第八十九話:絶望的観測
「……ったく」
バルドは、壁へ頭を預けて空を見上げる。
戦いが始まった頃には真上近くにあった太陽が、少しずつ西へ傾きつつある。血と煤煙に汚れた王都を照らしながら、ゆっくりと地平へ近づいていた。
時間は進んでいる。
バルドは肺に溜まっていた息を大きく吐き出した。遠くから途切れることなく戦闘音が聞こえてくる。術の破裂音。建物か防壁が崩れる轟音。敵の接近を知らせる鐘の音。その合間には、幾つもの怒号と悲鳴が混じっていた。
北側外壁では、今も第一戦団が八脚と戦っている。黒い八脚を追ってきたバルドには、その後どうなったのか分からない。だが、壁上の戦闘音は先ほどよりも激しさを増している。自分の分隊を含めても、少なくない数の団員が斬刈との戦いで倒れた。そのうえ、敵は壁上を自在に移動し、糸と毒を使って戦列を分断している。
南門は破られた。
西側外壁では、鎧人の死骸が壁上近くまで積み上がっている。
壁のどこか一つを守り切ればよい戦いではない。南から市街へ侵入され、北では八脚が外壁を越え、西では無数の鎧人が壁上へ迫っている。
目の前で倒した黒い八脚も、そのうちの一体にすぎなかった。
「こいつ一匹に、三人かよ」
視線の先には、頭部を砕かれた黒い八脚が横たわっている。
追跡に加わった団員が一人死に、バルーガも静かになった。バルド自身も横腹を深く抉られ、軍服の下では今も血が流れ続けている。
たった一体を止めるために、これだけの犠牲を払った。同じものが壁上に何体いるのか、それすら分からない。すでに市街へ入り込んだ個体が、ほかにいないという保証もなかった。
北を凌いでも南が破られる。
南を押し戻しても西が崩れる。
一か所へ兵を送れば、別の場所が薄くなる。負傷者は増え続け、触媒も矢も、投石器へ載せる岩さえ失われつつある。対する敵は、どれほど倒しても荒野から押し寄せてくる。
状況は最悪。
どう考えても、限界だった。
王都ワラネは、おそらく陥落する。
認めたくはない。口に出せば、本当にそうなってしまう気さえした。
「カランがいたら、変わったかねぇ」
バルドの口から、ふと名前がこぼれた。
あの男が王都に残っていたなら。第一戦団の先頭に立ち、鎧人や八脚を相手に術を放っていたなら、今とは違う戦況になっていたのだろうか。
敵の大群を焼き払い、破られた門を塞ぎ、追い詰められた兵士たちを救う。誰もが待ち望む英雄のように、崩れかけた王都を立て直していたのか。
バルドは鼻で笑い、その考えをすぐに捨てた。
「いや……ないな」
カランという男を最も理解している者は誰か。
誰よりも大きな期待と信頼を寄せ、第一戦団へ迎え入れた戦団長ダルミンか。
否。
教育係として根気強く面倒を見続け、術士として、人間としての成長を願ったミラリか。
否。
王城の一室で胸襟を開き、自らの苦悩まで語った国王ワランか。
それも違う。
ましてや、カランへ淡い想いを寄せるヤラミラでも、憧憬の念を抱くナリヤでもない。
ほかの誰でもない。
バルドだった。
カランが第一戦団へ加わって以来、バルドは補助役として幾度となく戦場を共にしてきた。カランが敵中へ飛び込めば、その退路を作る。周囲を顧みず大術を放てば、巻き込まれないよう味方を下がらせる。何の説明もなく行動を変えれば、その意図を読み取り、遅れてでも帳尻を合わせる。
いつも振り回され、その補填をするのがバルドだった。だからこそ、カランが何を見て、何を捨て、何を選ぶのかを誰よりも身近で見てきた。
カランが術士として極めて優秀であることは、いまさら語るまでもない。
常人を遥かに上回る術の威力。戦場全体を把握する観察力。必要とあらば一つの術式すら迷いなく捨て、その場で別の手段へ切り替える判断力。
だが、その本質は利己と合理にある。カランは誰かを救うために戦わない。その場で最も効率がよいと判断した選択を、迷いなく実行しているにすぎなかった。
窮地に陥った味方を救うより、救援へ向かう間に多くの敵を殲滅できるなら、そちらを選ぶ。
味方と共に踏み止まるより、撤退して態勢を立て直したほうが得だと判断すれば、誰が何を叫ぼうと躊躇なく背を向ける。
必要と判断したものには惜しみなく力を使う一方、僅かでも割に合わないと見切れば、他者の感情など一顧だにしない。
結果として誰かが救われることはある。
結果として英雄のように見えることもある。
されど、カラン自身が英雄であろうとしたことなど、一度もなかった。
バルドは隣に座るバルーガへ話しかけるようにつぶやいた。
「妙だと思ったんだ。カランがあの状況で、自分から斥候に願い出るなんてよ」
返事はない。
「まさか愛国心にでも目覚めたかと思ったが……今思えば、人選もおかしかった」
あのカランが、危険を冒してまで敵情を探る。ただ王都を救いたいという理由だけで、自ら外へ出る。
そんな殊勝な男ではない。何か別の目的があった。
自分たちには明かさず、あの男の中だけで完結している何かが。
「あいつは、英雄なんかじゃ——」
言い終わるより早く、足元が震えた。
最初は遠くで何かが崩れた程度の小さな揺れだった。食堂の外壁から細かな煉瓦片が落ち、石畳の上で乾いた音を立てる。バルドは顔を上げ、地面へ手をついた。
「なんだ……?」
揺れは収まらない。
それどころか、瞬く間に大きくなっていった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ——。
腹の底まで響く地鳴りが、王都の直下から突き上げる。
食堂の壁面へ新たな亀裂が走った。棚に残されていた食器が床へ落ち、酒樽が倒れる。大通りの石畳は波打つように上下し、隙間から土砂と水を噴き出した。
「うおっ!?」
バルドは左手を地面へつき、倒れかけた身体を支えた。隣に座るバルーガの身体が揺れに煽られて傾く。咄嗟に肩を掴み、壁へ預け直した。
その間にも地鳴りは近づいてくる。
外壁の方角からだった。
建物の屋根瓦が順番に跳ね上がり、壁面へ走る亀裂が王都の内側へ向かって伸びていく。大通りの石畳も外側から一枚ずつ盛り上がり、内側から突き上げられたように弾け飛んだ。
何かが移動している。
王都の下を通り、外壁から中心部へ向かっている。
地中を進む“ナニカ”の真上だけが激しく揺れ、その跡をなぞるように建物と道路が崩れていく。
「まさか……」
道沿いの水路から、濁った水が一斉に溢れ出した。水位が急激に持ち上がり、縁を越えた水が石畳へ広がっていく。
王都各所へ張り巡らされた水路という水路から、泥と砂を含んだ地下水が噴き上がっていた。
逃げ惑う住民の声が聞こえる。負傷者を運んでいた兵士たちが足を取られ、荷車が横倒しになる。戦闘中の将兵も、突然足元から襲ってきた異変に王都の中心へ顔を向けていた。
地鳴りは大通りの下を通り過ぎ、さらに中枢へ向かう。
バルドは傷口を押さえながら立ち上がった。波打つ石畳に足を取られつつ、食堂の壁へ手をついて王都中央を見据える。
地鳴りが、止まった。
あれほど激しかった震動が消え、束の間、周囲の音まで遠のいたように感じられた。
直後、中枢に位置する貯水池から、淀んだ地下水が空高く噴き上がった。
ドッゴォォォッッ!!
水柱が周囲の建物よりも高く立ち昇り、土砂や砕けた石材を巻き込みながら空へ広がる。陽光を遮るほどの水量が王都中枢を覆い、遅れて激しい水音とともに四方へ降り注いだ。
バルドは腕で顔を庇い、その光景を見上げる。
——水の帳を突き破り、“彼女”は現れた——
水面を破って現れた“彼女”が、勢いのまま頭を大きく振り上げる。濡れて重みを増した深紫の長髪が弧を描いて空を舞い、その先から放たれた無数の水滴が、陽光を浴びて幾重もの光の粒となった。
人ならざる美貌を露わにし、“彼女”は静かに辺りを一望する。
少しして腰をしならせると、さらなる水飛沫とともに、その下半身が水底から引き上げられていく。
腰のすぐ下には、硬質で不気味な節状構造を持つ第二の腕。さらにその下から、一節だけでも大人の背丈を優に超える巨大な甲殻が、次々と水上へ現れた。
終わりの見えない漆黒の節々。その両側に並ぶ無数の脚は、いずれも巨大な円錐状をなし、鮮やかな青に染まっている。
青い脚が水面を激しく叩くたび、巨体がさらに水底から引き上げられ、溢れ出した地下水が周囲の建物へ押し寄せた。
噴き上がっていた水柱が少しずつ勢いを失う。
空から降り注ぐ水の向こうに、巨大な異形の全容が晒された。
“青脚”。
その絶望的な巨体が、王都の中央にそびえ立った。
バルドはしばらく呆然と見上げていた。
やがて、すべてを理解したように顔を歪める。
「ほらな、言わんこっちゃねぇ」




