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 夜明け前、人々は大きな――黄金の旗を立てた天幕の前に集まっていた。ちょっとした広場のような空間に、台がもうけられていた。

 台上には長い旗竿が立ち、神を祀るための小旗がいくつも並んでいる。慈愛を示す淡紅色、恵みの碧緑、力の真紅。いちばん下には世界の終焉をあらわす漆黒、そして上にはひときわ大きく、神の裁きを象徴する白旗。金糸で縁取られたその旗は、今は重たげに垂れている。旗竿を引き倒しそうなほどに。

 無風である。


 アブラシャヒムは、上空から眺めていた。誰も上など見ないから、気づかれる心配もない。

 人間たちは、首長と仰ぐ男と、彼の部下である戦士ふたりが腕をとって立たせている男に注目している。

 アブラシャヒムもまた、同じものを見ていた。背中の傷が治っていないのだろう、白い衣のところどころは血に染まっている。髪は誰かがととのえたようで、ひとつに編まれ、右肩から胸へと垂れていた。

 旗のようだ、と魔神は思った。風にひるがえることなく項垂うなだれる、裁きの旗だ。


「神よ!」


 首長が、大音声だいおんじょうで呼ばわる。聞き覚えのある声だった。

 ラファルの双子の兄は、獅子の鬣のような黄金の髪に、艶のある褐色の肌をしていた。ラファルとは、まったく似たところがない。


「謹んで、これなるにえを捧げん。我に地上の正義を、あまねく罪を裁く力を!」


 ひゅうぅ、と。応えるように風が吹いた。薄布でつくられた小旗がひらひらと動くが、裁きの旗は微動だにしない。それだけは、厚みが違う。細工も違う。うっすらと明るくなりつつある空に、ただ灰色の影として君臨している。


「神よ! 神の使徒、天使よ!」


 ふたたび、風が起きる。人々は息を呑み、奇跡を待つ。

 白い男が台上に引き立てられた。首を落とすためだろう、両膝を突かされるが、抵抗の気配もない。深くうなだれれば、垂れた毛先がその膝先にとぐろを巻いた。


 アブラシャヒムは、人間が天使を喚ぶ理由を知らない。興味もない。

 だが、天使がなにを成すかは知っている。


 ひとつ、聖王の選定。神より預かった聖剣で王を祝福し、必要とあらばこれを守る。

 ひとつ、征伐の告知。これと聖王の選定は、ほぼ同一の相手になされる。地上で神にあだなす敵を征伐するために聖王が選ばれるといっても、間違いではない。

 ひとつ、聖なる審判。これのみ、神の意向を確認することなく、天使が判断しておこなうことを許されている。


 天使は人間の浅慮せんりょを許さない。視界に入り次第、厳しく断罪する。もちろん、魔神なども見逃すことはない――地上に在る魔神は、世界に混迷をもたらすものであると認識しているがゆえに。


 アブラシャヒムは東の空を見た。凄まじい勢いで飛んでくるものが、ある。ふたつ。先を行くのは魔神、後を追うのは天使だ。魔神は必死の形相ぎょうそう、天使は無表情である。

 にやりと笑って、彼は小さな壺を取り出した。


「戻っていいぞ、カダメール」


 たちまち、魔神の速度は目にもとまらぬものとなり、しゅうっ、と壺に吸い込まれる。壺の中から聞くに耐えない悪口雑言が響いたが、アブラシャヒムは無視した。

 獲物を見失った天使は、そのまま突き進む。突風が旗を煽り、人々も東の空から来るものに気づく。白熱する光の塊、虹色にかがやく四対の翼。

 人間たちはそれを伏し拝んだ。歓喜にふるえて涙する者もあった。我らが首長が選ばれる、聖王になるのだと期待の声が、ひそかに響いた。

 首長が両手を挙げる。なにかを受け入れようとするように。


「おお、御使いよ! 今、これなる命を捧げまする! ……やれ」


 白い男の首が落とされ、血が飛び散る。台から落ちて転がる首を見る者は、誰もいない。皆が天使を、光を見ている。

 アブラシャヒムは口の端をかすかに上げた。

 愚かなことだ――天使は不浄を嫌う。天使は生贄など欲していない、むしろ聖なる征伐以外での殺し合いは神の意志にもとると倦厭けんえんしている。

 天使はかれらの価値観にもとづき、聖なる審判をおこなう。


 光が増し、人々は狂喜に染まる。神の御使いが来る、われらは神に選ばれる! 通りすがりに神の裁きを受けるだけとは、気づいていない。

 人間たちは、あの白い光を受け入れるほかない。裁きの光である。

 天使が光の刃を抜きはなつ動作を見るや、アブラシャヒムは魔界に戻った。巻き添えにされる気はなかったからだ。


「おい、魔界でくらい外に出せ」

「外に出てどうする。壺に繋がれ、哀れな下僕に落ちぶれたことを喧伝けんでんするのか?」


 カダメールは黙ったが、それは束の間のことだった。

 昔から、話が長くてうるさい魔神だ。今もまた、黙っていることに耐えられないようだ。


「いつ天使に追い付かれるか、ひやひやしたぞ。まぁ、我ほどの魔神ならば? 天使ごときにやられるはずもないがな?」


 アブラシャヒムは答えない。壺に戻さねば消し飛ばされていただろうに虚勢をはってくるカダメールを、理解できないと思うだけだ。


「さて、では次の願いだ」

「アブラシャヒムともあろう者が、余人に願いを掛けるとはな」

「うるさいから、俺が命じるまでは黙っていろ。これが、ふたつめの願いだ」


 壺の中の魔神は黙った。なによりの拷問になりそうだと思いつつ、アブラシャヒムはふたたび地上へと戻った。

 あの野営地は、無惨な有様となっていた。天使の裁きは迅速且つ無造作におこなわれたようで、なにもかもが半端に消し飛んでいる。天幕のほとんどは上部を切り取られ、支えを失って倒れていた。立っていた人間は全員、脚しか残っていなかった。上体は――天使の力が強過ぎて、完全に消し飛んだのだろう。地に伏していた人間の何名かは生き延びたようだが、あたりの惨状を目にして悲鳴をあげるか、頭を抱えて見なかったことにしようとするか、まぁ……どれも見苦しいことこの上なかった。


 魔神の眼力を使えば、あたりに魂が浮かんでいるのがわかる。ここは、天使の裁きを受けた地となった。今ある魂は、天界に上がることなど望めない。いずれは魔界に堕ちてくるだろう。

 だが、それを待つなどアブラシャヒムは御免だった。彼は若く、魔神にしては短気であるがゆえに。


「ラファル」


 名を呼べば、白くかがやく魂が引き寄せられるのがわかった。

 魔神は、あらかじめ入手しておいた人形を示した――あの天幕にいた、闇にかがやく黄金のような人形だ。


「来い、ラファル。俺の下僕となれ」


 すうっ、と魂はその人形に宿り、ぱちりと眼をしばたたいた。まるで生きているかのようだ。


「……アブラシャヒム、戻って来たの?」

「ご主人様と呼べ。今日から貴様は俺の下僕だ」


 ゆっくりとあたりを見回し、人形は少し悲しげな顔をした。


「これは君の仕業……ではないよね」

「ああ。天使のしたことだ」

「わかっていたんだ……彼が聖王の器ではないことくらい」


 俯いた人形の顔は、悔恨に満ちていた。人間だったときより、よほど表情が豊かだ。


「ラファル」


 名を呼べば不思議そうに顔を上げ、それでも従順に答える。


「はい、ご主人様」

「過ぎたことは考えるな。この先のことを考えろ」

「この先……」

「世界の終わり、審判のときが訪れるまで――あるいはこの魔神アブラシャヒムが消失するまで、貴様は生きるのだ」


 ぼんやりとしていた眼差しに、光が灯る。


「私は死んだのに?」

「生きながら死んでいたのだ。次は、死にながら生きてもよかろう」

「死にながら生きれば、数えきれないほどの夜明けと日没を見ることができるだろうか」


 夢みるように唱える言葉を、魔神が引き取った。


「そうだ。貴様の心が及ばぬほどの遠くへ行き、世界のすべてを眺めるがよい。俺に逆らわぬ限り、貴様は自由だ」


 自由、と口の動きだけで人形はつぶやいた。それから、魔神を見る。


「なぜなんだい、アブラシャヒム? どうして私に情けをかける?」

「覚えておけ。情けなど、魔神にはない。俺はただ――味方がいるのは悪くないと判断しただけだ」


 それを聞いて、人形は微笑んだ。


「誓おうとも。この命が尽きるまで……ではないな。この魂が消滅するまで君の味方でいるよ、私の魔神」


 アブラシャヒムは、むっつりと答えた。


「ご主人様、だ」

「いいじゃないか。私は君のものなのだから、逆だってそうだろう?」


 楽しげに問い返す人形をアブラシャヒムはその腕に抱え、魔界へと戻った。



     *     *     *



 その後、天使の啓示により新たな聖王が立ち、一帯を治めた。裁きの地となった野営跡は悪霊の地と呼ばれることになったが、これも聖王の征伐によって浄化されたという。

 生贄として首を落とされた男の怨念がその源だったと、今もまことしやかに伝えられている。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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