第2章 屋敷の兄妹2
北の空が、昼のように白くなった夜。
王都からも遠く離れた北部国境で、グランデル帝国軍が進軍している――私が聞かされていたのは、そこまでだった。大人達は詳しい話をしなかったが、使用人達の足音は速くなり、お父様の書斎には夜遅くまで灯が残った。
その夜、窓の外が急に明るくなった。
雷ではない。火事でもない。夜空の一部が裂け、何本もの白い光が北へ落ちていく。遅れて、低い音が遠くから届いた。窓ガラスがかすかに鳴った。
数日後、王都は歓声に包まれた。
レグナ平原へ偶然の流星群が落ち、帝国軍が撤退した。救国の奇跡だと、誰もが口にした。
その話を信じたかった。だが、その夜遅く、私の部屋の窓を叩く音がした。
侍女を呼ぶ前に、低い声が聞こえる。
「マチルダ。俺だ」
窓を開けると、お兄様が立っていた。当時十五歳だったお兄様は、任務用の黒いコートに北部の白い砂を付けていた。けれど、呼吸も足取りも普段と変わらない。
「お兄様」
「大きな声を出さないで」
慌てて燭台を近づけた。お兄様は部屋へ入ると、音を立てずに窓を閉めた。私が顔や手を確かめる間にも、廊下の気配を探っている。
「お怪我は」
「ないよ」
お兄様は手袋を外し、両手を私へ見せた。切り傷一つない。コートに付いた砂だけが、遠い北部から戻ったことを示していた。
「何があったのですか」
問いかけると、お兄様は困ったように眉尻を下げた。
「空の岩を、引いただけだ」
意味は分からない。それでも、その言葉を聞いた途端、北の空を裂いた白い光と、今ここにいるお兄様が繋がった。
「まさか、レグナ平原の」
お兄様は短く言った。
「陛下の勅命だ」
国王陛下から直接任じられた、秘密の勅命騎士。表向きは男爵令息でも、任務では侯爵と同等に扱われる。その夜、私は初めてお兄様の本当の立場を知った。ただし、詳しい説明はなかった。
「誰にも言ってはいけない。父上にも、母上にも、使用人にも。勅命騎士という名も、任務も、俺が何をしたかも」
「でも、お父様にも」
「家族を巻き込む。知らなければ、問われても答えずに済む」
お兄様の声は低く、命令だけは揺らがなかった。
私は傷一つない両手を見た。それでも、十五歳の兄が一人で帝国軍を退け、誰にも知られず窓から帰ってきた事実に胸が詰まった。
「どうして、そこまでなさるのですか」
「君がいる国だから」
お兄様はそう言って、目を伏せた。
それ以上は聞けなかった。
その日から、私の中でお兄様は、ただ優しい義兄ではなくなった。国が救国の奇跡と呼ぶ夜の向こうで、誰にも知られず戦い、傷一つ負わず帰ってきた人になった。
暖炉の薪が小さくはぜて、リビングへ引き戻された。
お兄様はリビングの中で、いつもどおり声を荒げずに立っている。周囲からは平均の学生にしか見えない。だが、私だけはあの夜、無傷で帰ったお兄様を知っている。だからこそ、今日の広間で殿下が何を侮ったのか、痛いほど分かる。
「マチルダ」
お兄様の声で、顔を上げた。
「疲れている。今夜は休んだ方がいい」
「はい。けれど、その前にお話ししたいことがあります」
カップへ目を落とした。蜂蜜の香りがまだ残っている。
「養女となった役目を果たせませんでした」
お母様が息を止めた気配がした。
「王家は、お兄様を王家へ繋ぎとめるために私を王太子妃候補としました。私も、それを分かっていました。十歳から礼法も勉学も魔法も武術も学びました。お兄様の負担を少しでも減らせるなら、それでよいと思っていました」
口にした途端、カップを持つ手に力が入った。
「でも、殿下には選ばれませんでした。学園の皆様の前で、お兄様の価値まで侮られました。王太子妃になるどころか、お兄様の足を引っ張ってしまいました」
「マチルダ」
お兄様が私の前へ膝をついた。
驚いて手を伸ばしかける。兄が妹の前で膝をつく必要などない。けれどお兄様は、そのまま私の目線に合わせた。
「王太子妃になることが、君の価値じゃない」
低い声だった。家族の前でしか聞かない「俺」という一人称。私を叱る時の、お兄様の声だ。
「でも」
「無事に帰ってきた。それが最優先だ」
膝の上で握っていた手から、少しだけ力が抜けた。
「俺は、君が王家のために自分を押し殺すことを望んだことはない。君が役目を失ったから価値がなくなるなら、初めからそんな役目はいらない」
お母様が、私の隣へ腰を下ろした。深緑のショールが膝に触れる。
「あなたは娘よ、マチルダ。王宮へ返す品ではないわ」
たったそれだけで、目の奥が熱くなった。
返事を探して、髪の淡青色のリボンへ指を触れた。結び目はまだきちんとしている。お兄様が直してくれたままだ。
「お兄様、お母様……」
「礼を言うところではないよ」
お兄様が指先で私のリボンの端を少しだけ直した。ほんのわずかな傾きだったのに、見逃さない。
扉のそばで控えていたクララが、低く咳払いをした。
「若様は、侍女より手慣れておいでですね」
お兄様はまじめな顔で答えた。
「家族だから」
「家族ですもの」
私も同時に言ってしまった。
クララは一瞬だけ目を細め、針仕事の小袋を押さえた。
「左様でございますか」
お母様は袖で口元を隠し、お父様まで革手袋を見つめたまま咳払いをした。けれど、お兄様はすぐに表情を戻した。
「明日は休みなさい」
「いいえ」
私の返事は、思ったより早く出た。
「今夜のことが広まる前に登校しても、広まった後に登校しても、きっと同じです。なら、明日行きます」
「学園門で何を言われるか分からない」
「分かりません。でも、家にいれば何も言われない代わりに、何も示せません」
お兄様は口を閉じた。怒ってはいない。私を守るためには屋敷に閉じ込めたい。でも、それを私が望んでいないと知っている。
「自分の行動で信頼を取り戻したいのです。殿下の婚約者だからではなく、私自身を見ていただけるように」
「危険があれば、俺が止める」
「はい」
「君を傷つけるための妨害があれば、対処する」
「はい。ですが、私が立てる場面では、先に立たせてください」
お兄様は困ったように眉を下げた。
「難しい条件を出すね」
「お兄様の妹ですから」
そう答えると、お兄様は眉尻を下げたまま頷いた。
「分かった。明日は一緒に行く。門までは俺が隣にいる」
「ありがとうございます」
「ただし、朝食は食べること」
クララがすぐに頷いた。
「私が確認いたします」
「睡眠も」
「そちらも確認いたします」
思わず二人を見比べた。
「子供ではありません」
「食べずに平気だと言ったばかりです」
クララの返答は容赦がなかった。
お父様が立ち上がり、テーブルの端に置いてあった二通の手紙を取った。
「これはヒューとアグネスから届いている。今夜渡すつもりではなかったが、明日学園へ戻るなら読んでおきなさい」
ヒューお父様と、アグネスお母様。
私を産んでくれた実父母の名を聞くと、返事が一瞬遅れた。
一通には、ヒューお父様らしい実直な字で宛名が書かれている。もう一通には、小さなドライフラワーが挟まれていた。アグネスお母様の手紙だ。
「ありがとうございます」
「返事は急がなくていい。今夜は読むだけでいい」
お父様はそれだけ言い、私の頭へ手を置くことも、慰めの言葉を重ねることもしなかった。その不器用さが、いかにもアシュフォード家らしい。
部屋へ戻る途中、廊下の窓から庭を見た。門灯の向こうは暗く、ガレス近衛騎士団長の白いコートはもう見えない。
二通の手紙を両手で持ち、明日の学園門を思った。
きっと、誰かが待っている。
好奇の目か、もっと直接的な非難か。
それでも行く。
王太子妃候補として用意された道がなくなったのなら、自分の足で歩ける道を探すしかない。私の部屋の前で、お兄様が足を止めた。
「マチルダ」
「はい」
「怖くなったら、言いなさい」
「怖くないとは申しません」
正直に答えた。
「でも、お兄様が隣にいてくださるなら、歩けます」
お兄様は私の髪のリボンを見て、結び目に触れずに手を下ろした。
「明日、学園へ行こう」
「はい」
部屋へ入り、ドアを閉める。
デスクの上に二通の手紙を置く。ドライフラワーが燭台の明かりに照らされ、淡い影を落とした。
外では夜が深まっている。
明日の朝、学園門には、私を捨てられた令嬢と呼ぶ者がいるかもしれない。けれど、もう大広間で立ち尽くしていた私ではない。
帰る家があり、疑わない兄がいる。
その事実を確かめるように、アグネスお母様の手紙へ指を伸ばした。
2026年08月30日 07時00分 次話アップロード予定。
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