第六十三話:分断
「ごきげんよくない」
——ごきげんよう。白き糸女の開口一番の挨拶にルナリは思わず普通に返事をした。あまりにも、その白き糸女から敵意が感じられなかったからだ。
しかし、次の瞬間には白き糸女の姿は炎の波に消えた。
「カラン」
ルナリが上げた視線を戻すと、指先を宙に向けたカランがいた。ナリヤはすでに降ろされている。
「どちらにせよ敵だ」
「うん」
相手に敵意を感じなかったところで、今の状況から攻撃を躊躇うことなどあり得ない。
「まあ、酷い人」
炎に飲まれたかに思えた白き糸女は、さらに森の奥で、天地を逆さにしたまま宙に揺れていた。
「速いな」
「あら、そう?あなたは遅いのね」
そう言葉を紡ぎ終えたときには、別の木の下で揺られている。
あまりにも速い。そして、それ以上に音がない。
カランはすかさず半円を描くように腕を振り、炎の壁を作り出した。
しかし。
「ねえ、あなたがカランさん?」
白き糸女は炎の壁の内側にいた。
確かに、敵意は感じられない。なぜならこれほど俊敏に動けるのであれば、すでに誰かが狩られていてもおかしくない。やはり遊んでいるのか。
カランは無言で腕を振るった。
たちまち風が巻き起こり、炎を乗せて白き糸女を襲う。
「つれないのね」
だが、やはりというべきか、そこにはもう白き糸女の姿はない。炎の壁の向こうで、静かに微笑んでいる。
その指先が、手招きするように手のひらへ畳まれた。
「うおお!?」
すると、まるで白き糸女に引き寄せられるように、最も後方にいたダーバルが、突如として前方へ引きずられた。
「伏せろ」
カランは強引にナリヤを掴んで頭を下げさせた。他の面々も、咄嗟に地へ伏せる。
ダーバルの背甲に食い込んだ何かが、鋼鉄を擦り合わせるような音を立てる。太い脚で地面を抉りながら、ダーバルは炎の壁の手前でどうにか踏みとどまった。
「あっちち、あっつ!」
炎の壁に焼かれかけたダーバルは、咄嗟に後方へ跳んだ。
それに合わせて、白き糸女の指も開かれる。
「あら、まあ、硬いのね」
白き糸女がそう言った直後、哨戒班の周りの木々が幹の半ばから滑るようにずれ落ち、音を立てて倒れ始める。
残された幹の断面は鋭利な刃物で一刀両断されたように、幾重にも刻まれた年輪が露わになっていた。
「なん、という……」
術士の一人が唖然とした声をこぼした。
強靭さを重視した糸は移動に、粘着性の高い糸は捕獲に、硬質化した糸は戦闘に。糸女が操る糸は、そうやってさまざまな性質に変化させるというのは戦闘術士なら誰もが知っている。
枝葉を切り飛ばす程度は軽々とやってみせるだろう。だが、ここまで樹齢を重ねた大樹の幹を容易く切断する糸など、いまだかつて見たことがなかった。
「遊び相手なら他を当たれ」
カランは言うだけ言ってみることにした。
「やっぱり。つれないのね」
白き糸女は、カランの言葉に応じた。
「足止めか」
「あら?そう、賢いのね、カランさん」
敵対的異形の民は、いつも言葉なく襲いかかってきた。本来なら話に応じるなどあり得ない。仮に応じるのであれば、人類との関係はもっと違うものになっていたはずだ。
応じるには訳がある。つまり、足止め。
これほどの力量を持つ糸女。おそらくは群れの長。カランが森に火を放ったとき、一人だけ、あの速度で脱したのだろう。仲間が目の前で焼かれるのを見たはずだ。その元凶たるカランを前にしても、この態度。
万全の状況が整うまで、じっくりと機を待つ。
「カランくん。ここからは別行動にする。私がここに残る」
ミラリが口にした言葉は、さらに班を割るという選択だった。
「わかりました」
カランは即答した。
「ちょっとは止めてよ」
いつもと変わらぬカランの様子にミラリは肩を下げた。
「意味がありますか?」
「まあ、ないね」
ミラリは飄々と、右手を腰に当てた。
「殿下をお願い」
ミラリはいつもの調子で笑った。
「君の仕事でしょ?」
○ ○ ○
ミラリはカラン組が、炎と森の間を縫うようにして遠ざかっていくのを横目で確認していた。
「行かせてよかったの?」
その間、白き糸女は相変わらず天地を逆さにしたままで、ただ微笑んでいた。
「うふ、止めた方が良かったかしら?」
「やなやつ」
ミラリは白き糸女に、冷たい視線を送った。
「あなたはいい人ね」
それに対して、白き糸女はにっこりと笑顔を浮かべた。そこだけ切り取れば慈母のようだ。
「さ、て、と」
ミラリは残る二人の班員を見比べた。
「どこまでも付き合いますよ」
そう言うのは、昔からの付き合いの術士だ。
「そんなこと言ったら、奥さんと娘さんに嫉妬されるよ?」
この愛妻家の男は、少し前に娘が生まれたんだと語って聞かせてくれたばかりだった。
「そりゃ困った」
その表情は、どこまでも穏やかだった。
「あ、お、おれは……」
もう一人の術士は、青ざめた顔で言葉を詰まらせた。
カランを熱烈に信奉し、この哨戒班にも強く志願した少年だった。
「だいじょーぶ。なんとかするから」
ミラリは努めて明るく笑いかけた。
「全員で生きて帰る」
「当たり前でしょう」
「……はいっ!」
胸の内に湧き上がった感情を押し殺す。二人を生かして帰す方法は、まだある。
「今から私が言う指示に、何があっても従って。それがどんな内容でも」
「「了解」」
覚悟を決めた二人の顔を交互に見て、ミラリも決意を新たにした。
「終わったかしら?」
白き糸女は背筋をグッと伸ばすと、顔を少し傾けた。
「待たせたね」
「いいのよ?」
白き糸女は、天地を逆さにしたまま優雅に微笑んでいる。
「それじゃ!」
ミラリも両手を高く突き上げ、グッと背を伸ばした。
まるで今から一仕事始めるかのような、気楽な仕草だった。
「——全員、散開」
「「ッ!!」」
二人の動きが止まったのは、ほんの一瞬だった。
動揺しなかったわけではない。命令の意味を考えるよりも先に、鍛え上げた身体を強引に動かしたのだ。
一人は東へ。もう一人は西へ。
二人の術士が、脱兎のごとく正反対の方角へ駆け出す。そしてミラリは、そのどちらとも異なる北へ向かった。白き糸女が待ち構える、森の奥へと。
「あらあら」
白き糸女が両手を広げる。
東西へ散った二人を追うように、細い指先が左右へ開いた。
「やらせるもんですか」
ミラリは地面を強く踏みつけた。
足裏から伝わった術が土へ干渉し、無数の石礫を弾き出す。白き糸女だけでなく、その左右へ広がる空間まで覆い尽くすような斉射だった。
さらに右手へ水を集め、左手に風を圧縮する。
二つの術を同時に解放すると、風に押し出された水が鋭い弾丸となり、石礫の隙間を縫って白き糸女へ殺到した。
「まあ、止めてみせて?」
声が、右から聞こえた。
正面にいたはずの白き糸女は、すでに消えている。
ミラリは声の方へ顔を向けるより先に、足元へ土術を叩き込んだ。本来壁のように隆起するはずの大地が、その足裏から爆発的に射出され、土塊に押し上げられたミラリの身体が勢いよく宙へ放り出された。
「あら、素敵」
宙で身を捻ったミラリの耳へ、楽しげな声が届く。
ミラリを宙へ押し出した土塊は細切れになっていた。回避が一瞬でも遅れていれば、そうなっていたのは土塊ではなく自分だった。
背筋に冷たいものが走る。——いや、怖がってる暇はないか。
ミラリは燃える森を背にして着地し、すぐに立ち上がる。
「出し惜しみしても仕方ないね」
「次は何を見せてくれるの?」
白き糸女は、少し離れた枝の下で揺れていた。
東西へ散った二人を追う様子はない。余裕に満ちた笑みを浮かべ、ただミラリだけを見ている。
狙い通りだった。
「とっておきを見せてあげる」
「あらまあ。楽しみだわ」
ミラリは両手を胸の前で構え、指先で一つの輪を作り、深く息を吸い、長く吐き出す。
どう見ても隙だらけの姿勢だった。それでも白き糸女は動かない。目を細め、微笑みながら術の完成を待っている。
「私だって、カランくんと同じ宮廷術士なんだよ?」
ミラリは意識して口角を持ち上げた。
指で作った輪の中に、風が渦巻き始める。
「その、宮廷術士?というのは何かしら?」
生き残った哨戒班を足止めしていた白き糸女と、仲間を生かして逃がすために立ち塞がったミラリ。いつの間にか、足止めをしている側は入れ替わっていた。
「すごい術士ってこと」
渦巻く風の中に水が湧き、球となって浮かぶ。
「あの、術士というのは?」
水球の中心に土が生まれ、硬く透き通った結晶へ変わる。
「術を使う人のことだよ。私たちはそう呼ぶの」
「ああ、術使い」
「そう。術使い」
結晶の内側に、小さな火が灯った。
風。水。土。そして火。
本来なら互いに干渉し、形を失うはずの四つの力が、一つの輪の中で均衡を保っている。
それぞれが独立しながら、互いを支え、取り込み、次第に眩い光を放ち始めた。
「あら?」
初めて、白き糸女の笑みがわずかに崩れた。
「これが私のとっておき」
ミラリの胸前で、四つの力が一つになる。
人はかつて、それを炉術と呼んだ。




