第四話:人類都市ワラネ
人類都市ワラネ。
それはアウストロメリアの民がこの大地に打ち込んだ楔、最初の炉であり、人類の文明発祥の地。
初めは、海辺の小さな炉だった。
魚を干し、貝を焼き、夜を越すためだけの火だった。
やがて炉の周りには柵が立ち、柵は壁となり、壁の内側に人が集まった。
人が集まれば水路が要り、水路が伸びれば倉が要り、倉が増えれば兵が要る。
そうして炉は、都市になった。
アウストロメリアにおいて、都市とは家々の集まりではない。
都市とは、壁である。
水路である。
炉である。
倉であり、門であり、兵舎であり、夜を越えるための巨大な殻である。
人類は鎧人のような甲を持たない。
だから人類は、自らの身体ではなく、都市に鎧を着せた。
ワラネの防壁は、その鎧の中でも、最も古く、最も大きく、最も厚い。
ワラネは、壁の内側にある。
それは単に、都市が防壁に囲まれているという意味ではない。
アウストロメリアの民にとって、壁とは境界だった。
荒野と文明。
死と眠り。
異形の民の足音と、人の声。
その境界の内側で、二十万を超える人間が息をしている。
手前に深く掘られた塹壕の底に、鋭く削られた逆茂木が敷き詰められている。
赤茶けた大地を切り分けるように築かれた防壁は、高さ10メートルを軽く超える。根元は厚く、上へ行くほどわずかに細る台形の壁面には、枠型に使われた樹皮の模様が薄く写っていた。
木筋コンクリート。
硬質樹木を裂いて編み、その隙間へ焼いた石の灰と砂利を練り合わせた素材を流し込み、固める。
火術は石を焼き、土術は形を保ち、水術は練り、風術は乾きを整える。
全ての術と工務の知恵が生み出した、叡智の結晶。
人類の絶対的防衛施設。
人類の殻。
ワラネは王都ではあるが、王のための都市では無い。
人類が夜を越えるために造った、最初の巨大防壁都市である。
そして現在は、政治の心臓であり、軍の頭脳であり、術士たちの舞台であり、民衆が英雄を求める場所。
ワラネの朝は、いつも壁の上から始まる。
東の海が白み、湿った潮風が王都の外壁を撫でる頃、見張り台の兵士たちは夜の報告を交わす。南西の森で火の手あり。北方の旧街道に足跡あり。第七水路に流木。外郭南端の逆茂木に大型獣の死骸。
異常なし、と兵士は記録した。
この国でいう異常なしとは、そういう意味だった。
壁の外に何かがいるのは当然である。夜の闇から悲鳴が聞こえる事も、森の奥で巨大な影が動く事も、朝になれば道の端に血の跡が残っている事も、珍しい事ではない。
それでも壁が破られていなければ、異常なし。
しかしその日、ワラネ南西門の上は、朝から騒がしかった。
旧開拓道方面へ出ていた王国軍第九大隊と、術士兵団第一戦団が帰還する。
そう知らせが入ったからである。
人々が朝食の片付けを終える頃には、街の喧騒はすっかり本格的な顔つきになり、歓声は、門の内側から先に聞こえた。
勝ったのだ、と誰かが叫んでいた。
紅蓮の術士が”ツノ持ち”を焼いたのだ、と別の誰かが叫んでいた。
噂は、隊列よりも足が速い。
負傷兵を乗せた荷車よりも。
泥と血に汚れた盾兵よりも。
焦げた甲殻を運ぶ兵よりも。
人々の声は先に都市へ入り、英雄の名だけを膨らませていた。
その声の中心にいたカランは、ただ面倒そうに目を細めていた。
「おいおい、そんな嫌そうな顔をするなよ、お前が一番の功労者なんだぞ?」
そう声をかけてきたのは、術士兵団第一戦団の戦団長ダルミンその人だった。
「…戦団長、俺が一番の功労者なら静かに帰らせてほしいですね、目立つのは仕事に含まれていませんから」
人に見られるのは疲れる。注目されるならなおさらだ。
「含まれてるさ、英雄ってのは、見られるのも仕事だ」
この国に英雄などと、そんな仕事も公的な役職もない。
「追加報酬、期待してます」
されどそれを求めるのが民衆だ。
「はっはっは!お前らしいな、心配しなくても今回の恩賞は大きいぞ!通常任務の”平鎧”の討伐数に加え、あの水準の”ツノ持ち”はそうは出ない」
これだからこの戦団長は憎めない。
「”平鎧”なら一撃で焼き尽くすぐらいの火力だったのですが、あの”ツノ持ち”の外殻は討伐直後も充分に資源利用可能な状態でした。それに聞いた話によると随分と戦い慣れしていたとか」
「ああ、戦闘中の判断力は敵ながら大したものだったと思う。正直かなり危ない状況だったな」
術士兵団でも選りすぐりの第一戦団。そこから怪我人が出たのは久しい。
「それもそうですが、俺は出現時の状況が気になります。報告に聞く第九大隊の序盤の対応は決して悪いものではありませんでした。模範的対応に加え、局所的に狩場も作ってみせた采配は的確です。ですが”ツノ持ち”はその裏をかいてみせた」
実際、勝ち戦とまではいかなくとも、新設の大隊にしては戦況は有利に運べていただろう。
「確かにな、敵影を確認した時には”ツノ持ち”の姿はなかったと聞いた。戦術を使ってくる”横ツノ”ならともかく突撃至上の多い”縦ツノ”にしては妙だな」
”ツノ持ち”は大別して”縦ツノ”と”横ツノ”に分けられる。呼称理由は単純に頭部のツノが縦に分かれるか、横に分かれるかの違いでしかないが、その行動傾向は異なる。
”横ツノ”は戦術を用い、遊撃や奇襲、守りの戦い方もしてくるが、”縦ツノ”は”平鎧”の先頭に立ち、強引な正面突破を仕掛けてくる場合がほとんどだ。
「それに加え、出現した場所です。”平鎧”を使って探ったのでしょう、練度の低い小隊を見極め、主力の行動を待ち、確実に弱点を突いた。通常の”縦ツノ”であれば主力の位置がわかった時点で、そこに突撃してきそうなものですが」
”縦ツノ”は好戦的な個体が多い。それは術士兵団では共通の認識だ。
「…む、そうだな。お前の言う通りだ。流石、鋭いな!」
ダルミンはニッコリと笑った。嫌な予感がする。
「明日の議会報告にはカラン、お前にも付いて来てもらおうか!」
カランは眉間を揉み、天を仰いだ。
「ははははっ!心配するな!報告自体は俺がやる、お前は必要な時に必要な意見を助言してくれたらそれでいい。また今度飯奢ってやるからさ。ほらっ、もう門を越えるぞ。炎の英雄様の凱旋をみんなに見せてやれ」
背中を軽く叩かれ、自然と背筋が伸びる。
南西門の内側に入った瞬間、音が変わった。
荒野の風が背後へ遠ざかり、代わりに人の声が押し寄せてくる。
石を打つ槌の音。荷車の軋む音。水路を流れる水の音。炉から吐き出される煙の匂い。
壁の内側には、生活があった。
「紅蓮の術士だ!」
「歴戦の”ツノ持ち”を焼いたんだってよ!」
「炎の英雄だ!」
「第一戦団長もいるぞ!」
誰かが叫び、誰かが手を振り、誰かが子供を肩に乗せる。
門前広場に集まった人々の視線は、隊列の中央にいる術士へ注がれていた。
カランは、その視線を受けながら、内心で小さく息を吐いた。
腰ほどのダンゴムシ魔獣に引かれる荷車の上では、負傷兵が顔に布をかけて眠っている。
その隣の荷車には、眠っていない者たちもいた。
泥と血に汚れた盾兵は、歓声に応えようとして、上げかけた手を途中で下ろす。
だが民衆は、それを見ない。
見えないのではない。
見続けられないのだ。
だから彼らは英雄を見る。
焼け焦げた甲殻ではなく、紅蓮の炎を見る。
布をかけられた兵ではなく、生きて帰った者の名を呼ぶ。
失われたものではなく、失われずに済んだものを見る。
「手くらい振ってやれよ」
自らも手を振りながら、ダルミンが小声で言った。
「そういう仕事は戦団長の方が向いています」
やはり注目されるのは疲れる。
「みんなはお前に言ってるんだよ英雄殿」
少なからずダルミンへ向けられた声援もあると思うが。
「追加報酬に含まれているなら考えます」
「含まれてる含まれてる。多分な」
カランは一瞬、面倒そうに目を細めたが、それでもほんの少しだけ右手を顔の横に掲げる。
門前広場が一際大きく湧いた。
「おいおい相変わらずすげぇな!英雄様はよっ」
後ろから新たに声をかけられた。
「バルドさん、からかわないでください」
後ろから声をかけた中年の術士、バルドはガハガハと少々品のない笑い方をしながら言った。
「いいじゃねぇか!活気が出てよぉ!」
「そうだぞカラン!民衆の笑顔も報酬の内だぞ!」
「戦団長まで…戦団長には実利のある報酬を期待しています」
そう言いつつもカランは無造作ながら方々へ手を振った。やはり一際大きく湧く。
「おぉそうだ!戦団長!俺も実利のある報酬の話をしに来たんだ!」
「なんだぁ?実利ぃ?」
「決まってるでしょう。飯ですよ飯!」
「お前はいつもそれだな」
「生きて帰ったんです。飯を食わなきゃそりゃ嘘だ」
「まぁその前に兵舎なんだがな」
ダルミンの当然の主張に、バルドは大げさに額を押さえた。
カランはそんな会話を他所に周囲を見渡す。
人々は笑っている。
兵士たちも、少しずつ笑い始めている。
焦げた荒野の匂いは、まだ服に染み付いていた。




