第12話 テリトリー侵食中
言った。
確かに、言った。
葵以外に大事な人が出来たって良いと。
けど。
――翌日の昼休み。
「……おい伊織。お前、近すぎだろ」
「んー?オレは絢人の言う通り、視野を広げる努力をしてるだけだけど」
俺の抗議を涼しい顔で受け流しながら、伊織は当然のように俺の肩に顎を乗せていた。
ただでさえ距離が近いのに、伊織の長い腕が背もたれ越しに俺の腰へ回されていて、傍から見ればほとんど抱き着かれているような体勢だ。
甘い香水の匂いが鼻先を掠め、耳元で響く低い声にゾクッと背筋が粟立つ。
「努力の方向性がおかしいだろ!つーか重い!離れろ!」
「やだ。オレの『大事な友達』なんだから、もっと仲良くしようよ」
耳元で意地悪く囁かれ、顔が一気に熱くなる。
こいつ、絶対に俺が嫌がって焦るのを楽しんでやがる……!
「おまっ、そういうのは女の子にやれよ!ベタベタすんな!」
「女の子にやったら勘違いされちゃうじゃん。絢人はオレが葵を好きだって知ってるんだから、絶対勘違いしないでしょ?」
しれっと分かるような分からないような理屈を並べ立てながら、伊織の指先が俺の襟足の髪をくるくると弄り始める。
首筋に触れるひんやりとした指の感触に、心臓が馬鹿みたいに五月蝿く跳ねた。
今まで葵にだけ向けていたあの異常な過保護と執着のエネルギーが、なぜか今、そのままスライドして俺に向かってきている気がする。
「……ふふっ、二人とも、本当に仲良くなったねえ」
向かいの席で弁当箱を開けながら、葵がニコニコと嬉しそうに目を細めた。
「葵!違う!これは仲が良いんじゃなくてだな……っ!」
「絢人、顔真っ赤だよ?伊織にからかわれてるね」
「からかわれてないよ。オレはすっごく真剣に絢人を大事にしてるんだけど」
俺の肩に顎を乗せたまま、伊織が葵に向かってしれっと言い放つ。
嘘をつけ、絶対に面白がってるだけだろ!
ジタバタと身をよじって逃れようとするものの、伊織の腕は思いのほかガッチリと俺を捕まえていてビクともしない。
結局、昼休みのチャイムが鳴るまで、俺はずっと伊織の体温と甘い香水の匂いに包まれたまま、疲労困憊で心臓をすり減らす羽目になったのだった。
◇
伊織の『努力』とやらは、その日だけで終わることはなかった。
数日後の放課後。
日直の仕事を終えた俺が、同じクラスの女子に話しかけられていた時のことだ。
「桃野江くん、この後のプリント整理、手伝ってくれない?」
「おっ、いいよ。どこ運べば———」
「ごめん、こいつオレと用事あるから」
背後からスッと伸びてきた腕が、俺の肩を抱き寄せる。
振り返るまでもない、甘い香水の匂い。
声をかけてきた女子生徒は伊織の笑顔に対して少し顔を赤らめながら「あ、そ、そうなんだ!うん分かった!」と言って、走り去って行く。
「……おい伊織。急に何のつもりだよ」
「なに?絢人、あの子の手伝いしたかったの?」
「そういうことじゃなくて!」
「別にいいでしょ。絢人みたいな馬鹿がお人好し発揮して、都合よく使われないように防波堤になってあげたんだから。感謝してよね」
相変わらずの減らず口を叩きながら、伊織は俺の肩に回した腕を全く離そうとしない。
それどころか、俺の首元にすり寄るようにして、さらに体重をかけてくる。
「いや、だからってあんな言い方……つーか、離れろ!だいたい用事ってなんだよ」
「これから一緒に駅前のカフェに行く」
「そんな約束してねえだろ!」
「今した」
「最近お前、マジで距離感おかしいぞ!?」
俺が文句を言っても、伊織は涼しい顔をしたままだ。
「おかしくないけど。オレは絢人っていう『大事な友達』と絆を深めてる真っ最中なわけ」
「絆を深めることとベタベタすることは違うだろ!離れろ!」
「やだ」
即答だった。
悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうに目を細める伊織に、俺はぐっと言葉を詰まらせる。
こいつ、俺が「友達だろ」と言ったのをいいことに、やりたい放題すぎる。
なんでこんなに俺にひっついてくるんだ。
まあ、きっとただ単に、俺という『傷を舐め合う都合のいい相棒』を見つけて、からかって遊んでいるだけなんだろうけど。
「ほら、行くよ。絢人」
「ちょっ、引っ張んなって……!」
結局、俺の抗議はいつものようにあっさりと流され、伊織に腕を引かれるがまま教室を後にする羽目になった。
◇
駅前のカフェ。
窓際の席に向かい合って座ると、伊織は頼んだばかりのアイスティーのストローを咥えながら、気怠げに窓の外を眺めていた。
さっきまでの強引な態度はどこへやら。
すんっ、と澄ましたその横顔を見ていると、俺の中でふつふつと文句が湧き上がってくる。
「……なあ、お前まじでおかしいぞ」
「なにが?」
伊織は視線を外に向けたまま、悪びれもせずに聞き返してきた。
「俺に対する態度だよ!一日中ベタベタベタベタしやがって……!」
周りの客に聞こえないよう、身を乗り出して声を潜めながら抗議する。
すると、伊織はようやくこちらに顔を向け、頬杖をついた。
「嫌なの?」
「当たり前だろ!」
一日中くっつかれているんだ、気まずいに決まっている。
俺が即答で睨みつけると、伊織はわずかに目を細めて「ふーん」と息を吐いた。
「でも、諦めてよ」
「は!?」
「だって、離れようとしたオレを追いかけてきたのは絢人じゃん」
「っ……!?」
伊織の口から飛び出した言葉に、俺は息を呑んだ。
あの裏庭での出来事がフラッシュバックする。
確かに、強引に問い詰めたのも、葵以外も大事にしろとも言ったのも、全部俺の方だった。
「絢人が無理やりオレのテリトリーに踏み込んできたんでしょ。……だから、もう諦めてよ」
「そ、それは……っ」
『友達として』元の距離に戻りたくなかっただけで、別にこんな風にベタベタしたかったわけじゃない。
そう言い返したいのに、言葉がうまく出てこない。
俺が自分の失言(?)を盾にされて言い淀んでいると、伊織はひどく満足そうに、意地悪な笑みを唇の端に浮かべた。
「嫌なら、今からでもオレのこと突き放せば?また無視してあげるけど」
「〜〜っ、ずるいだろ、それ!」
そんなことできるわけがないと分かっていて言っているのだ。
完全に退路を断たれ、俺が顔を真っ赤にして黙り込むと、伊織はふはっ、と楽しそうに声を出して笑った。
「絢人ってほんと、扱いやすいよね」
「お前なぁ……!」
悔し紛れに睨みつけても、伊織は痛くも痒くもないといった様子でアイスティーを飲んでいる。
結局、俺は自分の撒いた種のせいで、伊織の理不尽なスキンシップを全面的に受け入れるしかなくなってしまったのだった。
「……っつーかそもそもお前、俺なんかにひっついて本当に楽しいか?」
呆れ半分でそうこぼすと、伊織はストローから口を離し、面白そうに目を細めた。
「え、楽しいけど?」
「……意味わかんねえ……」
俺は心底理解できないという顔で、目の前の端正な顔を睨み返した。
俺は葵と違って小さくも可愛くもない。
伊織の方が少しばかり背は高いけれど、体格差だってほとんどないのだ。
こんな、特に柔らかくもない固い身体にくっついたところで、一体何が楽しいというのだろうか。
「だいたい、今まで女の子たちと遊んでたんだろ。それに比べてむさい男の俺なんかじゃ……」
「絢人の方がいい」
「は?」
伊織はさらりととんでもないことを言ってのけた。
「絢人は体温高いし、冬にちょうどいいんだよね」
「はぁ?!俺はカイロじゃねえ!」
「それに……」
伊織がすっと妖しく、目を細める。
「ちょっとしたことでビクビクするから、面白いよ。特に首とか、ね?」
「んなっ……!?」
こ、こいつ!
なんてこと言いやがるんだ!
カッと顔中の血が沸騰したように熱くなり、俺は思わず両手で首元を隠すように押さえた。
「うわ、真っ赤。ゆでダコみたい」
俺の過剰な反応がよほどツボに入ったのか、伊織は悪びれもせずくすくすと肩を震わせて笑った。
女の子たちを次々と落としてきたであろうその無駄な色気と手管を、俺相手に嬉々として使ってくるんじゃねえ!
そう思いつつも、その意地悪ながらも心底楽しそうな顔を見ていると、まともに怒る気力すら削がれていく。
結局、俺は文句を言いながらも、こいつを強く突き放すことができずにいた。
◇
カフェを出ると、すっかり日は落ちていて、冬の冷たい風が容赦なく頬を撫でた。
「うっ、寒……」
思わず首をすくめて身震いした俺の隣で、伊織が当然のような顔をしてすっと距離を詰めてくる。
そして、俺のコートのポケットに、自分の右手をぞんざいに突っ込んできた。
「なっ!?お前、何して……」
「寒いから。カイロの役目、ちゃんと果たしてよ」
「だからカイロじゃねえって!」
文句を言いながらポケットの中で伊織の手を押し返そうとするが、伊織の長い指が俺の指の間に滑り込み、絡みつくようにしっかりと握り込んできて、びくともしない。
くそ…っ、意外と力があるんだよなこいつ……。
すらりと線が細いように見えて、その身体は思いの外ガッシリとしている。
っつーか、なんで手を繋いでくるんだ!絶対おかしいだろ……!
すれ違う人たちの視線が気になってハラハラする俺をよそに、伊織はどこ吹く風といった涼しい顔で歩き出してしまう。
「ほら、帰るよ」
「ちょっ、引っ張んな!」
コートのポケットの中で手を繋がれたまま、半ば引きずられるようにして街を歩く。
こんなの、どう考えても『ただの友達』の距離感じゃない。
けれど、俺の体温を奪っていく伊織の手は、見た目に反して少し冷たくて。
それを無理やり振り払うことができない俺は、やっぱりどうしようもなくお人好しな馬鹿なのだろうと思った。




