第六十六話:意地
世界から音が一段失われたかのように、辺りは静まり返っていた。その静寂の中、葉をかすかに鳴らす雨粒だけが、降り始めを告げている。
霧のように細かな雨が荒野を優しく包み込み、遠くに見える景色の境界を曖昧に溶かしていった。
薄青が片膝を立てる。ほとんど同時に、ダーバルも太い脚で大地を踏み締め、その巨体を起こした。
二体の間には、いまだ糸女の糸が垂れ下がっている。細い糸に雨粒が連なり、白い筋となって両者を結んでいた。
薄青が足を振る。ダーバルが副腕を引く。張り詰めた糸が甲殻へ食い込み、耳障りな音を立てた末、耐えきれずに弾け飛んだ。
距離を取るのが最適解。だが両雄は息を合わせたように一歩前へ出る。両者とも、視線の先を悟らせない複眼を持っていたが、今だけは眼前の敵が互いを睨みつけていることは確かだった。
薄青は両の拳を顔の前へ構え、わずかに重心を落とした。
対するダーバルは巨大な左鋏を持ち上げ、右鋏を身体の横へ構える。
最強のデカポダ。
そう呼ぶに相応しい力を、生まれながらに与えられた存在。それがダーバルだった。
先に動いたのは薄青。迎え撃つダーバルもさらに前へ出る。両者の肩が正面からぶつかった。
ゴギィンッッ!!
甲殻同士が激突する轟音が、雨の中を駆け抜ける。互いに一歩も退かない。四肢へ力を込め、相手を押し潰そうと大地を踏み締める。二体の足元から亀裂が走り、泥を含んだ土が盛り上がった。
ダーバルの深青の巨体は、アスタキア種に見られる主だった特徴である。だが、その戦士階級の中にさえ、彼の巨躯と肩を並べられる者はいない。
「ぬぅん!」
ダーバルが力任せに薄青を押し返す。わずかに体勢を崩した相手へ、歪なまでに巨大な左鋏を横薙ぎに振るった。風が唸り、降り注ぐ雨粒がまとめて吹き飛ばされる。
薄青は左鋏の軌道へ片腕を添えた。真正面から受け止めるのではない。鋏の進む方向へ自らも動き、力の流れをわずかに逸らす。そのまま身を沈め、頭上へ巨大な質量を通過させた。
空を切った左鋏が、その先にあった巨岩を粉砕する。
ダーバルの巨大な片鋏は、ブラキラウ種に見られる特色である。だが、彼の左鋏ほど大きく、重く、強大なものを持つ者はほかにいない。
薄青は低い姿勢のまま懐へ潜り込み、拳を突き上げた。狙いは腹甲の継ぎ目。ダーバルは身体を捻り、分厚い背甲でその拳を受ける。
ガァンッ!!
鈍い衝撃が巨体を駆け抜けた。それでも甲は割れない。大きく仰け反りながらも、ダーバルの脚は片時も地面を離れなかった。
薄青は間髪を容れず、脇腹、胸元、顎下へ拳を連ねる。ダーバルは両の鋏を盾のように構え、強引にすべてを受け止めた。
ダーバルの分厚い甲殻がもたらす防御力は、アノムラ種の持ち味である。だが、彼の頑丈さは、同種の誇る堅牢ささえ遥かに凌駕する。
「今度はこっちだ!」
薄青の拳が止まった瞬間、ダーバルの巨体が沈む。次の瞬間、その姿が薄青の視界から消えた。
否。
下へ消えたのではない。巨体に似合わぬ跳躍力で、斜め上へ飛び出したのだ。ダーバルは宙で身体を傾け、薄青の側面へ回り込む。着地と同時に土を抉り、右鋏による鋭い突きを放った。
薄青が上体を反らす。右鋏の先端が、霞の浮かぶ碧空のような胸甲をかすめた。硬いもの同士が擦れ合う音とともに、薄青の甲へ新たな傷が刻まれる。
ダーバルの跳躍力と機動力は、カリデア種の武器である。
だが、その身体能力においても、彼に比肩する者はいない。
薄青は後退しながらダーバルの右鋏を掴み、勢いを利用して巨体を引き倒そうとする。ダーバルは構わず踏み込み、残る左鋏を振り上げる。薄青が手を離して身を翻す。巨大鋏が顎先をかすめ、細かな甲の破片を宙へ散らした。
離れた薄青を、ダーバルが追う。薄青は退きながら拳を放ち、ダーバルは甲で受けながら両の鋏を振るう。
拳と鋏。
技巧と膂力。
傷を重ねて得た経験と、傷を知らずに育った天賦の肉体。二体がぶつかるたびに水飛沫が弾け、濡れた大地が陥没する。
舞い降りる霧雨が、碧空と蒼海の境界さえも白く霞ませていった。
薄青の方が巧い。積み重ねてきた経験も、戦いの最中に下す判断も、間違いなく上だった。
それでも、ダーバルは倒れない。攻撃を受けるたびに立ち上がり、弾かれるたびに戻ってくる。そして攻防を重ねるたびに、ほんのわずかではあるが薄青へ近づいていた。
まさに、最強のデカポダと呼ぶに相応しい力を持って生まれた存在。
それがダーバルという戦士だった。
あえて断言しよう。
ダーバルは、最強のデカポダである。
彼が望むのであれば、河川、海岸、あらゆる水域に生息する全四種のデカポダを統一し、王となることも可能だっただろう。
だが、ダーバルはそれを望まなかった。戦いが嫌いだったわけでも、臆したわけでもない。むしろダーバルは、戦うこと自体は嫌いではなかった。自ら生まれ持った才能を活かせるのは戦いだということを充分に理解していたし、その才を振るうことになんら抵抗はなかった。
統一、支配、頂点。そんなことは彼にとって心底どうでも良かった。ただ単純に、面倒なだけだったのかもしれない。
どちらにせよ、ダーバルは自らの気が赴くままに、揺蕩う波のように歩んできた。
そんな彼が、最近気に入っているものがあった。
カランである。
大抵のことに無関心なダーバルにしては珍しいことだった。カランは、人々から英雄だともてはやされていながら、それを疎ましく思う人物だった。
話をしてみた限り、ダーバルの思う英雄とはかけ離れた人物だというのは分かった。面倒を嫌い、自分の中に確固たる行動基準を持ち、どこか世間とズレた存在だった。
ダーバルは、どことなく親近感を覚えた。
だが、カランは英雄ともてはやされるのを疎ましく思っていながら、なんだかんだそれを受け入れていた。それがダーバルの興味を引いたのか、無性にその術士が面白く感じた。
ついでに、いつもカランのそばにいるルナリは、普段から何を考えているかまったく分からなかったが、一緒にいてなぜか悪い気はしなかった。
もし、またいつか旅に出るなら、こいつらと一緒に行きたい。そう思うくらいには気に入っていた。
ダーバルの振るった鋏を弾いた薄青は、衝撃を殺しきれず、直立したまま地面を削り、土砂を撒き散らしながら後方へ滑った。
弾かれたダーバルも、その反動を受けて後方へ跳んだ。
二体の間に、再び距離ができた。
「確かに、オレは大したものは背負ってないさ」
ダーバルは静かに口を開いた。
「……」
「お前が、なんかでっかいものを背負ってきたのも、なんとなくわかる」
強まる雨脚の中、その言葉はしっかりと薄青の耳に届いた。
「……そうか」
「だけどな」
ダーバルは左鋏を肩に担いだ。
「?」
「たとえ背負ってるものがちっぽけでも、それに懸ける意志の強さはオレだって負ける気はしない」
ダーバルは、確かに大抵のことに無関心だ。正直、都市がすべて陥落しようが、人類が滅びようがどうでも良かった。
「……」
薄青は何も答えない。
「こっからは本気で行くぜ」
「なんだと?」
出し惜しみをしていたわけではない。ただ、自分自身さえ制御しきれない力を振るう覚悟が、ようやく決まったのだ。
ダーバルが深く、深く腰を落とす。脚部を覆う甲殻が、内側にしまい込まれた筋肉の膨れ上がりに耐えるようにミシミシと音を立てる。
次の瞬間、空気が目に見えて歪んだ。ダーバルの姿が消え、遅れて爆音と凄まじい衝撃波が荒野を打った。
「ッッッ!!!??」
気がついたときには薄青の眼前に巨大な津波が押し寄せていた。それはダーバルの巨大な左鋏。
「グゥぅ!!」
薄青は左腕の甲を砕かれ、その破片を撒き散らしながらも、左鋏の軌道を外へ逸らした。躱す余裕などなかった。あまりにも速いダーバルの振り下ろしは、鋏を振った本人まで振り回されていた。
「!?」
薄青の驚愕は終わらない。
振り下ろした鋏の勢いに身体ごと預け、ダーバルは地を蹴った。その巨体が斜めに回転し、車輪のように迫る踵が薄青の長角を捉える。
これも躱しきれない。だが、角で受けるのは命取りになりかねない。
瞬時の判断で薄青は首を横に逸らした。直後、薄青の右肩に、いまだかつてない衝撃が走る。薄青の右腕は、肩口から弾け飛んでいた。
ダーバルはまだ止まらない。薄青の肩を断ち切った踵で地面を踏み締め、右鋏を薄青の胸元へ真っ直ぐに突き出した。
薄青の反応は最適だった。ダーバルの右鋏を、残る左腕を犠牲にして掴み取り、前に進み続けるダーバルの眼前に長角を突きつける。
「へへっ、そうくると思ったぜ」
しかし、それは届かない。ダーバルは踏み込んだ脚とは別の脚で薄青の胸甲を踏みつけ、距離を保ったのだ。
ガキンッッ!!
ダーバルの左鋏が、薄青の長角を掴んだ。
「……ッ!」
瞬時に、薄青は反撃の蹴りを放とうとした。
だが、長角はすでに巨大鋏の奥深くまで挟み込まれている。今さらどう足掻こうと、角は折られる。
薄青は上げかけた足を、静かに下ろした。
「持っていけ」
「んじゃ、遠慮なくいただくぜ」
雨音だけが続く荒野に、鈍い破断音が響いた。




