第70話 火葬戦記
「敵軍、退いていきます!」
火の手が上がる奉天城と、クモの子を散らすように去っていくロシア軍。
焦土戦術のつもりだろうか。史実通り、こちらを北満州へ引きずり込むことによって。
「追撃なさいますか?」
「せずとも結構」
玲那が断ると、別海睦葉は息を呑んだ。
「それは……」
「する必要がございません。わざわざ道をお譲りくださいましたもの」
奉天から無傷でどかすことができた。無駄な流血を避けることができた。それに、なによりも。
「ここから先に、憚る敵なし」
敵の主要な陸上兵力はまんまと北へ撤退した。すなわちここから東に敵は残っていない――残り500キロの進軍路はガラ空きだ。それを言うに及ばず、察した兵士たちはざわつき始める。
「け、闕杖官殿」
「それって、もしや……?」
答えを待つ衛戍府に振り返り、口角を上げ、玲那は笑う。
「ええ、やったのです。趨勢は決しましてよ、諸君!」
一瞬場が凪ぎ。
ワァアアアアア―――!
雄叫びが沸き起こった。
敵司令部は誤った方角へ退却したため、電撃戦を押しとどめる堤は消えた。皇國はほぼゼロの犠牲で戦線を突破、展開する敵戦力20万の全てを撃滅。そして、戦略目標地点は丸裸。
バルバロッサ1904はいま、文句なしの完全試合になった。
「奉天の制圧は後続部隊に任せること。われわれは直ちに東進する!」
「はっ!」
互いに手を叩きあう彼らを眼前に、玲那は漸く安堵と感慨を握りしめた。
おもむろに肩を叩かれる。
(……?)
訝しげに振り向くと、頬に軽く指が当たる。
別海がこれ以上ないような明るい笑顔で人差し指を構えて背後に立っていた。
「ふふっ。闕杖官どの、やりましたね…!!」
その仕草に玲那は思わず微笑む。
「はい。戦闘は終了です……!」
頬を緩ませて深い喜びを伝える彼女の満開の笑顔に、静かに達成感を噛みしめた。
准尉――樺太で出会ったときは”伍長”だったか。あの頃の彼女は玲那の前じゃ口角を動かしすらしなかった。玲那に向ける笑顔などあり得なかった。
この禁闕部隊でも箱入り娘と馬鹿にされていた頃だ。
戦場で泥水啜って死体を踏み越えてなお、玲那は北洋開拓団つまりは樺太の人々5万人を一方的に見捨て去る様を甲板から拳を震わせて見届けるしかなかったのだ。
あの時、玲那は軍人としてどこまでも無力だった。
でも、現に今、眼前で彼女は笑顔を見せている。
少なくともそれに値する信頼を、玲那は得られるようになったんだろう。
「闕杖官どの、戦争はまだまだ続きますかね」
「いいえ。司令部も撤退した以上、迅速な戦線立て直しは不可能です。あと二月内にウラジオストクを落としさえすれば。……もはやロシアに極東の端っこで大戦争を続ける余裕はございません」
彼女は顔を輝かせる。
それに応えるように玲那は笑う。
「このザマです。ここから最終目標まではもうマトモな抵抗もなくってよ。あとの仕事は2ヶ月ほど軽いドライブをするだけ」
「……はいっ!」
別海はそう残して去り、盛り上がる大隊の輪へと戻っていく。
玲那は玲那で銃器に不調がないか整備でもしようかと思い、工具を探そうと立つ。
すると、別海を含めた衛戍府の皆がこちらに手招きしていた。
「闕杖官どの、胴上げしましょう?」
「……はい?」
当惑していると彼らは瞬く間に玲那を囲む。
「さぁ行きますよ少佐殿!」
「お待ちください、玲那は――」
「勝利に際して大隊の無事と少佐殿の功績を讃えて!」
「「「万歳!」」」
拒む間もなく玲那の身体は宙に浮く。
玲那は司令部に述べたいことのたまっただけで功績なんてないのだが。というかそれを言うなら、玲那の強行した作戦に付き合ってくれた大隊へ玲那は感謝せねばならない。
「ありがとう存じます!」
歓喜の嵐の中に身体は浮いたり沈んだりを繰り返しながら。
玲那はすっかり暗くなって星が煌めき廻り始めた全天に手を伸ばし、それを掴み寄せるように腕を戻す。
(すこしは、まともな軍人になれたみたいです……)
二度とあの北方戦役の悲劇が、屈辱が繰り返すことないよう誓いを新たに。
玲那はもう無力じゃないと心に刻んだ。
そして多分、きっと。




