第2章 屋敷の兄妹1
玄関のドアが開いた途端、冷えた頬に屋敷の暖かさが触れた。
磨かれた床には燭台の明かりが揺れている。見慣れたはずのアシュフォード邸の玄関ホールなのに、今夜はどこかよそよそしい。
馬車を降りる時、お兄様は先に地面へ立ち、いつものように手を差し出してくれた。
「足元に気をつけて」
「はい」
その手に触れた瞬間、祝賀会で浴びた視線が、また背中に刺さった気がした。
捨てられた令嬢。
実際にそう言われたわけではない。だが、あの場に残してきた噂は、明日には学園中へ広がっているだろう。
手袋の中で指を握り、玄関へ入った。
中では、私付きの侍女クララが待っていた。濃茶の髪を長い三つ編みにし、灰青色の侍女服の腰には、いつものソーイングセットを入れたポーチを下げている。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
挨拶は短かったが、その目は私の顔色から手袋、スカートの裾、髪のリボンまで見逃さなかった。
「ただいま戻りました。クララ、少し着替えを手伝ってもらえますか」
「すぐに」
クララは余計なことを聞かなかった。祝賀会が予定より早く終わった理由も、門前に近衛騎士団長がいた理由も。
ただ、二階の私室へ入ると、ドアが音を立てないよう最後まで手で押さえていた。
ドレッサーの前に座った。式典用の真珠の髪飾りを外すと、淡青色のリボンが下に残る。お兄様が馬車の中で直してくれた結び目は、今も崩れていなかった。
クララは背後に立ち、髪飾りを布の上へ置いた。
「お食事は」
「祝賀会でいただきました」
「ワインの香りはしますが、パンくずがございません」
思わず鏡越しに彼女を見た。
「そこまで分かるのですか」
「お嬢様は、緊張なさると飲み物だけで済ませます。お皿を手に取っても、ほとんど召し上がりません」
クララは目を伏せずに答え、私の肩からコートを外した。針仕事で鍛えた指が、背中の留め具を一つずつ外していく。
「平気です」
「そのお言葉を、今夜は信じません」
言い返せず、ため息だけが漏れた。
クララは手を止めず、式典用のドレスを崩さないよう脱がせてくれた。白いインナーの上へルームウェアを羽織ると、肩の重みが少し消える。
「奥様がお茶を用意しておられます」
「お母様が」
「はい。王宮へ戻るお支度ではなく、お休みになるお支度です」
温かいお茶も、すぐ眠れるベッドも、私が帰る前から用意されていた。部屋を出ようとして、私は立ち止まった。
王太子妃候補としては失敗した。それでもこの家では、私が帰ればまず休ませようとしてくれる。
階下へ降りると、応接室の明かりは消え、家族用の小さなリビングだけが明るかった。深緑のショールを肩にかけたマリアンヌお母様が、ティーセットのそばで待っている。
赤みのある栗色の髪を編み込んだ、穏やかな人だ。社交の場では控えめな男爵夫人で通っているが、家では誰より先に私の無理に気づく。
「お帰りなさい、マチルダ」
「ただいま戻りました、お母様」
礼をしようとすると、お母様は温かいカップを私に持たせた。蜂蜜とハーブの甘い香りが立つ。
「先に飲みなさい。話はそれからでいいわ」
王宮へ戻るべきか、殿下へ詫びるべきか。そんな言葉は一つもなかった。
カップを両手で包み、ゆっくり口をつけた。温かいお茶が喉を通る。指先の冷えも、少しずつ引いていった。
お兄様は暖炉の前に立っていた。黒髪は乱れていない。濃紺の制服にも乱れはない。けれど青灰色の目は、まだ夜会場に残っているように見えた。
ドアが開き、セドリックお父様が入ってきた。アシュフォード男爵家の当主であり、私の養父でもある。濃紺の礼装を着て、濃茶の髪には白いものが混じっている。手にしているのは、使い込んだ革手袋だ。
「ガレス殿は帰った」
短く告げると、お父様は革のバッグを脇に置き、テーブルについた。お兄様が胸元の内ポケットから封書を取り出した。
「父上にも、お読みいただきたい」
お父様は封書を受け取り、便箋へ目を通した。読み終えると、元どおり封筒へ戻す。
「学園へは、明日どうする」
お母様の指が、私の持つカップの縁に触れた。クララも扉のそばで動きを止める。
お兄様だけが、私を見ていた。
カップを置き、膝の上で手を揃えた。
「戻ります」
声は震えなかった。
「今夜のまま家にいれば、殿下のお言葉一つで私が進む道まで変わったと思われるでしょう。私は逃げません。王太子妃候補としてではなく、マチルダ・アシュフォードとして学園へ戻ります」
お父様は私の顔を見た。灰青色の目は厳しかったが、退けるための厳しさではなかった。
「よく言った」
返事をしようとしたのに、うまく声が出なかった。カップの縁へ目を落とす。
お兄様の横顔が少しだけ緩む。それを見た途端、二年前の夜を思い出した。
2026年08月29日 21時 次話アップロード予定。
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