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第三の願いは、「空を駆けてみたい」というものだった。
願いを叶えるべく、アブラシャヒムはラファルを抱えて天幕を出た。見張りらしい男がふり向いたが、まだ残っていた甕を使って即座に眠らせた。便利だ。
「この甕も貴様がつくったのか」
「いっただろう、私は魔術師ではないんだ。買い求めたものだよ」
魔術師ではないといいながら、魔界までその手を届かせる。呼び名がどうであろうと、ラファルは並の魔術師では不可能なことを可能にした。
信じがたい話ではあるが、実際に目にしたから疑うこともできない。ラファルの言葉に嘘がある可能性も拭えないが、まぁどうでもいい、とアブラシャヒムは思った。
死んでしまえば、当面、脅威にはなり得ない。
――こいつの命は夜明けまでだ。
アブラシャヒムが手を下すまでもない。ラファルの双子の兄弟だという男が、命を奪う。神に捧げるために。
腕の中で、ラファルがつぶやいた。
「……上から見ると、こんな風なのか」
兄弟からあまり離れることができないらしいラファルだが、空へ上がるには十分だ。地上ならわずかとしか思えない距離も、上へ伸ばせば遥かに遠い。
「人間の眼には、暗いだろう」
地上に来るのがはじめてだったアブラシャヒムとて、それくらいのことは知っている。ラファルは小声で答えた。
「野営の火が見えるよ」
地上に星を撒いたようだ、と。ラファルはほとんど吐息と変わらない声を漏らす。魔神のするどい耳でなければ聞き取れないほどの、儚い言葉だ。
「星はもっと明るいだろう。上を見ろ、ほら」
「雲があるよ、アブラシャヒム」
「雲を抜けたいか?」
ラファルは眼をしばたたいた。子どものように幼い笑顔で問う。
「できるの?」
アブラシャヒムは薄くたなびく絹雲を抜け、さらに上空を目指した。
雲の上に待っていたものは、満天の星空であった。どこもかしこも青白いきらめきに満ちている。無情な美であった。
しかし、せっかくの星空を前に、ラファルは眼を伏せた。
「どうした、見ないのか」
「こんな清浄な光、私が見てはいけない。私の眼差しで穢してはならないものだ」
「なにをいう。貴様の視線ごときで星が穢れるものか。眼を開けろ」
「駄目だ。私は世界に仇なそうとした」
燃やし尽くしてもらおうと、思ったんだ――ラファルはささやいた――この地上をすべて、アブラシャヒムの力が及ぶ限りの業火をもって。
「燃やしてしまいたかったんだ、なにもかも」
ラファルの言葉は、アブラシャヒムを納得させた。そうだ、この男はこういう昏さの中に生きている。これが本音だ。
「ならば、それを願えばよかっただろう」
「そのつもりだった……でも、願わなくてよかった」
雲の下を見透かすように、ラファルはささやく。
「私の……目と耳は遠くまで届くし、さまざまなできごとを見聞きしてきた。王のための間諜だ。人が簡単に死ぬことなど、誰よりよく知っている。残酷なものも、多く目にした。末期の悲鳴も数えきれぬほど聞いた。でもそれは、どこか遠いできごとだった……だけど」
大きく息を吐いて、ラファルはそこで言葉を切った。そして、黙してしまった。
アブラシャヒムは待った。
長い長い魔神の命に比すれば、一晩空をただよう程度、須臾の間に過ぎない。アブラシャヒムは若く、魔神にしては時間を意識する方だが、それでも尚――人間の一生の短さや、その重みを理解しかねるのも事実だった。
かなりの時間が過ぎたのち、ラファルが口を開いた。
「少し東に行けるかな。街が見えるかもしれない。街の向こうは海なんだ。灯台があるんだよ。きっと、すごく明るいだろうな」
だが、ラファルが灯台を見ることはなかった。兄との絆が作用しそうだからと、途中でアブラシャヒムを止めたからだ。
「無理に引き戻されるのか?」
「それは試せていないから、わからない。離れようとすると、胸が苦しくなる。とても自分では動けないし、無理をすれば心臓が止まるとわかるんだ」
「貴様の兄弟も痛みを覚えるのか」
「いや、胸がむかつくとは話していたけど、痛むとはいっていなかった。……こんなところでも不公平なんだな」
もっとも、今の私は違和感を覚えるのみで痛みはないのだから、もっと遠くへ行ってもいいんだけどね、と。
そう笑いながらも、ラファルは戻るよう指示した。
「もう地上に下りるのか」
「……そうだね」
「すべての願いを叶え終えたと看做してかまわないな?」
「もちろん。君は自由だよ。あの瓶を割るといい」
「魔界に戻る前に、貴様の願いを叶えてやろうか? 地上を燃やし尽くすという」
「できれば、やめてほしいな。さっき、野営地の篝火を見ただろう? あのひとつひとつ、誰かが灯して守っているんだ。人間が、そこで生きている。私の事情など知らない人々が、王が祝福されるのを待っている。それが国のためになることだと、心から願ってさえいる」
「胸糞悪い。燃やしてしまえ」
「皆、生きている。生きているんだ。燃やしてしまったら、命は尽きる。それを元に戻す方法はない。命は蘇らないんだよ、アブラシャヒム」
魔神をみつめるラファルの眼は、月に似ていた。淡い影を帯びた白銀の虹彩の中心に、夜を凝縮したような黒瞳がある。これは、闇に染まらぬ光だ。夜を照らす道標の明るさだ――アブラシャヒムは、そう感じた。
「昏いとばかり思っていたが、貴様は存外、明るいのだな」
「私は陽気な男だよ」
見当違いの返事をして、ラファルはへらりと笑った。
「夜明けには、まだ間があるが……もういいのか」
「いいよ。気が済んだ。ありがとう、私の魔神。妙な願いにばかり、つきあってくれて」
「礼をいわれるようなことではない」
魔術に縛られて、契約を果たしたに過ぎない。
高度を落とし、アブラシャヒムはラファルを元の天幕に戻した。思ったほどには時間が経っていないのだろう、先ほど寝かしつけた見張りは、転がったままだった。
地に足を付けたところで、ラファルはうなずいた。
「私の願いはすべて、叶えられた。契約満了にともない、瓶の魔神アブラシャヒムを解放し、すべての束縛から自由にする」
宣言がなされたとたん、アブラシャヒムの魂はぶるりと震えた。たしかに封印が解除されたことを感じると同時に、魔力を送り、遠くの天幕にある瓶を割った。ぱりんという手応えに満足したとき、頬にふれるものを感じた。
ラファルの手だった。
「さようなら、私の魔神。私の心が及ばぬほどの遠くへ行き、数えきれない夜明けと日没を見て、どこまでも自由であれ。契約は切れたが、覚えていてくれ。私は君の味方だ」
暫しの間。アブラシャヒムはラファルをみつめ返した。底なしの穴のような双眸で。
そして、魔神は姿を消した。
次回、最終回です。




