと思われた時に、必要なだけ見せてくださいますから」
私がそう答えると、お兄様の目元が柔らかくなった。
「マチルダには敵わないな」
お兄様が差し出した手に、自分の手を重ねる。中庭にいた生徒達がまたこちらを見たけれど、もう手を離そうとは思わなかった。
今日、戻ったものは多くない。それでも、私を知らずに断じた人が、一人だけ自分の言葉で誤りを認めた。
その人とは、次は勝負の外で話せるかもしれない。
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