第九十一話:炉は燃ゆる
扉の向こうにナルギンの背中が消えても、ワランとヤラネはしばらく閉ざされた扉を見つめていた。
廊下の向こうから低い破砕音が響き、天井から落ちた細かな塵が夕陽を受けて室内を漂う。
「お茶は、来ないのでしょうね」
ヤラネが静かに口を開いた。
「ああ。昔から嘘の下手な男だ」
「いいえ」
ヤラネは小さく首を振る。
「私たちに信じさせるつもりがなかっただけでしょう」
「そうかもしれないな」
「最後まで、あの調子でしたね」
「ナルギンらしいと言えば、らしい」
「少しくらい、真面目に別れを告げてもよかったのではありませんか」
「真面目に別れを言える男なら、蔵書室の出窓からついてきたりはしないだろう」
「それもそうですね」
ヤラネの口元に僅かな笑みが浮かぶ。
閉ざされた扉の向こうで、何かが倒れる音がした。
二人は振り返らなかった。
ワランは長椅子へ両手をついて立ち上がると、窓辺へ向かった。
窓の外では、王都ワラネが燃えている。防壁から立ち昇っていた黒煙は市街へ広がり、夕暮れの空を覆いつつあった。炎は家屋の屋根を渡り、街路へ積まれた荷車や木材を呑み込みながら、王宮へ少しずつ近づいている。
遠くでは、今も術の光が瞬いていた。戦いの目的は、すでに王都を守り抜くことではなくなっている。東へ続く大通りでは、兵士たちが追いすがる異形を押し留め、その間を避難する人々の列が港へ向かって進んでいた。
一人でも多く王都から逃がす。
防衛戦は、とうに脱出路を維持するための戦いへ変わっていた。
ヤラネも席を立ち、ワランの隣へ歩み寄った。触れ合うほど近くに並び、同じ王都を見つめる。
「ミャンルは、無事にミャンジンへ着いたでしょうか」
「まだ着いてはいないだろう。だが、船はすでに王都を離れている」
王太子ミャンルを乗せた船が港を発ったのは、敵勢によって王都が包囲される前のことだった。
王都を離れるよう命じられたミャンルは、最後まで強く反対した。
父が残るなら、自分も王都へ残る。自分だけが王都の外で生き延びることなどできない。
そう言って、頑として命令に従おうとしなかった。
「随分と恨まれましたね」
ヤラネが、ミャンルを送り出した日のことを思い返す。
「あれほど激しく逆らわれたのは初めてだった」
「最後まで、陛下が船に乗らないのなら自分も残ると訴えていました」
「ああ」
「それでも、お聞きにならなかった」
「聞くわけにはいかなかった」
ワランは燃える王都から目を逸らさない。
「私とミャンルがともにここで死ねば、それで終わる。ワラネを失い、国王と王太子まで同時に失えば、逃れた者たちは誰のもとへ集まればよい」
ワランが生き延びられなくとも、王太子が残る。
ミャンジンへ辿り着き、王都から逃れた人々を受け入れる。生き残った軍と諸官をまとめ、失われた王国の体制を立て直す。
その役目を担える者を、ワラネの外へ送り出しておかなければならなかった。
「ミャンルは、今も納得していないでしょうね」
「納得しなければならない」
ワランは厳しい声音で言い切った。
「あれはもう、父の判断に不満を述べるだけの王子ではない。いずれ一国を背負う者だ。納得できない命令を受け入れ、その意味を自ら見つけなければならない」
「陛下を許さないかもしれません」
「それでも構わない。死んで許されるより、生きた息子に恨まれる方がよい」
ヤラネは僅かに俯いた。
「私も、ミャンルとともに行くよう命じられました」
「ああ。今でも、そうすべきだったと思っている」
「陛下は残り、私だけ息子と逃げろと?」
「ミャンルは王太子だが、まだ若い。母親が傍にいれば支えになると思った」
「今でも叱らなければならないことは多々あります。ですが、もう私が手を引かなければ歩けない子供ではありません」
「それでも、母親を必要とすることはある」
「父親を必要とすることもあります」
ワランは言葉に詰まった。
「ですから、私は申し上げました。私までミャンジンへ行かせたいのであれば、陛下が連れて行ってくださいと」
「あれには困った」
ワランは苦笑する。
「随分と長く考えておられましたね」
「君だけでも行かせる方法はないかと考えていた」
「見つかりましたか?」
答えは自明だ。
「見つからなかった。ナルギンまで君の側についたからな」
「あの方は、昔から肝心なときには私の味方でした」
「普段は邪魔ばかりしていたが」
「それとこれとは別です」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
夕陽はさらに傾き、王宮の影が市街へ長く伸びていた。
「ミャンジンへ向かうこともできました」
ヤラネが言葉を紡いだ。
「ミャンルを送り出したあとも、陛下と私が乗るための船は残されていた。王都を脱出し、ミャンジンで王国の体制を立て直すこともできたのです」
「ああ」
「賢明な王なら、そうしたのでしょうね」
「そうだな」
ワランは静かに認めた。
「国王が生きていれば、王国は続く。ワラネを失っても別の都市で軍をまとめ、逃れた民を受け入れ、次の戦いへ備えられる。その方が正しかったのかもしれない」
「それでも、陛下は残られた」
「ああ」
「なぜですか」
責める声ではなかった。ヤラネはすでに理由を知っている。それでも最後に、ワラン自身の口から聞いておきたかった。
「逃げられない者が、あまりにも多かった」
王都には二十一万を超える人々が暮らし、ナールムから逃れてきた者たちも身を寄せていた。そのすべてを逃がすことなど、到底できなかった。
傷つき、歩くことのできない者。
家族を逃がすため、自ら残ることを選んだ者。
今も外壁や街路で戦い、人々が避難する時間を稼いでいる者。
「彼らへ持ち場を守れと命じた私が、先に王都を離れるわけにはいかなかった。国王が逃げたと知れれば、防衛線も避難の列も、その場で崩れていただろう」
「陛下が残ったからこそ、逃げる時間を得られた者もいます」
「そうであればよいと思う」
「そうに決まっています」
ヤラネは迷いなく言い切った。
ワランは小さく笑ったが、その表情から迷いは消えなかった。
「それでも、これが王として正しい選択だったかは分からない」
国王が王都と運命を共にする。
物語にすれば、さぞ美しく聞こえるだろう。だが、死ねばそこで終わる。
生き延びた王にしか救えない民も、生き延びた王にしか下せない決断もあったはずだ。
「私は最後に、王として間違えたのかもしれないな」
「では、一人の人間として選ばれたのでしょう」
ヤラネが答える。
「自ら治め、守ってきた場所を、最後まで見届けたいと」
「国王が、それほど個人的な理由で残ってよいものだろうか」
「もう残ってしまったのです。今さら悩んでも遅すぎます」
「手厳しいな」
「一体何年、貴方の悩みに付き合ってきたと思っているのですか」
ヤラネはワランの腕へ、自らの腕をそっと絡めた。
「それに、私も残りました。貴方だけの間違いにはさせません」
ワランは絡められた腕を通して伝わる温もりを、黙って受け止めた。
「君には逃げるよう命じたはずだ」
「ええ。何度も」
「王妃まで残る必要はなかった」
「私が貴方の命令を、いつも素直に聞いていたとお思いですか」
「……あまり思わないな」
「でしたら、分かりきっていたことでしょう」
「それでも、命じなければならなかった。王として、君をここへ残すことはできなかったからだ」
「では、夫としては?」
ヤラネが問いかける。
ワランは大きく息を吸い、燃える街並みを見つめる。
「君が残ると言ったとき、無理にでも船へ乗せなければならないと思った」
「そうなさいませんでしたね」
「嬉しいと思ってしまったからだ」
ヤラネの腕に、僅かに力がこもる。
「随分と自分勝手な夫ですね」
「ああ。否定できない」
「私は、もっと早く気づいておりました」
「そうなのか?」
「蔵書室へ来るときから、ずっと」
ワランが小さく笑う。
「それほど昔からなら、もう少し早く教えてほしかった」
「申し上げても、貴方はお認めにならなかったでしょう」
「それも否定できないな」
二人の間に、柔らかな沈黙が流れた。
遠くで炎が爆ぜた。崩れた家屋から火の粉が舞い上がり、夕暮れの空へ溶けていく。
「私は、よい王だっただろうか」
ワランが不意に尋ねた。
ヤラネはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「分からないか」
「王として正しかったかを決めるのは、私ではありません。貴方の治世を生き、その先を生きる人々です」
「君は、最後まで厳しいな」
「ですが」
ヤラネは絡めていた腕を解き、今度はワランの手を取った。
「貴方が国王であったことを、私は誇りに思っております」
ワランは握られた手へ視線を落とす。
「では、夫としては?」
「それも私が答えるのですか」
「ほかに尋ねられる相手はいない」
ヤラネは少しだけ考える素振りを見せた。
「二人で過ごす時間は少なく、ようやく会えたと思えばナルギンが現れ、結婚してからも政務ばかり。よい夫であったとは、あまり言えませんね」
「そこまで悪かったか」
「ですが、もう一度同じ生を選べるとしても、私は貴方の妻になります」
ワランは何も言わなかった。握られた手を返し、ヤラネの指を包み込む。
「ただし、次は蔵書室へナルギンを入れません」
「それは難しいだろう。あいつは呼ばなくても現れる」
「でしたら、椅子代わりにできる本を隠しておきます」
「本がなければ床へ座るだけだ」
「では、出窓を塞ぎましょう」
「私まで入れなくなるな」
ヤラネが吹き出す。ワランも笑った。
扉の向こうから、何かが壁へ激突する音が響いた。
笑い声が静かに途切れる。
ヤラネはワランの肩へ頭を預けた。
「ミャンルは、ここで生まれたものを守ってくれるでしょうか」
「ああ。あの子なら、きっと」
「王都を離れた者たちも、同じでしょうか」
「同じだ。どこへ向かおうとも、ここで得たものまで失うわけではない」
ワランは、沈みゆく陽に照らされた王都へ目を向けた。
人々は今も、燃える都を離れようとしている。
東の港を目指す者。すでに船へ乗り、海路を進む者。
どこへ辿り着くのかも分からぬまま、それでも生きるために遥かな地を歩く者。
その誰もが、この王都で生きた時間を携えている。
「きっと運んでくれる」
ワランは答えた。
王都ワラネは落ちる。
王宮も、遠からず炎に呑まれる。
ワランとヤラネも、この場所で生涯を終える。
だが、この都で生まれたものまで失われるわけではない。
ヤラネが、燃えゆく王都を見つめながら呟いた。
「すべて、燃えてしまいますね」
「この都は、今日で終わるかもしれない」
「王国も?」
「いや」
ワランはヤラネの手を握ったまま、静かに首を振る。
「火種はすでに、この都を離れている。ミャンルをはじめ、王都を逃れた者にも、我らの知らぬ場所を歩く者にも」
ヤラネは目を閉じ、夫の肩へ身を寄せた。
燃え上がる王都を前に、ワランは最後まで穏やかな声で告げた。
「炉の火は尽きぬ」




