第3章 最初の反撃1
翌朝、馬車の窓から見上げた学園門は、いつもより高く見えた。
濃紺の制服に着替え、淡青色のリボンを結び直して家を出た。朝食はクララに見張られながら、白パンも卵も温かいスープも残さず食べた。お兄様は私の皿が空になるまで何も言わず、それから馬車へ案内してくれた。
門前に着くと、窓越しでもこちらへ集まる視線が分かった。昨日まで挨拶してくれた一年生は友人の袖を引いて道の端へ寄り、上級生達は顔を背ける代わりに会話を止めてこちらを見る。昨夜の話は、もう学園中に知れ渡っているらしい。
「マチルダ」
先に降りたお兄様が、手を差し出してくれた。濃紺の立ち襟ジャケットに黒いタイ。飾りは銀の学園章だけだ。黒髪はいつも通り右へ流れ、青灰色の目も穏やかだった。
周囲から見れば、平均的な二年生の男爵令息にすぎない。けれど、お兄様が何をできるのかは、私だけが知っている。
「ありがとうございます、お兄様」
手を借りて馬車を降りる。怖くないと言えば嘘になる。だからといって、逃げるつもりもなかった。
校舎へ向かう石畳の先で、上級生の一団が足を止めていた。
私達を見ると、一年生の何人かが道を空けた。けれど、先頭の青年だけは動かなかった。
短く刈った髪は灰色がかった金色で、鋼色の目がまっすぐこちらを見ている。濃紺の制服には暗赤色のタイと、剣をかたどった銀のタイピン。広い肩と腰の剣帯まで見れば、相手が誰かはすぐに分かった。
レオポルド・ハワード様。ハワード侯爵家の嫡男で、父のヴィクター侯爵は元北部方面軍司令官。王家への忠義で知られる軍人の家に生まれ、本人も学園剣術大会を二年連続で制している。一年生の私でさえ名前を知っている、学園最強の剣士だった。
レオポルド様は、私ではなくお兄様を正面から見た。
「アーサー・アシュフォード」
「はい」
お兄様は礼を返した。よそ行きの、穏やかな声だった。
「昨日の広間で、君は王太子殿下の判断を公然と退けた」
違う、と言いかけて唇を閉じた。お兄様は殿下を侮りたかったのではない。私を守ろうとしてくれただけだ。
けれど、レオポルド様も本気だった。マーガレットの涙を利用しているわけではなく、王太子へ忠誠を誓う者として、殿下が人を陥れるはずなどないと信じている。
「殿下が妹を侮辱なさったことを、否定しただけです」
レオポルド様の眉が動いた。
「王太子殿下の言葉に、間違いがあるはずがない」
真実を知った上で言っているのではない。殿下が間違えるはずはない――それ自体を、心から信じているのだ。
その言葉に、お兄様の表情が変わった。
怒鳴りもしなければ、剣に手もかけない。それでも半歩後ろにいた私には分かった。お兄様は、もう退かない。
「では、ハワード先輩も、妹への侮辱は正しいとお考えですか」
「殿下は、王太子として必要な判断をなさった」
お兄様はハワード先輩から目を逸らさない。
「分かりました」
短い返事だった。
「あなたが殿下の言葉をそう受け取るなら、こちらは妹の名誉のために立ちます。妹への侮辱を正しいと言う相手を、許しておくことはできません」
レオポルド様が右手を肩の高さまで上げ、騎士の礼を取った。
「アーサー・アシュフォード。俺は君へ正式決闘を申し込む」
生徒達の間にざわめきが走った。
正式決闘。
正式決闘とは、武術や魔法の勝負によって争いに決着をつけるための学園の制度だ。相手を殺すことも、故意に怪我をさせることも禁じられているが、この人数の前で負ければ、その結果だけは残る。
レオポルド様は卑怯な人ではない。名乗り、条件を決め、正面から挑む、いかにも騎士候補らしい人だ。だからこそ、周囲も当然のように彼の勝利を期待した。
「ハワード先輩なら負けるはずがない」
「アシュフォード先輩は二年の平均だろう」
「男爵令息が、三年最強の剣士に?」
淡青色のリボンへ伸びかけた手を、途中で下ろした。
お兄様が一度だけ私を見る。受けてもいいかと聞かれた気がした。
細く息を吐き、小さく頷いた。
「お兄様」
「うん」
「どうか、怪我をなさいませんように」
お兄様は目元だけをわずかに緩めた。
「相手にもね」
冗談のような言い方でも、お兄様は本気だ。
お兄様はレオポルド様へ向き直った。
「お受けします。条件は、学園規則通り。殺傷禁止、故意の負傷禁止。使用するのは水魔法と武術。よろしいですか」
「俺は地属性と剣を使う。正面から行く」
「承知しました」
そこへ、実技棟の方から赤茶色の短髪の教官が歩いてきた。灰色の訓練着に革の防具。むき出しの左手には古い傷が走っている。トバイアス・グラント剣術教官だ。元騎士隊長で、相手が貴族でも容赦しないことで知られている。
「朝から何の騒ぎだ」
低い声に、生徒達が左右へ退いた。
レオポルド様はまっすぐ礼をした。
「グラント教官。レオポルド・ハワードは、アーサー・アシュフォードへ正式決闘を申し込みました」
「理由は」
「王太子殿下への侮辱を見過ごせません」
教官はお兄様を見た。
「アシュフォード。受けるのか」
「はい。殺傷禁止、故意の負傷禁止。水魔法と武術で応じます」
教官は木剣の柄で石畳を一度叩いた。
「いいだろう。訓練場へ移れ。観戦者は柵の外だ。止めろと言ったら止める。聞こえなかったと言い訳した者は、身分に関係なく叩き出す」
何人かが息を呑んだ。
安全規則に厳しい教官が立ち会うなら、レオポルド様もお兄様も余計な怪我をせずに済む。その点だけは、少し安心できた。
生徒達が、列になって訓練場へ向かい始めた。
お兄様の隣を歩いた。途中で何度も視線を向けられたが、もう下を向かなかった。
「緊張している?」
お兄様が私にだけ聞こえる声で言った。
「少し」
「俺もだよ」
思わず見上げた。
「お兄様が?」
「マチルダに格好悪いところは見せたくないからね」
真顔でそんなことを言われては、強張っていた肩から力が抜けてしまう。
「お兄様は、いつも格好よろしいです」
「それは勝たないといけないな」
2026年08月30日 08時00分 次話アップロード予定。
星で評価いただけると嬉しいです。




