第11話 踏み込んだ距離
あれから数日。伊織の様子が明らかにおかしかった。
「なあ伊織、今日の放課後――」
「オレ、用事あるから帰るね」
「えっ、あ、そう……じゃあ、明日――」
「明日も無理。じゃ」
取り付く島もない。
露骨に視線を逸らされ、話しかけても氷のように冷たい一言で切り捨てられる。
三人でいる時こそ葵の前でうまく取り繕っているものの、俺が二人きりで話しかけようとすると、伊織はあからさまに距離を置き、足早に立ち去ってしまうのだ。
最初は「また機嫌が悪いだけか」と流そうとしていた俺も、さすがに数日連続で徹底的に無視され続けると、胸の奥に黒いモヤモヤが溜まっていくのを感じずにはいられなかった。
(なんで急に避けるんだよ……。俺、なんか怒らせるようなことしたか?)
◇
昼休み。
図書委員の集まりで葵が教室を出ていったのを見計らい、俺は席を立とうとした伊織の腕をガシッと掴んだ。
「……伊織、話がある」
「購買行くから離して」
「嘘つけ、いつも弁当だろ!いいから、ちょっと来い」
半ば強引に裏庭へと連れ出した。
「……お前さ、なんで最近俺のこと無視すんだよ」
俺が真っ直ぐに睨みつけると、伊織は面倒くさそうに息を吐き、冷え切った瞳でこちらを見下ろした。
「無視なんかしてないけど」
「してるだろ!話しかけてもすぐどっか行くし、目も合わせねえし……っ!」
「……っ、別に。いつものことでしょ」
「は……?」
「オレ、もともと絢人に興味ないし。今までだって適当に流してたじゃん。それが普通に戻っただけだけど」
淡々と、冷酷に言い放たれた言葉。
その瞬間、俺の胸の奥で、何かが冷たくひび割れるような音がした。
『いつものこと』
確かに、昔の俺たちはそうだった。
葵がいなければ会話すらしない、お互いに興味のないただのクラスメイト。
でも、今は違うと思っていた。
お互いのどうしようもない想いを、痛みを、共有して。
一緒に勉強をして、唐揚げを分けてくれて。
(……なんだよ。俺だけだったのかよ)
せっかくちゃんとした友達になれたと思っていたのに。
あの奇妙で居心地の良かった連帯感も、俺が勝手に思い込んでいただけだったのだ。
そう気づいた途端、腹立たしさよりも先に、どうしようもない悲しさと情けなさが込み上げてきた。
「……そっか。そうだよな。わりぃ、俺の勘違いだった」
ギリッと奥歯を噛み締め、俺は掴んでいた伊織の腕をパッと離した。
泣きそうな顔を見せたくなくて、必死に俯いて顔を隠す。
「お前はただ、葵の隣に俺がいたから仕方なく構ってくれてただけだよな。……変に距離詰めようとして悪かった。もうウザい絡み方しねえから、安心しろよ」
震えそうになる声をなんとか押し殺し、俺は踵を返そうとした。
――その、直後だった。
グッと強い力で腕を掴まれ、強引に引き戻される。
「え……っ?」
そのまま背中を校舎の壁に押し付けられ、顔を上げると、伊織が俺の退路を塞ぐように両腕をつき、至近距離からこちらを覗き込んでいた。
その整った顔には、先ほどまでの冷たい余裕など微塵もない。
「……なんで」
「伊織……?」
「なんで、そんな顔してんの」
伊織は明らかに困惑しているようだった。
俺の顔を食い入るように見つめるその双眸には、いつもの軽薄な雰囲気は一切なかった。
「オレに無視されたの、そんなに辛かった?」
「な……っ」
やっぱりわざと無視してたんじゃねえか!
そう思って睨み返そうとしたのも束の間、伊織の大きな手が俺の後頭部に添えられ、強引にその胸元へと引き寄せられた。
ドンッと俺の額が伊織の肩にぶつかる。
「ちょっ……伊織……!?」
「オレが無視したから?だからそんな顔……」
耳元で、くぐもった声が響いた。
何を当たり前のことを言ってるんだ。
抗議しようと身じろぎする俺を逃がさないように、伊織はさらに強く俺を抱え込む。
「せっかく、面倒だから元に戻そうって、そう思ってるのにさぁ……」
ぼそっと、恐らく独り言であろう言葉が頭上から降ってくる。
面倒だから元に戻す。
つまり、最近俺と仲良くなったのが面倒で、葵がいなければ口も利かなかった元の関係に戻そうとしているということか?
「……お前、そんなに俺と仲良くなるのが嫌なのかよ」
「……うん」
「何で」
「だって、葵だけで良かったはずなのに……」
そこで、ぽつりと伊織の言葉が途切れる。
けれど、その沈黙から真意を推察するには十分だった。
……ようするに。
こいつにとっては葵だけが絶対的に大事だったのに、俺のことも『大事な友達』だと思い始めていると。
そして、その予期せぬ感情の変化が、伊織にとってはひどく煩わしい感情だということなのだろう。
「……別に良くないか?大事な奴が増えるのって悪いことじゃないだろ?」
大事な奴、と自分で言うのはどうかと思うけれど。
自分ではなくても、とにかく伊織は、葵以外に自分の領域へ踏み込んでくる大切な人間を作るつもりはないように思えたのだ。
それは、あまり健全とは言えないだろう。
「……良くない。面倒だし、振り回されたくない」
「だから、オレとはもう関わらないって?」
「それは……」
伊織が僅かに言い淀む。
その微かな隙を、俺は見逃さなかった。
伊織の胸元に顔を埋めたまま、俺は心の底にあった素直な本音をこぼす。
「俺は、最近お前と仲良くなれた気がして、嬉しかったよ」
「……っ!?」
びくっ、と。俺に触れている伊織の身体が、弾かれたように大きく震えたのが分かった。
はっきりと息を呑む気配が伝わってくる。
「だから、お前に無視されてんの、ぶっちゃけかなり辛いぞ」
「……ごめん」
「え……」
まさか、こんなに素直に謝られるとは思わなくて、俺は思わず間の抜けた声を漏らした。
俺の後頭部を押さえつけていた手の力がふっと緩み、伊織の手が俺の両肩へと移動する。
そのままゆっくりと身体が離され、お互いの顔が真正面からぶつかった。
至近距離で見つめ合う伊織の顔は、いつもの完璧な造形が崩れそうなほど、情けなくて、ひどく揺らいでいる。
「絢人を傷つけるつもりは、無かったんだけど」
「友達からあんな露骨に無視されたら、傷つくに決まってるだろ!」
「……うん、そうだよね、そうなんだけど……、オレが無視したからって絢人がそこまで傷つくとは思ってなかったっていうか……」
これまで葵以外の友人がそこまで居なかったのだろう。
伊織は、自分を大切に思う友人がいるという状態に慣れていないのかもしれない。
それに、きっと今のこいつは、葵に対する行き場のない気持ちや、自分自身のことでいっぱいいっぱいなのだ。
それなのに、俺のことまで気にかけろというのは、少し酷な話だったのかもしれない。
「まあ、お前の気持ちは分かったよ」
これ以上、俺がこいつの負担になるわけにはいかない。
「そこまでお前が、どうしても俺と元の距離に戻りたいって言うなら仕方ないよな。だったら俺も、無理には……」
諦めるように少しだけ身を引こうとした、その瞬間だった。
「っ違う!」
俺の言葉を遮り、伊織は焦ったように、すがりつくような強い声で否定した。
両肩を掴む手に、ギュッと痛いほどの力がこもる。
「え?」
「あ、いや……違わないけど……」
「どっちだよ!」
「……自分でも、分からない……」
伊織は酷く混乱したように目を泳がせると、苦しげに眉根を寄せて、ぽつりと呟いた。
その瞳は、いつものような俺を小馬鹿にする光なんて欠片もなく、ただひたすらに戸惑いと熱に揺さぶられていた。
(……でも、それって)
ふと、あの薄暗い路地裏で聞いた、伊織の自嘲気な声が頭をよぎった。
『どうにかして諦めたくて、適当な女の子で気を紛らわせてるだけ』
あんな風に自分をすり減らしていた伊織のことを思い出して、俺は口を開いた。
「……お前さ、葵を諦めようとしてたから色んな子と遊んでたわけだろ?」
「え……?」
予想もしない方向から話が飛んできたのだろう。
伊織はパチリと目を丸くした。
俺は真っ直ぐに伊織の目を見返して続ける。
「それってつまり、葵を忘れさせてくれるような他の誰かを探してたってことじゃん。だったら、良いんじゃないか?葵以外に大事な人が出来たってさ」
「……っ!?」
伊織が、弾かれたように息を呑む。
「あっ!別に!俺を大事にしろって話じゃなくてだな!?」
俺は慌てて両手を振り、伊織が勘違いをしないように早口で付け足した。
「ようするに……、もっと色んな人と仲良くしたって良いだろって話だよ。お前、いっつも葵ばっか見てて視野狭くなってっからさ」
慰めるようにおどけて言うと、伊織は呆然としたように俺をじっと見つめた。
やがて、心底面倒くさそうに、けれどどこか全ての葛藤から吹っ切れたように、深いため息を吐き出す。
「……はぁ。絢人ってさあ、ほんと、信じられないくらいおせっかいだよね」
「なっ、なんだよ!せっかく慰めてやってんのに!」
「あーあ……、なんか、勝手に一人で悩んでたオレが馬鹿みたい」
そう言うと、伊織はそれまで張り詰めていた空気をふっと緩めた。
どこか投げやりな、けれどひどく甘い声。
次の瞬間、伊織はそのまま体重を預けるように、俺の肩に深く顔を埋めてきた。
「ひゃっ……!?お、おい伊織……っ!」
「うるさい。振り回されて疲れたから、ちょっと黙ってて」
「いや、ち、近いって……!」
「何?オレに『色んな人と仲良くしろ』って言ったの、絢人でしょ。なら、これくらい我慢してよ」
有無を言わせない強引な声。
ずしりと重い体重を預けられ、俺の肩口に押し付けられた柔らかな金髪が首筋をくすぐる。
「……っ!」
制服越しに伝わってくる、確かな熱。
普段、こんな風に至近距離で他人の体温を感じることなどないのだ。
なんだかどうしようもなく気恥ずかしくて、顔にじわじわと熱が集まってくるのが分かる。
心臓がバクバクと五月蝿く鳴るのを必死に誤魔化しながら、俺は抗議するように身じろぎして逃れようとした。
けれど、背中に回された伊織の腕は思いのほか力が強くて、ビクともしない。
俺のささやかな抵抗も虚しく、結局そのまましばらくの間、甘い香水の匂いがする伊織の腕の中に、逃げ場のないままきつく抱きすくめられていた。




