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第10話 揺らぐ心

葵の恋を応援するという、地獄のようなミッションが始まってから数日後。


いつものように三人で机をくっつけて昼休みを過ごしていると、葵がまた少し照れくさそうに「今日、朝の当番で嶋坂さんがね……」と話し始めた。

無防備に緩みきった葵の表情を見るたびに、胸の奥がギリギリと軋む。

その痛みを必死に笑顔で蓋をして、俺はわざとらしく天を仰いで大声を上げた。


「あーっ!俺も恋がしたい!」


「へ?」


俺の突然の言葉に、目を丸くする葵。


「……なに突然」


隣から、伊織の底冷えのするような低い声が降ってきた。

俺は二人の反応を気にする素振りも見せず、身を乗り出して葵に詰め寄った。


「だって!最近の葵、すげえ楽しそうなんだもん!嶋坂さんがどうしたこうしたってさあ、羨ましくもなるだろ?」


「ちょ……っ、絢人、声おさえて……!」


周りに誰かいないかと慌ててキョロキョロ見回し、顔を真っ赤にする葵。

その反応が面白くてたまらないという風を装い、俺は「はははっ!」と声を上げて笑った。


本当は、一秒でも早く耳を塞いで逃げ出したかった。

大好きな奴が、別の誰かに恋をして一喜一憂している話なんて、まともな精神状態で聞けるわけがない。

こうして「彼女が欲しくて羨ましがる陽気な男友達」のフリでもしていないと、嫉妬と絶望で今すぐここでおかしくなってしまいそうだった。


「もー……絢人もすぐできるよ。かっこいいし、優しいんだからさ」


「そうか?まあ確かに俺って彼女いないのが不思議なくらいかっこいいよなぁ!」


「あはは、ほんとにね。その気になったらすぐに出来るよ絢人なら」


「じゃあ、その気になっちゃうか!」


ニコニコと笑う葵を前に、さらに軽口を叩こうとした、その時だった。


ドンッ、と。

隣に座っていた伊織が、わざとらしく音を立てて自分の弁当箱の蓋を閉めた。


ビクッとしてそちらを見ると、伊織は頬杖をついたまま、微かに目を細めて俺をじっと見つめていた。

いつもの無関心な態度ではなく、明らかに不機嫌そうなオーラを纏っている。


『……無理して馬鹿なこと言ってんの、バレバレなんだけど』


声には出さない。

けれど、その薄く笑う唇と真っ直ぐな瞳が、俺の痛ましい虚勢を完全に嘲笑っていた。


(ひえ……っ、こ、こわ……)


凍りつくような伊織の視線を真正面から浴びて、俺は内心で盛大に冷や汗をかいた。

伊織はとにかく、葵の恋愛関連で俺が『道化』を演じることがとことん気に食わないらしい。


(いいだろ別に!俺がどうやって自分の心を守ろうが、俺の勝手じゃねえか!)


無言の圧力に耐えきれず、俺が引き攣った笑みのまま視線を逸らすと、伊織はゆっくりと箸を置いた。


「伊織……?どうしたの、機嫌悪い?」


空気を察した葵が恐る恐る尋ねると、伊織は一瞬でいつもの『親友』の柔らかい顔に切り替わった。


「ううん、別に。ただ、絢人があんまり馬鹿なことばっか言うから呆れてただけ」


(うるせえな!いつもバカバカ言いやがって!)


それから伊織は、午後の授業中も、掃除の時間も、事あるごとに俺を睨みつけてきた。

一体、何がそこまで気に食わないと言うんだろうか。



◇



放課後。


「実は今日、嶋坂さんと帰る約束してて……」


申し訳なさそうにそう言った葵に、内心ひどく傷つきつつも、俺は「順調そうで良かったな!」と精一杯の笑顔を作って見送った。


「……よし、じゃあ俺も帰るわ。じゃあな伊織」


三人で帰る時は一緒に、二人の時はバラバラで。

それは俺たちの中での、なんとなくの習慣だった。

だから一人で鞄を手に取り歩き出したのだが。


――なぜか伊織は、当然のように俺の隣に並んで歩き始めた。


「……?なんだよ」


「別に。オレも帰るだけだけど」


「嘘つけ、お前いっつも裏門から帰るじゃねえか!」


「今日は正門から帰りたい気分なの」


涼しい顔で言い放つ伊織。


いや、わかる。

わかるぞ、こいつのパターン……。


警戒しながら駐輪場へと続く渡り廊下を歩いていると、やがて、伊織がポツリと口を開いた。


「……絢人さあ」


(……きた!)


「うるせえ!いいだろ別に!」


伊織が言葉を紡ぎ終える前に被せ気味で怒鳴ると、伊織はパチリと瞬きをした。


「まだなにも言ってないけど」


「言わなくても分かんだよ!どうせまた、『お前のヘラヘラした笑い顔イラつく』とか言い出すつもりだろ!」


俺が言い返すと、伊織は少しだけ目を丸くした後、ふっと口角を上げた。


「へえ、よく分かったね」


(む、ムカつく……!)


「だから!別にいいだろって言ってんの!俺がどんな顔しようが、お前には関係ないだろ!」


そう言い放った瞬間、伊織がスッと目を細める。


(あっ、やばい。関係ないは流石に言いすぎたか……?)


少しだけ後悔がよぎる。

いや、でも!

あの愛想笑いは俺にとって長年培ってきた処世術であり、唯一の防具なのだ。

こいつにあれこれ言われる筋合いはないとそう思い直す。


「まあ、たしかに関係はないけど」


伊織が淡々とした声で返す。

その温度のない響きに少しだけムッとしながら、俺は口を開いた。


「……別に、嘘は言ってねえし」


「……?」


「羨ましいのはほんとだし?彼女とか、普通にほしいし!」


俺の言葉に、隣を歩いていた伊織の足がピタリと止まった。


「……彼女?絢人が?」


「なんだよ、おかしいかよ」


振り返って睨みつけると、伊織はどこか納得出来ないような顔をしている。


「いつまでも叶わない葵のこと想い続けるより、新しい恋した方が、俺のためにも葵のためにもいいだろ」


「……ふーん」


相槌ともつかない、ひどく冷たくて低い声。

伊織はそれ以上何も言わず、ただ薄く笑っているような、怒っているような、全く読めない顔で俺を見つめていた。


(……なんだよ、その意味ありげな『ふーん』は)


なんでいつもこいつは俺に対してこんなに高圧的なんだ。

釈然としない気持ちを持て余した俺の頭に、ふとこんな考えがよぎった。

いつもからかわれてばっかりなんだ、俺だってちょっとくらい、からかってやっても良いんじゃないか?


「なんだよ伊織。もしかして俺に恋人が出来るのが寂しいのか?」


「……え?」


ほんの軽い意趣返しのつもりだった。

いつもみたいに「は? 気持ち悪い」と鼻で笑われるか、「自惚れすぎ」と切り捨てられると思っていたのだ。


しかし、伊織の反応は予想外のものだった。


いつも余裕めいているその端正な顔から、すっと表情が抜け落ちる。

まるで見透かされたくない急所を突かれたような、あるいは自分でも気づいていなかった感情の正体を突然突きつけられたような、そんな不可解な空白が浮かんでいた。


からかうつもりだったのに、もしかして本当に寂しいとでもいうのだろうか。


言葉に詰まり、微かに視線を彷徨わせる伊織を見ているうちに、だんだんそんな気がしてきた。

思えば、葵への気持ちを互いに知ってからというもの、以前よりずっと一緒にいる時間が増えた。

俺自身、こいつが隣にいることに随分助けられている。

だったら伊織だって、少しくらいは同じなのかもしれない。


沈黙を肯定と受け取った俺は、途端に気が大きくなった。


「はーん、そうかそうか!俺に彼女が出来たら寂しいか!」


「……別に、そんなことないけど」


素っ気ない伊織の否定を一蹴するように、俺は得意げに話を続ける。


「安心しろって!仮に俺に彼女ができたとしても、お前を見捨てたりしねえよ。愚痴くらいは聞いてやるからさ!」


ドンと胸を叩いてみせると、伊織は心底嫌そうな顔をした。


「……うざ」


「とか言って、俺がいなくなったら耐えられないかもしれないぜ?」


何しろ辛い気持ちを共有する相手がいなくなるのだ。

俺だったら、耐えられない。


冗談めかしてニヤニヤと笑いながら言うと、伊織の表情がふっと止まった。


「いなくなる……?」


「ん?ああ、彼女が出来たら俺、構い倒しちゃうかもだしなあ」


実際、自分は尽くすタイプな気がする。

恋人なんて出来たことはないけど。

もしも葵が恋人だったなら、どこまでも大切にする自信がある。


「……まあでも」


考えてみれば、俺と伊織がこの先もずっと一緒にいるなんてことはありえない。

だから俺は、至極当然のことを口にする。


「卒業したらどのみち俺もお前も普通に別々の道を行くだろうし、いつまでも一緒にいられるわけじゃないだろ?」


これは自分への戒めでもある。

いつかは、一人でも平気に思えるくらいにならなければ。


「だから、多少寂しくても我慢を……」


言葉を続けようとして、俺は息を呑んだ。


目の前の伊織が、今にも泣き出しそうなほど悲痛な表情を浮かべていたからだ。


(え……?)


「伊織……?」


なんで。

なんで、そんな顔してんだよ。


さっきの軽口が、ふと頭をよぎった。


――もしかして、本当に。


「……お前、そんなに寂しいの?」


問いかけた瞬間、伊織の眉がわずかに動いた。


「……は? 何言ってるの。そんなわけ……」


否定しかけた声は、けれど最後まで続かなかった。

いつもなら間髪入れずに馬鹿にしてくるくせに、今はなぜか俺から目を逸らしたまま、言葉を濁している。


どうやら、思っていた以上に俺と離れるのが寂しいらしい。

なんだよ。こいつも案外、可愛いところがあるんだな。


「……もし、お前が寂しいって言うんならさ」


「……何」


「恋人が欲しいなんて、もう言わねえけど」


伊織が、弾かれたように俺を見た。


色素の薄い瞳が大きく見開かれる。

ほんの一瞬前まで否定しようとしていたくせに、その顔には、隠しきれないほどの動揺が浮かんでいた。

予想以上の反応に、こちらまで面食らってしまう。


(……へー、ほー、ふーん……)


驚きが過ぎ去ると、胸の奥にじんわりと、こそばゆいような嬉しさが広がっていった。

絶対に誰にも懐かないと思っていた野良猫が、自分にだけ不意に擦り寄ってきたら、きっとこんな気分になるのかもしれない。


「……そんなこと、軽々しく言っていいわけ?」


「ん?」


「それって、オレのために恋人作らないってことでしょ?」


「ん? ああ、まあ……そうだな?」


なんだか少しニュアンスが違うような気もするけれど、概ねそういうことではあるだろう。


「……へえ」


俺の答えを聞いて、伊織はどこか満更でもなさそうに目を細めた。

さっきまでの悲痛な空気はすっかり霧散し、少しだけ機嫌が直ったように見える。

俺はホッと胸を撫で下ろし、へらっと笑ってみせた。


すると、なぜか伊織の表情がわずかに強張った。

何か言いたげに俺を見つめたかと思えば、すぐにふいと顔を背ける。


(……なんだよ)


さっきまで機嫌が直ったように見えたのに。

やっぱり、よく分からない奴だ。



◇


おかしい。

今度こそ、本格的にオレはおかしくなっている。


『いつまでも一緒にいられるわけじゃないだろ?』


絢人の口から、何気なくその言葉がこぼれた瞬間だった。

頭の中が、一瞬で真っ白になった。


別々の道。

いつまでも一緒にはいられない。

あいつに恋人ができれば、今みたいに一緒にいる時間も減って、そのうち卒業して、それぞれ違う道を選んで。


そうしたら、いつか本当に、絢人がオレの前からいなくなる。


――嫌だ。


そう思った自分に、誰よりオレ自身が驚いた。


『……お前、そんなに寂しいの?』


図星だった。

だから咄嗟に否定しようとしたのに、最後まで言葉が続かなかった。


なんで。

どうして。


オレが好きなのは葵だ。

それなのに、絢人がどこかへ行ってしまう未来を想像しただけで、胸の奥を強く掴まれたように息が苦しくなった。


『……もし、お前が寂しいって言うんならさ。恋人が欲しいなんて、もう言わねえけど』


その言葉を聞いた瞬間、今度は別の意味で心臓が跳ねた。


オレのために、恋人を作らない。

たったそれだけの言葉が、どうしようもなく嬉しかった。


そして、その事実に気づいて、ぞっとした。

なんで、そんなことが嬉しいんだ。


ふと顔を上げると、目の前で絢人がいつものようにへらっと笑っていた。

その顔を見ていると妙に胸のあたりが落ち着かない。


だから、逃げるように顔を背けた。


葵以外の誰かがどこへ行こうと、誰と付き合おうと、そんなことはオレには何の関係もなかった。

そのはずなのに、どうして絢人のことでこんなにも感情が乱されるのか。


絢人が泣けば気になる。無理に笑っていれば苛立つ。

恋人が欲しいと言われれば面白くなくて、いなくなるかもしれないと思えば耐え難い。


――ああ、嫌だな。


自分の中の何かが決定的に変わってしまう。

そんな予感が、妙に生々しく胸の奥に居座っていた。


今なら、まだ引き返せる。

今まで通りでいればいい。


だったら、答えは簡単だ。


……少し、距離を置こう。


これ以上あいつのペースに巻き込まれて、自分でも理解できない感情に振り回される前に。


そう決めたはずなのに。

さっき見た絢人の笑顔が、いつまでも頭から離れなかった。

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