第9話 分かち合う痛み
翌日の昼休み。
俺はいつも通り、葵と伊織の机をくっつけて、三人で弁当を広げていた。
昨日の放課後、伊織の前であんなに無様に泣き崩れてしまった気まずさを必死に隠して、俺は努めて明るい声を出した。
「いやー、今日の小テスト最悪だったわ!葵、ノート見せてくれよー」
「もー、絢人はいつもギリギリなんだから。はい、これ」
無邪気に笑ってノートを差し出してくれる葵。
よし、いつもの俺だ。いつもの平和な昼休みだ。
伊織に醜い本音をぶちまけてしまったことなんて、葵は微塵も気づいていない。
そう思って小さく息を吐いた、その時だった。
「……絢人」
「っ、なんだよ」
不意に、正面に座っていた伊織から声がかかる。
昨日の今日で顔を合わせるのが気まずくて、ここまで意識的に視線を外していたのだ。
恐る恐る顔を上げると、伊織は頬杖をついたまま、じっとこちらを見つめていた。
いつもの、葵以外には欠片も興味がないような無関心な瞳じゃない。
どこか探るような、あの泣き顔の奥を暴こうとするような妙な視線だ。
「……別に」
伊織はふっと目を細めると、不意にすっと手を伸ばしてきた。
整った白い指先が、俺の目元を――昨日、乱暴に擦って赤くしてしまった目尻を、そっと撫でる。
「ひゃっ……!?」
「まだ、ちょっと赤いね。ちゃんと冷やして寝なかったでしょ」
「〜〜っ!?な、なんのことだよ!」
俺は弾かれたように顔を背け、バシッと伊織の手を払いのけた。
心臓がバクバクと五月蝿く鳴っている。
「え?絢人、目どうしたの? 痛い?」
「な、なんでもねえよ!ゴミが入っただけ!」
心配そうに覗き込んでくる葵に誤魔化しながら、俺は伊織を睨みつけた。
当の伊織は払いのけられた手を気にする風でもなく、ただ小さく、どこか楽しげに口角を上げている。
いつもの冷ややかな嘲笑とは違う。
まるで、おもしろいおもちゃを見つけたかのような顔をしていた。
◇
数日後の、放課後。
教室に残って三人で課題を片付けていた時だった。
葵がふと、言いづらそうに口を開いた。
「……あのさ、二人とも」
「ん?」
「ちょっと、れ、恋愛相談…に…乗ってくれないかな」
真っ赤な顔で控えめに言う葵。
ピシッ、と。
その顔と言葉に、俺の思考が完全に停止した。
隣でスマホを弄っていた伊織の指も、ピタリと止まったのが視界の端に映る。
「れん、あい……?」
間の抜けた声を出した俺に、葵は照れくさそうに頬を掻いた。
「うん。二人ともモテるからさ。その……どうやったら相手に引かれないように、自然に……、れ、連絡先とか、聞けるのかなって……」
葵の口から出た『恋愛』という単語に、心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。
胸の奥が急速に冷たくなるのを必死に誤魔化しながら、俺は慌てて声を張り上げた。
「い、いやいや!葵だってモテるだろ!? ほら、この間も図書委員の子が来てたし……!」
「え!?違うよ! あれは本当に、図書委員の用事があっただけで!」
「……は?用事、だけ?」
「うん。来週のシフトを代わってほしいってお願いだったの。俺がモテるわけないじゃん」
なんだ、そうだったのか。そう安堵した次の瞬間。
あの放課後の記憶が、鮮明にフラッシュバックした。
『顔に出したって、葵を困らせるだけじゃねえか……っ!』
あの日、伊織の前でボロボロと無様に泣き崩れたきっかけは、葵が告白されると思ったからだ。
ただの委員会の業務連絡だったのに、俺はあんなに感情を爆発させて泣いていたのか。
(うわ……っ、最悪だ……!)
事の真相を知り、後から込み上げてきた猛烈な羞恥心に、顔から火が吹き出しそうになる。
「……っ」
俺はたまらず、両手で顔を覆って俯いた。
耳の裏までカッと熱くなっているのが自分でもわかる。
「絢人?どうしたの、顔赤いよ。熱でもある……?」
「あっ、えっと、ごめん!なんでもない!れ、恋愛相談、だったよな……!」
心配そうに覗き込んでくる葵の声に、俺は慌てて顔を上げて誤魔化した。
その時、ふと強い視線を感じて横を向くと、頬杖をついた伊織とバッチリ目が合った。
その目は、俺が今何に気づいて恥ずかしがっているのかを完全に察していて、底意地悪く細められている。
(……っ、何見てんだよ!)
本当に、最近こいつには嫌なところばかり見られている気がする。
俺が声に出さずに鋭く睨みつけると、伊織はふっと面白そうに口角を上げる。
本当に、憎たらしい奴だ。
すると、伊織はすっと葵の方へ目線を動かした。
「葵の好きな人って、嶋坂さん?」
「!?えっ、な、なんで知って……!」
伊織の口から出た名前に、葵はみるみるうちに顔を赤くした。
(か、可愛い……可愛すぎる……っ)
……じゃなくて!
やっぱり、葵の好きな人は嶋坂さんなんだ。
数日前、図書室のラウンジで見かけた光景が脳裏に蘇る。
葵が嶋坂さんと向かい合い、俺の前以外では見せたことのない笑顔を向けていた、あの時のことを。
葵が嶋坂さんに恋をしているのは一目瞭然だった。
それでも、葵の口から知らされるのは当然ながら落ち込んでしまう。
底なし沼に突き落とされたような絶望感に襲われながらも、俺は必死に『一番仲のいい男友達』の分厚い仮面を顔に貼り付けた。
「へえー!嶋坂さんか!いいじゃん、図書委員同士で!」
「そ、そうかな……」
「おう!俺と伊織でバッチリ作戦練ってやるから任せとけって!」
ひきつりそうになる頬に無理やり力を込めて、明るくおどけた声で笑う俺の横顔を、伊織がじっと見つめてくるのを肌で感じた。
(……見るなよ)
分かる。
こいつの考えてることが手に取るように。
俺がこうして笑って誤魔化しているのが、また気に食わないのだろう。
だけど、仕方ないだろ!
俺はこの気持ちを葵に伝える気なんて一切ないのだ。
こうやって必死に自分の気持ちを誤魔化すことこそが、俺にとっての正解だ。
俺は悟られないよう、そっと横目で伊織を盗み見る。
(つうかこいつ、前に嶋坂さんにちょっかいかけてたよな……)
葵を遠ざけるための邪魔をしようとしたはずなのに、嶋坂さんは伊織にはなびかず、結局は不発に終わっていた。
今、こいつはどんな思いでこの相談を聞いているんだろう。
無表情を貫いているけれど、きっと顔に出していないだけで辛いに違いない。
少なくとも、俺と同じくらいには。
そこまで思って、俺が感じたのは、伊織への同情と、僅かな安心感だった。
気持ちを知られた時はどうしようかと思ったけれど、少なくともここにもう一人、同じ気持ちを抱えている奴がいる。
それはひどく後ろ向きな理由かもしれないけれど、今の俺にはどうしようもなく慰めになった。
こんな地獄みたいな状況でも、同じ痛みを知る伊織の存在が、今は少しだけ心強い。
今この瞬間、一人じゃなくて良かったと、そう思った。
◇
放課後の教室から葵が部活へと向かい、残された俺と伊織は二人きりになった。
少しの沈黙の後、俺はたまらず口を開いた。
「……ショック、だよな」
俺の言葉に、伊織は窓の外をぼんぼりと見つめたまま、微かに肩をすくめた。
「うん、まあね。でも、いずれこういう日が来るとも覚悟してたよ。いくら虫を潰したところで、全部防げるわけでもないしね」
その淡々とした声を聞いて、俺は小さく息を吐いた。
(覚悟してたから、か。……まあ、そうだろうな)
伊織が普段から色んな女の子と遊びまくっているのも、元を正せば葵への報われない感情を紛らわすためだったのだ。
いつか葵が誰かのものになることなんて、こいつ自身が一番わかっていたはずだ。
それでも。
(……なんか、思ったよりあっさりしてるな?)
もっと取り乱すとか、もしくは不機嫌になると思っていた。
いや、人の心なんて表面だけじゃ分からない。
こいつの葵への執着心は、常軌を逸していると言っても過言ではないのだ。
であれば、当然俺なんかよりもずっと深いショックを受けているに決まっている。
「……伊織、お前、大丈夫か?」
心配になって声をかけると、伊織はこちらを振り向き、きょとんとした顔をした。
「ん?いや、全然大丈夫じゃないけど?」
「っ、さらっと言うことかよ……!」
あまりにもあっけらかんとした返しに、俺は思わず突っ込んでしまった。
「オレの葵に近づくなんて、ほんと許せないよ」
「お前のじゃねえよ」
脊髄反射で言い返すと、伊織はふっと口角を上げ、また窓の外へと視線を戻した。
「……けど、正直はじめてなんだよね。あそこまでオレに靡かなかった子って」
「……!」
伊織の口から出た言葉に、俺は息を呑んだ。
伊織の容姿は、同性の俺から見ても腹が立つほどに整っている。
それに加えて、この甘く響く声と、相手を容易く勘違いさせる蠱惑的な振る舞いだ。
今まで伊織が葵から遠ざけようとターゲットにしてきた女子たちは、例外なく伊織が少し優しく微笑みかけ、甘い言葉を囁くだけであっさりと頬を染め、思い通りに転がされてきた。
それほどまでに、伊織の魅力は強烈で、圧倒的だったはずだ。
それなのに、伊織がどれだけ甘い顔と声でちょっかいをかけても、嶋坂さんは全く興味がないようだった。
「嫌だけど、マシではあるかな。……いっそ、嫌な子だったら良かったんだけど」
伊織の呟きには、珍しく飾らない本音が滲んでいた。
もし相手が葵に相応しくないような子だったなら、伊織はどんな手を使ってでも引き離そうとしたはずだ。
けれど、嶋坂さんが相手では、そうもいかないらしい。
彼女は、葵が好きになるのも納得してしまうほど、真っ直ぐで良い子なのだ。
そんな彼女を理不尽に排除して葵を悲しませることなど、どこまでも葵を最優先にしているこいつには到底できないのだろう。
「……お似合い、だよな。葵と嶋坂さん」
ポツリとこぼした俺の言葉は、静かな教室に虚しく吸い込まれていく。
ふと、横から強い視線を感じて顔を向けると、伊織がじっとこちらを見つめていた。
(またかよ……なんか最近、よくこっち見てくるよな、こいつ)
その底知れない瞳に見透かされているようで居心地が悪くなり、俺は顔をしかめた。
「……なんだよ」
「いや、今日は泣かないのかなって」
「……っ!そんな簡単にすぐ泣かねえよ!」
サラッと言い放たれた言葉に、俺は弾かれたように言い返した。
「そう?」
「うぐ……っ、そうなんだよ!」
痛いところを突かれて言葉に詰まりながらも強がると、伊織は窓の外へ視線を戻し、ポツリと呟いた。
「そっか。……残念」
「は?」
「ん?」
「なんだよ、残念って」
聞き間違いかと思って問い詰めると、伊織は少しだけ首を傾げた。
「さあ。オレも分かんない」
「いや、お前が言ったんだろ!俺が泣くのがそんなに楽しいかよ」
「え?うーん、別に楽しくはないけど……」
楽しいかどうかなんて、本気で聞いているわけじゃない。
ただの売り言葉に買い言葉だ。
それなのに、なぜか伊織は顎に手を当てて、妙に真剣に考え込んでいる。
少しの間を置いて、伊織はふと面白そうな、どこか仄暗い色を瞳に浮かべてこちらを見た。
「……しいて言うなら、面白い?」
「ふざけんな!おもちゃじゃねえんだよ俺は!」
俺が声を荒らげて睨みつけると、伊織は声を出さずに小さく笑った。
その顔を見て、俺は毒気を抜かれたように息を吐いた。
相変わらず腹の立つ奴だ。
けれど、やはり、こいつがいて良かったと心から思う。
そして同時に、同じ絶望を抱えている伊織のことも、一人にせずに済んで良かった。
そんな思いが、ズキズキと痛む胸の奥をほんの少しだけ和らげてくれた。




