第六十五話:碧空と蒼海
燃え盛る森から乾いた熱風が吹き出す一方、まだ火の届かない森の奥からは、全身にまとわりつくような湿った空気が流れてきた。
——一雨降りそうだな。
ダーバルは宙を飛ぶ最中、空を仰ぎ見ながらそんなことを思っていた。
着地もままならず、砂煙を巻き上げながら荒野を転がる。そのまま巨岩に激突し、ようやく止まる。ぶつかった巨岩には大きなヒビができていた。
立ち上がろうとすると、顎下から凄まじい衝撃が伝わり、ダーバルは再び宙を舞った。
次はほとんど垂直に頭から地に落ちた。頭部へ巨体の全重量がかかったが、ダーバルの甲殻にはヒビ一つ入らない。
「この程度か」
追撃する手を止めた薄青は、ダーバルの目の前で仁王立ちした。
「コレに角を折られた老将の力量も知れるな」
ダーバルは倒れ伏したまま、左鋏を振り抜いた。だが、掠りもしない。
その場で跳んで躱した薄青が、両の足でダーバルを踏みつけた。
「ごはあぁっっ!!?」
押しつぶされたダーバルは口からありったけの空気を吐き出した。
「やはり、所詮はルカニダ風情か」
薄青はダーバルの背に乗ったまま、静かにつぶやいた。
「我らタルガこそガルンにて最強」
薄青の言葉は、概ね正しい。
鎧人、もといガルンの民において、タルガ種は最大の勢力である。その中でも薄青が属する一族は最も長大な角を誇り、体格も最大級の部類だ。もちろん個体差もあるが、その高い戦闘力は、ガルンの民の中でも広く知られている。
「誰の背中に乗ってんだ、よっと」
ダーバルは強引に立ち上がり鋏を振るった。だが、やはりそれは空を切る。
余力はまだまだある。しかし、ダーバルはろくに攻撃を当てられていない。速度にそこまでの差があるとは思えない。膂力ならダーバルに分がある。なのにもかかわらず、ダーバルの攻撃を、薄青は容易く躱し、いなし、さらには反撃まで加えてくる始末。
「どうなってんだ?」
「わからぬか」
「わからん」
ダーバルは正直に答えた。
「……青いな」
薄青は決して油断はしていなかった。ダーバルを強敵と認め、自らに比肩しうると考えている。だからこそ、決闘を申し込んだのだから。
「お前だって青いじゃん」
「…………甲の話ではない」
薄青の言葉通り、ダーバルは青かった。
甲の色だけではない。戦士としても、まだあまりに若い。
ダーバルは今までいくつもの戦場を渡り歩いてきた。戦闘経験自体は相応に豊富と言える。だが、それを強者との戦いだけに限ると、全くと言っていいほど経験がない。なぜなら、ダーバルは有り余る素の身体能力で、立ちはだかるすべてを薙ぎ倒してきたからだ。たとえダーバルが手こずろうとも、圧倒的な防御力を前に、敵は次第に打つ手を失っていく。そうすると、いずれはダーバルが相手を捉える。
直近での苦戦らしい苦戦といえば、キャンベラで”横ツノ”の老将と交えた一戦くらいだ。だが、その歴戦個体である老将との戦いでさえ、ダーバルは大した痛手を負っていない。
今、ダーバルの目の前に立つ薄青もまた、歴戦個体に間違いない。それでもこの戦士は、ダーバルがこれまで戦ってきたどんな敵よりも強かった。
「やっぱ強いな。お前」
「当たり前だ」
「お?自信満々だな」
「貴様とは背負ってきたものが違う」
薄青が潜り抜けた死線は十や二十ではない。薄青の甲をよく見れば、多種多様な傷が、全身の至るところに刻まれているのが分かる。その碧空に浮かぶ霞のように刻まれた傷の一つ一つが、強敵との戦いの記憶であり、勲章なのだ。
「そうかよ」
それに対し、ダーバルの蒼海のごとき甲は、自然にあるがままの原初の海のように澄んでいた。
「言ってもわかりはせぬ」
「だな」
薄青の言葉に嘲りはない。だが、仮に嘲りがあろうと、ダーバルは別に気にしなかっただろう。
短い会話はそこで終わった。
薄青が再び腰を低く落とす。
ダーバルは自然体のまま、ただ巨大な左鋏を肩に担いだ。
ドッゴォォォッッ!!!
薄青の踏み込みは、その日一番の踏み込みだった。地面は陥没し、ひび割れが走る。
音を置き去りにした突進は、瞬きする間もなくダーバルに肉薄した。振り抜いた拳は正確に額角へと吸い込まれる。
その拳をしゃがんで避けたダーバルは、肩に担いだ左鋏を沈み込む身体ごと振り下ろす。巨大な鋏そのものの質量に遠心力と落下の勢いまで加わった一撃は、まともに受ければ想像を絶する破壊力となる。
もっとも、ダーバルはそこまで計算して、この一撃を放っているわけではない。遠心力や、しゃがみ込む速度を乗せるなどという小難しい理屈は、ダーバルには分からない。ただ、こうすれば強い一撃になる。そんな感覚だけで、この攻撃を愛用していた。
当たれば”ツノ持ち”とてひとたまりもない。
だが、当たらなければ意味がない。薄青は、すんでのところで躱しきる。掠るか掠らないかの距離で、ダーバルの必殺の一撃は空を切った。
そして薄青は、そのままダーバルの顎下に、膝蹴りを放つ。
「どはぁっ!!」
沈み込んだ勢いに、下から突き上げる膝の威力まで重なった一撃は、ダーバルを吹き飛ばすには充分すぎる一撃だった。
何度目かも分からない滞空時間に、ダーバルは慣れつつあった。
背中から着地し、勢いを殺しながら後転して、そのまま立ち上がる。
「よし」
これなら、起き上がるまでの隙をなくせる。普通なら、まず弾き飛ばされないために工夫するものだろう。
しかしダーバルが考えたのは、弾き飛ばされたあと、いかに早く立ち上がるかだった。
ダーバルは、どこまでも自分を崩さない。
「それが貴様の矜持か」
「なんだ?」
「ふん」
薄青は再びダーバルに肉薄する。
確かに、追撃は難しくなった。だが、それは薄青が不利になったという意味ではない。
薄青の拳を左鋏で受けたダーバルは、右の鋏で突きを放つ。これもまた、ダーバルが愛用する攻撃だった。左鋏が威力なら、右鋏は速度。これが意外に効くことを、ダーバルは知っている。敵はいつも巨大な左鋏ばかりに気を取られて、右鋏への警戒が疎かになる。たとえ右の鋏の方が小さかろうと、デカポダの基準に照らし合わせれば、攻撃力は上澄みといえる。この左右の鋏の違いを活かした戦い方こそが、ダーバルの攻撃の中心だった。
だが、その攻撃も薄青は左腕の甲でいなしてみせる。擦れる両者の甲殻が耳障りな摩擦音を立てた。そして、いなしきる直前にあえて左腕を弾かせ、その反動で上体を後ろへ倒しながら、しなるような高蹴りを放った。
「ぐはぁっ!」
ダーバルはその攻撃を確かに視認していたが、左鋏での防御は間に合わず、側頭部にもろに直撃した。
体勢を崩したダーバルに対して、高蹴りを放った足でそのまま踏み込み、身体を反転させながら、反対の脚で後ろ回し蹴りを放つ。
全身の回転で生まれた遠心力と体重を余すことなく乗せた踵はダーバルの腹甲に直撃した。
やはり、ダーバルは弾き飛ばされる。
だが、今度は違うことがあった。
「!!?」
ダーバルが弾き飛ばされた直後、薄青の身体もまた宙へ引かれた。
蹴りを放った足が、ダーバルから離れない。
ダーバルが着地する一方、思わぬ方向へ引かれた薄青は荒野を転がった。それでも、二体は繋がったままだった。
「へへ」
ダーバルが左鋏を肩に担いだ。
「……糸か」
薄青が自らの足元へ視線を落とすと、ダーバルの副腕に絡まったままだった糸女の糸が、薄青の足にまで絡まっていた。
「糸の解き方知ってるか?」
「なに?」
「結構難しいんだぜ」
ダーバルは担いだ巨大な鋏を振り下ろした。
薄青は身体を捻り、なんとか躱す。そして、空いている右足でダーバルを蹴りつけた。ダーバルが体勢を崩し倒れ込み、絡まった糸が張り詰め、二体の間にわずかな距離はできたものの、一向に解ける様子はなかった。
「曇天だな」
転がったダーバルが呟いた。
それが頭上の空模様を指したのか、土煙に汚れた薄青の甲を指したのかは分からない。
おそらく、ダーバル自身も深く考えてはいなかった。
ただ、薄青には自分が嘲られたように聞こえた。




