第1章 王太子の断罪は即否定される3
帰りの馬車では、車輪が石畳を踏む音だけが途切れず響き、王都の灯りが窓の外を後ろへ流れていた。向かいのお兄様は、広間を出てから一度も誰かを責めていない。怒りを口にしないその沈黙の方が、私には苦しかった。
「お兄様。申し訳ございません」
「何について?」
「王太子妃となって、お兄様のお役に立つはずでした。それなのに――」
「謝らなくていい。マチルダが悪いわけがない」
強い言葉ではないのに、続きが出なくなった。
お兄様は向かいから身を乗り出し、私の髪へ手を伸ばした。
大広間を出る時に引っかけたのか、淡青色のリボンが少し傾いている。
結び目を指で直し、いつもの位置へ戻してくれた。
「君が悪いんじゃない。殿下が、自分の責務を放り出し、マチルダの名誉を傷つけた」
「ですが、皆様は殿下を信じました」
「今夜はね」
お兄様の青灰色の目から、広間で見せた冷たさが消えている。
けれど、怒りまで消えたわけではない。
「あの件に追い回される必要はない。マチルダは学園へ戻って、今までどおり実力と行動を示しなさい。これ以上、俺の妹を貶めるために手を出す者は、俺がただでは済まさない」
「お兄様が、ただで済まさないと?」
「可愛い妹にあんな顔をさせたんだ。見過ごすつもりはないよ」
怒鳴り声ではなく、いつもと変わらない穏やかな口調だった。私には、その方が頼もしい。今夜向けられた視線も、いつか行動で変えられると思えた。
ただし、お兄様の背に隠れたまま、名誉まで取り返してもらうつもりはない。私の名誉なら、私自身も立たなければならない。膝の上で握っていた手をほどき、背筋を伸ばした。
「私も名誉を取り戻すため、努力いたします」
お兄様は少し目元を和らげた。
「自分の力だけで挽回できなくてもいい」
「今、決めました。失った信頼は、私自身の行いで取り戻したいのです。殿下の婚約者だからではなく、マチルダ・アシュフォードを信じていただけるように。お兄様には、そばで見ていていただきたいです」
車輪の音だけが続き、返事はなかった。やがてお兄様が困ったように目を細める。危険だからやめなさいと言いたい時の、見慣れた兄の顔だった。
「マチルダは、俺の自慢の妹だ」
「はい。お兄様の妹ですから」
「違う。俺は、そんなに立派な人間ではないよ。だから、彼等には必ず思い知らせる」
でも、お兄様が思い知らせると言った以上、ただでは済まない。
何が起こるか、少しだけ心配した。
「やりすぎはいけません。お兄様の名誉にも傷がつきます」
「それは、約束できないな」
お兄様は、そう言うと軽く笑った。
窓の外に、アシュフォード邸の門灯が近づいていた。婚約者という立場も、これまで目指した未来も、もう失ったのだろう。
それでも帰る家はあり、向かいには、ただの一度も私を疑わなかったお兄様がいる。
「一緒に取り戻そう、マチルダ」
「はい、お兄様。私も必ず、名誉を取り戻します」
馬車が門をくぐると、玄関前に青銀の甲冑をまとった人影が立っていた。ガレス近衛騎士団長だ。広間から騎馬で王宮へ先行し、そのまま私達の馬車を追い越してきたのだろう。白いコートの裾には泥が跳ね、広間で見た時より表情は重かった。
御者が慌てて馬を止めると、ガレス団長は馬車のドアへ近づき、王家の封蝋が押された封書を差し出した。
「アーサー君。陛下から、君へ直接渡せとのご命令だ。陛下は今夜の知らせを受け、君達への謝罪を親書へ書き加えられた」
公の場では男爵令息として扱っていた人が、ここではお兄様を「アーサー君」と呼んだ。門番も使用人も離れており、その呼び方を聞いたのは私達兄妹だけだった。
お兄様は封書を受け取り、膝の上で封蝋を割った。
紙面の端には、国王陛下の名が自筆で添えられていた。
すぐ目を伏せようとしたけれど、お兄様が便箋を少しこちらへ傾けた。
「読んで構わない。君のことだ」
震える息を押さえ、文字を追った。
すべての嫌疑は、いずれもマチルダ・アシュフォードの行いではないと調べはついた。
それが王家の結論だ。
王太子とマーガレット・ブラウンには王命を伝えた。今後、この嫌疑を口にすることも、他者に言わせることも許さない。
祝賀会で君とマチルダ嬢の名誉を傷つけさせたことを、国王として詫びる。
続く一文で、指先が止まった。
マチルダ嬢との婚約は、アーサー・アシュフォードを王家へつなぎ止めるための政策でもあった。
王家のために、あのような王太子を相手として選んでしまったことを謝罪する。
書かれていることは、幼い頃から知っていた。本来は従兄妹である私がアシュフォード家の養女となり、王太子妃教育を受けたのは、お兄様の力を王家へつなぎ止めるためだ。それでも、国王陛下自身の筆跡で読むと、ただ知識として承知していた時とは、紙の重みまで違うように感じられた。
彼は馬車の外で、頭を下げた。
「陛下は、王太子殿下をお止めになれなかったことを悔いておられる。王家としては、君の忠義を失うわけにはいかない。どうか、今夜は矛を収めてほしいとのお言葉だ」
お兄様は便箋を畳み、封筒へ戻した。
「分かりました。陛下には、王家への忠義は変わりませんとお伝えください」
短い返事だった。彼はしばらくお兄様の顔を見ていたが、やがて短く頷いた。
「伝える。だが、アーサー君」
「はい」
「我々は王太子殿下をないがしろにはできない。しかし、君が怒る理由は、私にも分かる」
それだけ告げて、彼は馬車から離れた。
白いコートが門灯の光を受け、闇の中へ遠ざかっていく。
お兄様は封書を胸元の内ポケットへしまった。
王家への忠義は変わらない。そう答えた時とは違う、優しい声だった。お兄様が私にだけ聞こえるように言う。
「マチルダ。陛下の顔は立てる。今のところは、王家へ刃を向けるつもりもない」
「はい」
「でも、殿下とマーガレット嬢には必ず思い知らせる。君に何をしたのかを」
「結果は変わらない」と、エドワード殿下は広間で言い切った。けれど、嫌疑は今夜で終わった。殿下もマーガレット様も、もう同じ言葉で私を傷つけることはできない。
そしてお兄様は、私の名誉を傷つけた者を決して許さない。それを誰よりもよく知っているのは、妹である私だった。
2026年08月29日 20時 次話アップロード予定。
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