第1章 王太子の断罪は即否定される2
「まだ問うか。君がマーガレットへ重ねた卑劣な仕打ちは、すでに分かっている」
「殿下……」
マーガレットが震える声を挟んだ。
「私のためにお怒りくださるのはありがたいのです。でも、マチルダ様にも、何か事情がおありだったのかもしれません」
「この場でも君は彼女をかばうのか」
エドワード殿下の声が、痛ましげなものに変わる。
その言葉を合図にしたように、生徒達の視線がマーガレットへ集まった。
彼女の胸元へ目を向けると、薔薇形の金色のブローチが指先に隠れた。
「階段で私を突き落とした方も、ドロシーは後ろから見ただけだそうです。ですから、私には……」
「私が見ました」
淡い茶色の髪の令嬢が進み出た。
ドロシー・ムーア。私と同じ一年生で、礼法の授業では教師から褒められていた生徒だ。
「踊り場にいらしたのは、淡い金髪の方でした。マーガレット様が落ちた直後、その方は廊下の角へ逃げました」
「顔をご覧になったのですか」
「後ろ姿でも、髪と体格で分かります」
息を呑んだ。顔を見ていない。
それなのに、なぜ私だと決めつけられるのだろう。
「次に茶会だ」
エドワード殿下は反論を許さず続けた。
「マーガレットの茶へ苦草が入れられ、テーブルの下からアシュフォード家の茶缶が見つかった」
「あの茶缶は、確かにアシュフォード家で使っている品に似ていました。ですが、私が持ち込んだものではありません」
「偶然だと言うつもりか」
「まず、どなたが茶葉を用意し、どなたが給仕したのかをご確認ください」
「言い逃れとは、みっともない」
殿下は顎を上げた。
「弱い者を害し、王家を侮る者を妃にはできない。新たな伴侶にはマーガレット・ブラウンを望む」
その瞬間、私を囲んでいた人々が、示し合わせたように半歩ずつ退いた。先ほどまで入学を祝ってくれた令嬢はドレスの裾を引き、魔法実技について尋ねた少年は友人の後ろへ身を隠す。誰も私を直接責めないまま、空いた場所を囁きが埋めていった。
「全属性を使えても、人柄があれでは……」
「王太子殿下が、あそこまでおっしゃるのだから」
「そもそも男爵家令嬢ごときが、王太子妃とはおこがましい。多少出来るからといって生意気な」
三週間かけて覚えた級友達の顔は変わっていない。それでも、敬意を向けていた目に蔑みが浮かんだだけで、まるで知らない人々に囲まれたように感じられた。婚約を失うことより、その変化の方が痛かった。
王太子妃となり、兄の負担を減らす。そのために何年も積み重ねたものが、たった今、何の役にも立たなかったと告げられている。それを受け入れて引き下がったら、今度こそ本当に立っていられなくなる。
「恐れながら、殿下」
背後から届いた声に、振り返った。
お兄様が人垣の間を歩いてくる。
走りもせず、誰かを押しのけもしない。
それでも、生徒達は青灰色の目を見ると黙って道を譲った。お兄様は私の前まで来ると、庇うように立つ。
「今のお言葉を、撤回していただけますか」
「何?」
「婚約については王家のご判断です。私がこの場で申し上げることではありません。しかし、マチルダを卑劣な者と断じたお言葉は看過できません」
声は普段と変わらない。怒るほど声を荒らげず、言葉だけが少し早くなることを、私は幼い頃から知っていた。そんな私でさえ、今の青灰色の目には覚えがない。私を叱る時にすら見せなかった冷たさだった。
「お兄様、でも――」
「マチルダ。俺は、君を疑ってはいないよ」
慰めるために選んだ言葉ではない。お兄様の中には、初めから私を疑う余地などなかったのだ。
信じてもらえた。
その事実がようやく胸の内側まで届くと、息をするたびに広がっていた不安が、そこから少しずつほどけた。お兄様は私が返事をするのを待たず、殿下へ向き直った。
「この子は何年も前から、ご婚約者としての責務を果たすために学んできました。眠る時間を惜しみ、礼法も勉学も魔法も武術も、求められた以上に身につけた。身分の低い者を見下したことも、力の弱い者を蔑んだこともありません。殿下は、その年月を曖昧な証言だけで踏みにじられたのです」
「曖昧ではない。証人もいる」
「顔を見ていない目撃者。入手先を示せない茶缶。これをもって、本人の反論すら聞かず悪女と呼ぶのですか」
「王家がお前をつなぎ止めるために、なぜ私が望まぬ婚約を受け入れねばならない。魔力も成績も並の男爵令息に、それほどの価値があるものか」
広間の後方に、青銀の甲冑をまとった近衛騎士が立っていた。
焦茶の髪を短く刈り、右眉から頬へ古傷の走る大柄な男。
警護責任者のガレス・ヘイル近衛騎士団長は、剣帯へ右手を添えたままお兄様を見ている。
その険しい顔を見た途端、別の意味で息が詰まった。
彼は、お兄様の本当のお力を知っている。
殿下は知らない。
ここで誰を侮辱したのかも、お兄様がどれほど強く自分を律しているのかも。
知っている私には、今のお兄様の怒りが、誰より恐ろしく見えた。
「殿下。爵位の高低を申し上げているのではありません」
お兄様は一歩も退かなかった。
「積み重ねてきた一人の人間の名誉を、確かめもせず傷つけてよいのかと伺っています」
「充分に確かめた。妹かわいさに現実が見えないのだな。これ以上、祝いの場を乱すな」
「祝いの場を乱しているのは、殿下では」
エドワードは話は終わりだと示すように手を振り、マーガレットの腰に手を添えた。
マーガレットは王太子の胸元へ身を寄せながら、濡れた目でお兄様を見上げる。
「どうか、私のために争わないでください。マチルダ様も、きっと反省してくださいますから」
お兄様は彼女へ視線を移し、わずかにも表情を緩めなかった。
「マチルダが、していないことを反省する必要はありません」
短い返答に、迷いが入り込む隙はなかった。それを聞いて、王太子殿下が取り返しのつかないことをしたのだと、ようやくはっきり悟った。
お兄様は、自分がどれほど侮辱されても、きっと笑って流しただろう。だが殿下は、私が積み上げた日々を嘘で汚し、していないことへの謝罪まで求めた。お兄様が忘れるはずはない。
「マチルダ、帰ろう」
差し出された手を取りたかった。それでも、守ってもらったまま俯いて去れば、この場で自分の名誉を手放すことになる。すぐにはその指へ重ねず、震えそうな膝に力を入れて、エドワード殿下を正面から見た。
「殿下。婚約についてのお言葉は、確かに伺いました。ただし嫌疑は、一つも認めません。正式な場で、改めて反証いたします」
「好きにするがいい。結果は変わらない」
「結果をお決めになるのは、事実を確かめてからになさってください」
王族への礼を崩さず一礼し、今度こそ自分からお兄様の隣へ並んだ。二人で歩き出すと、人垣は再び割れたが、先ほどのような敬意はどこにもない。私と関わるのを避けるための退き方だ。
背中へ囁きが突き刺さっても、足は速めなかった。ここで逃げるように歩くことだけはしたくない。
扉へ着く直前、ガレス団長が部下を呼び止める声が聞こえた。
「私は先に王宮へ戻る。お前はここに残り、祝いの場を収めろ。今夜の宣言と、殿下が反論を退けられたことは、一つも省かず国王陛下に報告しろ」
「はっ」
振り返らなかったが、その言葉ははっきり聞こえた。
大広間の扉が閉じる。華やかな音楽は、すぐに分厚い扉の向こうへ遠ざかった。
ほとんどの者は分かっていない。お兄様が本気になったら、どうなってしまうのかを。
2026年08月29日 12時 次話アップロード予定。
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