第九十話:不粋者
王宮の一室で、三人は静かな時を過ごしていた。
ワランは窓際に置かれた長椅子へ腰掛け、その斜め前ではヤラネが背筋を伸ばして座っている。ナルギンは二人から少し離れた椅子を選び、遠慮がちに——少なくとも本人はそのつもりで——旧友たちを眺めていた。
窓の向こうでは、王都を囲む防壁から黒煙が立ち昇っている。夕暮れを前にした赤い陽光が、燃え広がる炎と重なり、王都の空を暗い朱色へ染めている。
時折、遠くから轟音が響く。
それでも三人の間に流れる時間は、不思議なほど穏やかだった。
「覚えているか」
ワランが燃える王都を眺めたまま口を開く。
「蔵書室の奥にある、二脚の椅子を」
「もちろん覚えております」
ヤラネは膝の上で両手を重ね、僅かに目を細めた。
「誰かさんのおかげで、落ち着いて座れた記憶はほとんどありませんが」
「いったい誰のことだろう」
ナルギンが白々しく首を傾げる。
ヤラネは答えず、冷ややかな視線だけを向けた。
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まだワランが国王ではなく、ヤラネも王妃ではなかった頃。その日、二人は王宮の蔵書室で、密かに落ち合う約束をしていた。
親や教師の目を盗んで異性と二人きりになるなど、当時のヤラネにとっては立派な非行だった。それでも約束の時間より随分と早く蔵書室へ向かい、人目につかない最奥部でワランを待っていた。
所狭しと書架が並ぶその場所には、採光のための高い出窓が設けられている。蔵書室へ出入りする者は多かったが、奥まで足を運ぶ者は少なく、秘密の待ち合わせに使うには都合のよい場所だった。
ヤラネは窓の下に置かれた椅子へ座り、分厚い本を膝の上へ広げていた。
記されているのは、古代の炉を用いた金属加工に関する考察である。少女が好んで読むような本ではない。頁を開いてから、書かれている内容はほとんど頭に入っていなかった。文字を追おうとしても、胸の鼓動と窓の向こうばかりが気になってしまう。
それでも本を閉じることはなかった。ワランが現れたとき、難しい書物を読み耽っている自分を見せたかった。
知性のある少女だと思われたい。少しくらい、すごいと思われたかったのだ。
約束の刻限を過ぎても、ワランは現れない。聞こえてくるのは、時折頁をめくる音と、遠くで書物を探している者の足音だけだった。
ヤラネは胸の内に生まれた不安を押し隠し、意味も分からない文章を何度も読み返した。
そのとき、頭上から小さな音が聞こえた。
ヤラネの肩が僅かに跳ねる。膝の上の本を落としかけながら、弾かれたように顔を上げた。
高い位置にある出窓が、外側からゆっくりと押し開かれていく。窓の縁へ手がかかり、土埃を被った少年が不格好に身体をねじ込んできた。衣服の裾を引っかけながらも、どうにか床へ降り立つ。
「待たせて済まない。教師の目が厳しくて」
ワランだった。
それまで不安に曇っていたヤラネの表情が、一気に明るくなる。膝の上へ置いていた本を閉じ、すぐさま椅子から立ち上がろうとした。
その直後、開いたままの出窓から、もう一つの顔が覗いた。
「君があそこでヘマしなければ、もっと早く来られたさ」
ワランに続き、ナルギンが窓から入ってくる。
明るくなったヤラネの表情が、一瞬にして冷めた。
「……なぜ、ナルギン様までいらっしゃるのですか」
「なぜって、窓まで登るのに一人では危ないだろう」
「一人で来ると仰っていました」
ヤラネがワランへ視線を向ける。
ワランは露骨に目を逸らした。
「そのつもりだったのだが、途中で見つかった」
「だから私が手を貸したのさ。感謝してもらいたいくらいだね」
「あなたには聞いておりません」
「冷たいなぁ」
ナルギンは室内を見回すと、二人のために用意されていた椅子へ目を止めた。椅子は二脚しかない。
ヤラネは自分の隣にある空いた椅子へ手を伸ばした。背もたれをしっかりと掴み、誰にも譲るつもりはないと示すように自分の側へ僅かに引き寄せる。
そこへワランを座らせるつもりだった。
しかし、ナルギンはヤラネの意思など意に介さず、周囲に積まれていた分厚い本を何冊か集め始めた。高さを確かめながらさらに一冊を載せ、その上へ満足そうに腰を下ろす。
「これで三人座れる」
「二人でよかったのです」
「遠慮しなくてもいい」
「遠慮するべきは、どちらでしょう」
結局、秘密の待ち合わせは三人の雑談になった。
それでもワランの隣へ座っていられるだけで、ヤラネは悪い気はしなかった。ナルギンが本の上で姿勢を変えるたび、表紙と衣服の擦れる音が聞こえることだけは気に障ったが。
しばらくして、書架の向こうから低い声が響いた。
「そこに誰かいるのか」
三人の身体が同時に強張る。
揃って声のした方向へ顔を向けると、三人を捜していた教師たちが、書架の間からこちらを覗いていた。
窓から入ったワランとナルギンは土埃にまみれ、ヤラネの膝には内容を説明できない難解な書物が置かれている。さらにナルギンは、貴重な蔵書を椅子代わりにしていた。
言い逃れの余地はなかった。
三人は並んで連れ出され、その日の夕方まで叱られ続けた。
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「叱られたこと自体は、仕方ありません」
ヤラネが小さく息を吐く。
「あの場所で陛下を待っていたのは事実ですから。ただ、ナルギンまで加わり、騒ぎを大きくしたことには、今でも納得しておりません」
「私は窓から入るのを手伝っただけなのだがね」
「そのうえ、蔵書を椅子代わりにしていたでしょう」
「あれは椅子が二脚しかなかったからだ」
「二脚で足りていたのです」
ナルギンは聞こえなかったふりをして窓の外へ顔を向ける。そもそも用もないナルギンが出窓の側にいたのはなぜか。その理由には、あえて誰も触れなかった。
ワランが当時を懐かしむように笑った。
「それでもヤラネは、私たちが来るまで落ち着いて本を読んでいただろう。難しい書物へ向き合う姿は、昔から変わっていないな」
ナルギンがゆっくりとワランへ顔を戻した。
「……まさか、君は今まで本当にそう思っていたのかい」
「違うのか?」
「ヤラネは、あの本を一頁も読んでいないよ」
ワランの目が僅かに見開かれる。
「一頁も?」
「書かれていることなど、一文字も頭に入っていなかっただろうね。そうだろう?」
ヤラネはすぐには答えなかった。膝の上で重ねた指先を僅かに動かし、気まずそうに視線を逸らす。
「では、なぜあのような本を開いていたのだ」
ワランが純粋な疑問を向ける。
ヤラネの唇が僅かに開いたが、言葉は出てこない。
代わりに、事情をすべて見破っていたナルギンが口元へ笑みを浮かべた。
「それはもちろん、難しい本を読んでいれば、君に――」
「ナルギン」
静かな声だった。それでもナルギンは即座に口を閉ざした。
ヤラネはしばらくそっぽを向いていたが、やがて観念したように小さく息を吐く。
「……陛下に、すごいと思っていただきたかったのです」
「私に?」
「難しい本を読んで待っていれば、何を読んでいるのか尋ねてくださると思っていました。そうすれば、少しくらい感心していただけるのではないかと」
今になって少女の思惑を知ったワランが、何度か目を瞬かせる。
ヤラネはますます気まずそうに顔を背けた。
「何年も前の話です。今さら聞かされてもお困りになるでしょう」
「いや」
ワランは穏やかに微笑んだ。
「なるほど。ヤラネはすごいな」
「今さら言われても遅すぎます」
ヤラネは口元が緩みそうになるのを抑え、素っ気なく返した。しかし、その頬はほんのりと朱色に染まっている。
蔵書室の最奥部には、今も二脚の小さな椅子が並んでいる。
その近くには、分厚い本が数冊積み重ねられていた。誰かが何度も椅子代わりに腰掛けたからか、一番上に置かれた本の表紙だけがくすんでいる。
遠くで、何かが崩れる音がした。窓枠が僅かに震え、外から細かな灰が吹き込んでくる。
三人は一度だけ窓の向こうへ目を向けたが、誰もその景色について口にしなかった。
「そういえば」
今度はヤラネが口を開いた。
「夜の厨房へ忍び込んだこともありましたね」
「あれは君が空腹だったからだ」
ワランが即座に答える。
「陛下がお腹を空かせていたのでしょう」
「あの日の君は、夕食を取っていなかった」
「貴方も同じではありませんか」
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その日は、時期外れの激しい雷雨によって、王宮内にある給仕の詰め所で小さな火災が起きた。
火はすぐに消し止められ、怪我人も出なかったが、夕暮れの王宮は大混乱となった。夕食の準備は中断され、多くの者が空腹のまま自室へ戻ることになった。
ヤラネも、その一人だった。寝台へ入って目を閉じても、空腹が気になってなかなか眠れない。何度も姿勢を変え、食べ物のことを考えまいとするほど、焼きたてのパンや温かな料理ばかりが頭に浮かんでくる。
そのうち、腹部から小さな音が鳴った。誰もいないと分かっていても、ヤラネは恥ずかしそうに毛布を頭まで引き上げた。
その直後、露台に面した窓から、コツコツと軽い音が聞こえた。ヤラネが毛布から顔を出すと、風雨に晒された窓の向こうから、ワランが顔を覗かせているのが目に入った。
驚いて寝台を下り、急いで窓へ駆け寄った。鍵を外して窓を開くと、湿った夜風とともにワランが室内へ滑り込んでくる。
「で、殿下。このような夜更けに、いったい……?」
ワランは声を潜めながらも、妙に真剣な表情で告げた。
「腹が減った。厨房へ行くから、ついてきてくれ」
ヤラネは目を瞬かせた。自分が空腹で眠れずにいることなど、ワランへ伝えていない。それでも、夕食を取れなかったことを覚えていたのだろう。
ワランはあくまで、自分が腹を空かせたからヤラネを付き合わせるつもりでいる。もし見つかっても、自分が無理に連れ出したと言い張るために。
その意図は、ヤラネにもすぐ分かった。嬉しくなかったと言えば、嘘になる。
「怒られるときは、二人一緒ですよ」
ヤラネが答えると、ワランは困ったように頬を掻いた。
二人は人の気配を窺いながら部屋を出た。雨音に紛れて暗い廊下を進み、見回りの近衛兵が通り過ぎるたびに柱や調度品の陰へ身を隠す。足音を殺して角を曲がる。袖が触れ合うほど近くを歩く。
空腹を忘れてしまうほど、ヤラネの胸は高鳴っていた。これほど長くワランと二人きりになれたことは、これまで一度もない。人目を忍んで夜の王宮を歩いているという背徳感さえ、少女の胸を弾ませる。
幾度か見つかりかけながらも、二人は厨房へ辿り着いた。
中に明かりはない。
調理をしていた者たちは、すでに火災の後始末へ向かったらしい。ワランが扉へ手をかけ、音を立てないよう慎重に押し開く。二人は隙間から中へ入り、暗闇の中で食べられる物を探そうとした。
そのとき、厨房の奥から物音が聞こえた。
何かを引きずる音。続いて、棚の器が僅かに触れ合う。
二人は顔を見合わせた。
空腹に耐えかねた何者かが、先に侵入しているのかもしれない。あるいは、混乱へ乗じて王宮へ入り込んだ賊である可能性もあった。
ワランがヤラネを背後へ庇う。ヤラネはその衣服の裾を両手で握り、すぐ後ろへ寄り添った。
一歩ずつ、物音のした場所へ近づく。
ワランが片手を前へ出し、指先に小さな炎を灯した。
赤い光が暗闇を照らす。
「何者だ!」
厨房の奥では、一人の少年が棚の前へ身を屈めていた。
両手には大きな虫粉パン。口の中にも限界までパンを詰め込み、頬を大きく膨らませている。
ナルギンだった。
驚いて見開かれた目が、ワランとヤラネへ向けられる。
しばらく沈黙が続き、ナルギンの口からパンの欠片が一つ、ぽろりと床へ落ちた。
「……何をしている」
ワランが尋ねる。
ナルギンは答えようとしたが、口いっぱいにパンを頬張っているため言葉にならない。
そのとき、厨房の外から幾つもの足音が聞こえた。
「今、誰かの声がしたぞ!」
「厨房だ!」
ワランの大声を聞きつけ、近衛兵が集まってきたのだ。
そして、三人は逃げる間もなく見つかった。
ワランとヤラネは夜中に部屋を抜け出したことを、ナルギンは厨房からパンを盗み食いしたことを叱られた。
結局、その夜も三人並んで説教を受けることになった。
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「君が大声を出さなければ、見つからずに済んだ」
ナルギンが、どこか責めるようにワランへ言う。
「あの暗闇で人影を見れば、誰でも警戒する」
「だからといって『何者だ』はないだろう。こちらはパンを食べていただけなのに、賊のように扱われた」
「許可なく厨房へ入り、パンを持ち出していたのですから、充分に賊でしょう」
ヤラネが言う。
「空腹だったんだ」
「私たちも空腹でした」
「なら、あの場で分け合えばよかったじゃないか」
「口へ詰め込めるだけ詰め込んでいた方が、それを仰るのですか」
ナルギンは当時を思い出したのか、頬へ手を添えた。
「我ながら、よく入ったものだと思うよ」
「口からパンをこぼした顔は、今でも忘れられないな」
ワランが堪えきれず、声を立てて笑った。
ヤラネも口元へ手を添え、小さく笑う。
ナルギンは少しばつが悪そうに後頭部を掻いていたが、やがて二人につられるように笑い始めた。
三人の笑い声が、静かな部屋へ重なる。
国王でも、王妃でも、その臣下でもなかった頃のように。
蔵書室へ忍び込み、厨房からパンを盗み、揃って教師や近衛兵に叱られていた頃のように。
やがて、部屋の外から激しい破砕音が響いた。
三人の笑い声が止まる。
続けて、廊下の遠くから慌ただしい足音が聞こえた。武器の触れ合う音。術の破裂音。煉瓦が砕ける鈍い音。
先ほどまで遠くにあった騒ぎが、王宮の中まで近づいている。
ナルギンは窓の外ではなく、部屋へ通じる扉へ目を向けた。
「さてと……」
誰へ言うでもなくつぶやき、椅子から立ち上がる。
「どちらへ?」
ヤラネが尋ねた。
「茶を取ってくるよ。昔話をしていると、喉が渇いていけない」
「そうですか」
ヤラネは引き止めなかった。代わりに扉へ向かって歩き出した背中へ、声を投げる。
「最後の最後になって、ようやく二人きりにしてくださるのですね」
ナルギンが足を止める。振り返った顔には、いつもと変わらない軽い笑みが浮かんでいた。
「心外ですな。私はいつだって、お二人の時間を守っていたつもりですよ」
「蔵書室から厨房にまで現れておいて、よく仰います」
「あれは若気の至りというものです」
「今まで一度も反省した様子がありませんでしたが」
「ですから、今回くらいは気を利かせようかと」
ナルギンは、冗談を言うように肩をすくめた。再び扉へ向き直り、取っ手へ手をかける。
「ナルギン」
ワランが呼び止めた。
「なんだい」
ナルギンは国王へ対するものではなく、少年時代と同じ気安い口調で応じた。
ワランは一度口を閉じ、長い付き合いになる友の背中を見つめる。
言いたいことはいくらでもあった。
炉の火を熾した日。
ともに叱られた日。
王位を継いだ日。
喜びも、後悔も、決断も、その多くをナルギンはすぐ近くで見ていた。
それでも最後に口から出た言葉は、ひどく短いものだった。
「今日まで、私たちと共にいてくれて、ありがとう」
ナルギンは僅かに目を細めた。
「お安いご用さ」
扉が開かれる。
誰もいない廊下から、冷えた空気が流れ込んできた。
ナルギンは一人で部屋の外へ出ると、背後の扉を静かに閉めた。
それまで柔らかかった表情から、笑みが消える。
廊下には人影一つない。
しかし、戦禍は確かに近づいていた。遠くで響く破砕音は少しずつ大きくなり、天井から細かな塵が落ちていた。
ナルギンは閉ざした扉へ背を向け、小さく息を吐く。
「心残りは、姪っ子のことくらいかなぁ」
よれていた襟へ手を伸ばす。
せめて最後くらいは格好をつけようと、左右を揃えて丁寧に形を整えた。
しかし、手を離した途端、片側だけが再び力なく垂れ下がる。
ナルギンは、もう一度だけ直そうとしたが、すぐに諦めた。
「……締まらないな」
近づいてくる戦禍へ向き直る。
その背後には、ワランとヤラネのいる部屋があった。
生涯にわたって二人の時間へ割り込んできた不粋者は、最後の最後に、その時間を誰にも邪魔させぬため扉の前へ立った。




