↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アウストロメリアの炎  作者: 白月一
第四幕:虚空の英雄

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

97/100

第九十一話:炉は燃ゆる

 扉の向こうにナルギンの背中が消えても、ワランとヤラネはしばらく閉ざされた扉を見つめていた。

 廊下の向こうから低い破砕音が響き、天井から落ちた細かな塵が夕陽を受けて室内を漂う。


「お茶は、来ないのでしょうね」


 ヤラネが静かに口を開いた。


「ああ。昔から嘘の下手な男だ」


「いいえ」


 ヤラネは小さく首を振る。


「私たちに信じさせるつもりがなかっただけでしょう」


「そうかもしれないな」


「最後まで、あの調子でしたね」


「ナルギンらしいと言えば、らしい」


「少しくらい、真面目に別れを告げてもよかったのではありませんか」


「真面目に別れを言える男なら、蔵書室の出窓からついてきたりはしないだろう」


「それもそうですね」


 ヤラネの口元に僅かな笑みが浮かぶ。

 閉ざされた扉の向こうで、何かが倒れる音がした。

 二人は振り返らなかった。

 ワランは長椅子へ両手をついて立ち上がると、窓辺へ向かった。


 窓の外では、王都ワラネが燃えている。防壁から立ち昇っていた黒煙は市街へ広がり、夕暮れの空を覆いつつあった。炎は家屋の屋根を渡り、街路へ積まれた荷車や木材を呑み込みながら、王宮へ少しずつ近づいている。


 遠くでは、今も術の光が瞬いていた。戦いの目的は、すでに王都を守り抜くことではなくなっている。東へ続く大通りでは、兵士たちが追いすがる異形を押し留め、その間を避難する人々の列が港へ向かって進んでいた。

 一人でも多く王都から逃がす。

 防衛戦は、とうに脱出路を維持するための戦いへ変わっていた。


 ヤラネも席を立ち、ワランの隣へ歩み寄った。触れ合うほど近くに並び、同じ王都を見つめる。


「ミャンルは、無事にミャンジンへ着いたでしょうか」


「まだ着いてはいないだろう。だが、船はすでに王都を離れている」


 王太子ミャンルを乗せた船が港を発ったのは、敵勢によって王都が包囲される前のことだった。

 王都を離れるよう命じられたミャンルは、最後まで強く反対した。


 父が残るなら、自分も王都へ残る。自分だけが王都の外で生き延びることなどできない。


 そう言って、頑として命令に従おうとしなかった。


「随分と恨まれましたね」


 ヤラネが、ミャンルを送り出した日のことを思い返す。


「あれほど激しく逆らわれたのは初めてだった」


「最後まで、陛下が船に乗らないのなら自分も残ると訴えていました」


「ああ」


「それでも、お聞きにならなかった」


「聞くわけにはいかなかった」


 ワランは燃える王都から目を逸らさない。


「私とミャンルがともにここで死ねば、それで終わる。ワラネを失い、国王と王太子まで同時に失えば、逃れた者たちは誰のもとへ集まればよい」


 ワランが生き延びられなくとも、王太子が残る。

 ミャンジンへ辿り着き、王都から逃れた人々を受け入れる。生き残った軍と諸官をまとめ、失われた王国の体制を立て直す。

 その役目を担える者を、ワラネの外へ送り出しておかなければならなかった。


「ミャンルは、今も納得していないでしょうね」


「納得しなければならない」


 ワランは厳しい声音で言い切った。


「あれはもう、父の判断に不満を述べるだけの王子ではない。いずれ一国を背負う者だ。納得できない命令を受け入れ、その意味を自ら見つけなければならない」


「陛下を許さないかもしれません」


「それでも構わない。死んで許されるより、生きた息子に恨まれる方がよい」


 ヤラネは僅かに俯いた。


「私も、ミャンルとともに行くよう命じられました」


「ああ。今でも、そうすべきだったと思っている」


「陛下は残り、私だけ息子と逃げろと?」


「ミャンルは王太子だが、まだ若い。母親が傍にいれば支えになると思った」


「今でも叱らなければならないことは多々あります。ですが、もう私が手を引かなければ歩けない子供ではありません」


「それでも、母親を必要とすることはある」


「父親を必要とすることもあります」


 ワランは言葉に詰まった。


「ですから、私は申し上げました。私までミャンジンへ行かせたいのであれば、陛下が連れて行ってくださいと」


「あれには困った」


 ワランは苦笑する。


「随分と長く考えておられましたね」


「君だけでも行かせる方法はないかと考えていた」


「見つかりましたか?」


 答えは自明だ。


「見つからなかった。ナルギンまで君の側についたからな」


「あの方は、昔から肝心なときには私の味方でした」


「普段は邪魔ばかりしていたが」


「それとこれとは別です」


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。

 夕陽はさらに傾き、王宮の影が市街へ長く伸びていた。


「ミャンジンへ向かうこともできました」


 ヤラネが言葉を紡いだ。


「ミャンルを送り出したあとも、陛下と私が乗るための船は残されていた。王都を脱出し、ミャンジンで王国の体制を立て直すこともできたのです」


「ああ」


「賢明な王なら、そうしたのでしょうね」


「そうだな」


 ワランは静かに認めた。


「国王が生きていれば、王国は続く。ワラネを失っても別の都市で軍をまとめ、逃れた民を受け入れ、次の戦いへ備えられる。その方が正しかったのかもしれない」


「それでも、陛下は残られた」


「ああ」


「なぜですか」


 責める声ではなかった。ヤラネはすでに理由を知っている。それでも最後に、ワラン自身の口から聞いておきたかった。


「逃げられない者が、あまりにも多かった」


 王都には二十一万を超える人々が暮らし、ナールムから逃れてきた者たちも身を寄せていた。そのすべてを逃がすことなど、到底できなかった。


 傷つき、歩くことのできない者。

 家族を逃がすため、自ら残ることを選んだ者。

 今も外壁や街路で戦い、人々が避難する時間を稼いでいる者。


「彼らへ持ち場を守れと命じた私が、先に王都を離れるわけにはいかなかった。国王が逃げたと知れれば、防衛線も避難の列も、その場で崩れていただろう」


「陛下が残ったからこそ、逃げる時間を得られた者もいます」


「そうであればよいと思う」


「そうに決まっています」


 ヤラネは迷いなく言い切った。

 ワランは小さく笑ったが、その表情から迷いは消えなかった。


「それでも、これが王として正しい選択だったかは分からない」


 国王が王都と運命を共にする。


 物語にすれば、さぞ美しく聞こえるだろう。だが、死ねばそこで終わる。

 生き延びた王にしか救えない民も、生き延びた王にしか下せない決断もあったはずだ。


「私は最後に、王として間違えたのかもしれないな」


「では、一人の人間として選ばれたのでしょう」


 ヤラネが答える。


「自ら治め、守ってきた場所を、最後まで見届けたいと」


「国王が、それほど個人的な理由で残ってよいものだろうか」


「もう残ってしまったのです。今さら悩んでも遅すぎます」


「手厳しいな」


「一体何年、貴方の悩みに付き合ってきたと思っているのですか」


 ヤラネはワランの腕へ、自らの腕をそっと絡めた。


「それに、私も残りました。貴方だけの間違いにはさせません」


 ワランは絡められた腕を通して伝わる温もりを、黙って受け止めた。


「君には逃げるよう命じたはずだ」


「ええ。何度も」


「王妃まで残る必要はなかった」


「私が貴方の命令を、いつも素直に聞いていたとお思いですか」


「……あまり思わないな」


「でしたら、分かりきっていたことでしょう」


「それでも、命じなければならなかった。王として、君をここへ残すことはできなかったからだ」


「では、夫としては?」


 ヤラネが問いかける。

 ワランは大きく息を吸い、燃える街並みを見つめる。


「君が残ると言ったとき、無理にでも船へ乗せなければならないと思った」


「そうなさいませんでしたね」


「嬉しいと思ってしまったからだ」


 ヤラネの腕に、僅かに力がこもる。


「随分と自分勝手な夫ですね」


「ああ。否定できない」


「私は、もっと早く気づいておりました」


「そうなのか?」


「蔵書室へ来るときから、ずっと」


 ワランが小さく笑う。


「それほど昔からなら、もう少し早く教えてほしかった」


「申し上げても、貴方はお認めにならなかったでしょう」


「それも否定できないな」


 二人の間に、柔らかな沈黙が流れた。


 遠くで炎が爆ぜた。崩れた家屋から火の粉が舞い上がり、夕暮れの空へ溶けていく。


「私は、よい王だっただろうか」


 ワランが不意に尋ねた。

 ヤラネはすぐには答えなかった。


「分かりません」


「分からないか」


「王として正しかったかを決めるのは、私ではありません。貴方の治世を生き、その先を生きる人々です」


「君は、最後まで厳しいな」


「ですが」


 ヤラネは絡めていた腕を解き、今度はワランの手を取った。


「貴方が国王であったことを、私は誇りに思っております」


 ワランは握られた手へ視線を落とす。


「では、夫としては?」


「それも私が答えるのですか」


「ほかに尋ねられる相手はいない」


 ヤラネは少しだけ考える素振りを見せた。


「二人で過ごす時間は少なく、ようやく会えたと思えばナルギンが現れ、結婚してからも政務ばかり。よい夫であったとは、あまり言えませんね」


「そこまで悪かったか」


「ですが、もう一度同じ生を選べるとしても、私は貴方の妻になります」


 ワランは何も言わなかった。握られた手を返し、ヤラネの指を包み込む。


「ただし、次は蔵書室へナルギンを入れません」


「それは難しいだろう。あいつは呼ばなくても現れる」


「でしたら、椅子代わりにできる本を隠しておきます」


「本がなければ床へ座るだけだ」


「では、出窓を塞ぎましょう」


「私まで入れなくなるな」


 ヤラネが吹き出す。ワランも笑った。


 扉の向こうから、何かが壁へ激突する音が響いた。


 笑い声が静かに途切れる。


 ヤラネはワランの肩へ頭を預けた。


「ミャンルは、ここで生まれたものを守ってくれるでしょうか」


「ああ。あの子なら、きっと」


「王都を離れた者たちも、同じでしょうか」


「同じだ。どこへ向かおうとも、ここで得たものまで失うわけではない」


 ワランは、沈みゆく陽に照らされた王都へ目を向けた。

 人々は今も、燃える都を離れようとしている。


 東の港を目指す者。すでに船へ乗り、海路を進む者。

 どこへ辿り着くのかも分からぬまま、それでも生きるために遥かな地を歩く者。

 その誰もが、この王都で生きた時間を携えている。


「きっと運んでくれる」


 ワランは答えた。


 王都ワラネは落ちる。

 王宮も、遠からず炎に呑まれる。

 ワランとヤラネも、この場所で生涯を終える。

 だが、この都で生まれたものまで失われるわけではない。


 ヤラネが、燃えゆく王都を見つめながら呟いた。


「すべて、燃えてしまいますね」


「この都は、今日で終わるかもしれない」


「王国も?」


「いや」


 ワランはヤラネの手を握ったまま、静かに首を振る。


「火種はすでに、この都を離れている。ミャンルをはじめ、王都を逃れた者にも、我らの知らぬ場所を歩く者にも」


 ヤラネは目を閉じ、夫の肩へ身を寄せた。


 燃え上がる王都を前に、ワランは最後まで穏やかな声で告げた。


「炉の火は尽きぬ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。