第13話 薄れる痛み
翌朝。
教室の扉を開けると、そこにはすでにバグり散らかした『日常』が待ち構えていた。
「あ、絢人。おはよ」
「うわっ……おま、朝から近っ!」
自分の席に着くや否や、真後ろの席の伊織が身を乗り出してきて、俺の背中に覆い被さるように抱きついてきた。
「重い重い!離れろって!」
「えー?朝の挨拶じゃん。オレたち友達なんだから、スキンシップは大事でしょ?」
「ひっ……!だ、だからって首筋に顔埋めんなって!おい!くすぐったいんだよ!」
周囲のクラスメイトたちが「あいつらあんなに仲良かったっけ……?」とチラチラこちらを見ているが、伊織は全く気にする素振りを見せない。
それどころか、クラスメイトが話しかけてくる間も、伊織は俺の肩に顎を乗せたままだった。
「なあ、桃野江。この間借りた漫画なんだけどさ」
「ん?ああ、あれ面白かっただろ?」
「めちゃくちゃ面白かった!続きも……、っと、また今度で良いや、じゃあな」
「へ?」
男子生徒はどこかいたたまれない様子で去っていく。
原因は、考えるまでもないか。
「おい、伊織。お前今……あいつのこと睨んでなかったか?」
「ん?見てただけだけど」
「お前が見ると!圧が!すごいんだよ!なんか最近俺が他の奴と話すの、邪魔してねえか?」
俺が振り返ると、伊織は悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうに首を傾げた。
「……絢人に変な虫がつかないように見ててあげてるだけだけど?」
「クラスメイトを虫って言うな!」
俺が小声で声を荒らげると、伊織はふっと妖しく目を細め、逃げられないように俺の肩を強く引き寄せた。
そして、耳元に直接触れるほどの距離で、甘く低い声で囁く。
「……絢人って誰にでもすぐ尻尾振るでしょ?だからさ、オレがちゃんと『首輪』つけといてあげないと心配なんだよね」
「く、首輪……っ!?」
冗談めかした口調だったけれど、その色素の薄い瞳の奥にはぞっとするような熱が孕んでいる気がして。
ただのからかいだと笑い飛ばしたいのに、背中にぴったりと張り付く伊織の体温と、首元に触れる指先の感触が、俺の思考をぐちゃぐちゃにかき乱していく。
(こいつ、冗談で言ってるんだよな……?)
そうだ、きっとそうに違いないと、俺は無理やり自分を納得させた。
◇
「じゃあ、また後でね!」
休み時間が終わり、無邪気に手を振って自分の席へ戻っていく葵の背中を、俺はぼんやりと目で追っていた。
(……やっぱり可愛いなあ。どうしてあんなに可愛いんだろう)
たとえ振り向いてもらえなくても、見ているだけで胸がぎゅっと締め付けられる。
そんな未練たらしいことを考えていた時だった。
「……相変わらず、分かりやすい顔してるよね」
隣から降ってきた呆れたような声に、ビクッと肩を揺らす。
見ると、伊織が頬杖をつきながら、全てを見透かすような目でこちらをじっと見つめていた。
「な、なんだよ」
「べっつにー?」
口ではそう言いながらも、伊織はどこか不機嫌そうに目を伏せた。
◇
授業が終わり、後ろから声が聞こえてきた。
「ねえ、絢人」
「ん?」
振り返って伊織を見ると、頬杖を付きながらさらっととんでもないことを言いはじめた。
「絢人ってさ。結局、葵のこと諦めるの?諦めないの?」
「え……っ」
いきなりの直球に、言葉に詰まる。
諦められたら苦労はしない。それは、伊織だって同じはずだ。
なのに、どうしてそんな意地悪なことを聞いてくるんだ。
「……お前は、どうなんだよ」
反撃するように問い返すと、伊織は少しだけ目を丸くして「オレ?」と自分を指差した。
「お前だって、そう簡単には諦められないだろ?」
俺が睨みつけるように言うと、伊織は少しの間だけ視線を宙に彷徨わせ、「うーん、そうだね」と静かに呟いた。
「葵のことは、ずっとこれからも守りたいって思ってるよ」
その言葉を聞いて、俺はほっと息を吐き出した。
あんなに大事にしていた葵への想いが、そう簡単に消えるはずがない。
伊織が元の伊織のままでいてくれたことに、謎の安堵を覚えた。
「だ、だよな。だから俺も――」
「でも」
言いかけた俺の言葉を、伊織が静かに遮る。
「前ほど、辛くはないよ」
「え……」
「だって今は……絢人がいるからね」
伊織の双眸が、真っ直ぐに俺を射抜く。
その静かで、けれど確かな熱を帯びた言葉に、俺はドクンと心臓を大きく跳ねさせた。
……同じだ。
俺も同じなのだ。
葵の恋愛話を聞く時の、あの胸の奥が軋むような絶望的な痛みが、最近では随分と薄れているのを感じていた。
理由としては、間違いなく伊織の存在が大きかった。
最近の距離感バグには正直かなり困惑しているけれど。
それでも、こうしてお互いの開いた傷口を塞ぎ合える関係は、どうしようもなく有難かった。
「……そっか。俺もだよ」
照れ臭さを誤魔化すように、俺は小さく笑って返した。
いずれ、葵への想いを忘れられる日が来るかもしれない。
そう思えるくらいには、最近そこまで落ち込んだ記憶がないのだ。
むしろ、1番落ち込んだのは、伊織に露骨に無視され始めたあの数日間がピークだったかもしれない。
と、そこまで考えて、その事実に驚いた。
葵から恋の進展を聞かされることよりも。
伊織から拒絶されたことの方が、ずっと俺の心を抉っていたのだ。
(……まじか)
もしかしたら俺は、自分で思っている以上に伊織を頼りにしているのかもしれない。
「……どうかした?」
「な、なんでもねえよ!」
なんとなく気まずい気持ちになり、怪訝そうに覗き込んでくる伊織から顔を背けた。
◇
(……そういえば)
顔を逸らしたまま、ふとあることに気がついた。
俺に構ってくるようになってから、伊織が他の女の子と一緒にいるところをパッタリと見なくなった気がする。
以前は、とっかえひっかえ女の子たちと遊んでいたはずなのに。
休み時間も放課後も、伊織は気づけば俺の隣(というか、ほとんどゼロ距離)にずっといるのだ。
「……お前さ」
「ん?」
「最近、女の子と遊んでないのか?」
気になって尋ねてみると、伊織はぱちりと目を瞬かせた後、ふっと妖しく唇の端を上げた。
「遊んでないよ。今は絢人が相手してくれてるし、必要ないかなって」
「お前な、俺を女の子の代用にするなよ」
「?代用なんてしてないけど。前も言ったじゃん、絢人の方が良いって」
さらりと落された言葉に、頬がカッと熱を持つ。
(……っ、こいつマジで心臓に悪い……!)
これ以上こいつのペースに巻き込まれるのは危険だ。
俺は変なボロを出さないように、「寝る!」と言って机に突っ伏した。
◇
午後の体育。種目は男子合同のバスケットボールだった。
「桃野江、こっち!」
「おうっ!」
クラスメイトからのパスを受け取り、ディフェンスを抜いてゴール下へ走り込む。
勢いよく踏み切ってレイアップシュートを放ち、ボールが綺麗にネットを揺らした――直後だった。
着地の瞬間。すぐ後ろにいた他クラスの男子の足の上に自分の足が乗ってしまい、ぐきり、と嫌な音が鳴った。
「いっ……!?」
バランスを崩し、俺はそのまま床に激しく倒れ込んだ。
「絢人!?」
近くのコートにいた葵の焦った声が響く。足首から走る鋭い痛みに顔をしかめ、どうにか起き上がろうとした、その時だった。
「――動かないで」
誰よりも早く俺のそばに膝をついたのは、さらに遠くのコートで試合をしていたはずの伊織だった。
「か、なめ……」
「どこ。右足?」
底冷えするような低い声。伊織は俺の右足首をそっと確認すると、小さく息を吐いた。
「あ、ごめん桃野江!俺が足出しちゃってて……!」
接触した他クラスの男子が慌てて駆け寄ってくる。
伊織はそいつをチラリと一瞥し、「……次から気をつけて」とだけ返した。
温度のないその声に、相手の男子は少しだけ怯んだように肩をすくめた。
「おい桃野江大丈夫か?!歩けるか?」
「あ、先生……歩くのはちょっと……。……っ!キツそうです……」
「そうか、保健委員の確か……松田!お前、肩貸してやれ!」
教師のその言葉を聞いた伊織は、俺の腕を支えていた手をピタリと止めた。
「……先生、オレが付き添います」
「駄目だ。お前は授業中に戻れ。付き添いは保健委員の仕事だ」
「……分かりました」
保健委員の松田が急いで駆け寄ってきて、俺の腕を自分の肩に回させる。
伊織はすっと身を引きながらも、名残惜しいと言わんばかりの顔をしている。
「心配してくれてありがとな伊織」
「うん……。お大事にね、絢人」
俺は保健委員の松田に肩を貸してもらい、体育館を後にすることになった。
◇
保健室に辿り着くと、松田はすぐに授業へと戻っていった。
代わりに保健室の先生が手当てをしてくれ、丸椅子に腰掛けて湿布を貼ってもらっているところで、体育の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「軽い捻挫だから、今日は無理しないでね」
「はい、ありがとうございます」
先生にお礼を言った直後。
ガラッ!と勢いよく保健室の扉が開いた。
「絢人!」
そこに立っていたのは、少し息を弾ませた伊織だった。
いつも涼しい顔をしている伊織が、珍しく焦ったような、余裕のない表情をしている。
「伊織……お前、走ってきたのか?」
「……足、どう?」
伊織は先生に軽く会釈をすると、まっすぐに俺の座る椅子の前まで近づき、しゃがみ込んで湿布の貼られた右足首を覗き込んだ。
その色素の薄い瞳には、隠しきれない心配の色がはっきりと浮かんでいる。
「大したことねえよ。軽い捻挫だって」
「……ほんとに?痛くない?」
「ちょっとズキズキするけどそのくらいだよ。そんな深刻そうな顔すんなって」
俺が笑って言うと、伊織はふうっと深く、心底安堵したようなため息を吐いた。
「よかった……。心臓が止まるかと思ったんだからね」
そう言って、伊織は俺の足首の少し上のあたりに、そっと触れる。
その手はいつもより少しだけ温かくて、俺の怪我を本気で心配してくれていたことが真っ直ぐに伝わってきた。
大袈裟だと思いつつも、俺を気遣うその気持ちが嬉しかった。
「……わりぃ。心配かけたな」
素直に謝ると、伊織は少しだけ困ったように微笑んで、俺を見上げた。
昔の、誰に対しても無関心だった頃の伊織からは想像もつかないくらい、俺に向けられる感情が温かくて。
痛む足とは裏腹に、俺は胸の奥がじんわりと満たされていくのを感じていた。
◇
「絢人!大丈夫!?」
バタバタと慌ただしい足音と共に葵が保健室に飛び込んでくる。
「葵!お前も来てくれたのか」
「当たり前だよ!伊織が早すぎて全然追いつけなかったけど」
息を切らす葵を見て、伊織は俺の足首から自然に手を離し、立ち上がった。
「じゃあ、教室に戻ろっか。絢人、立てる?肩貸すよ」
伊織が俺の腕を自分の肩に回させ、腰を支える。
「あ、俺も逆側貸すよ!」
葵が駆け寄ってこようとしたが、伊織は優しくそれを制した。
「駄目だよ。絢人が体重かけたら、葵が潰れちゃうでしょ?」
「そ、そんなに小さくないよ!」
むっとする姿がとても愛らしい。
……というか、待てよ。
葵が俺を支えるということは、つまりはこの可愛い生き物とかなり密着するということで……。
……無理っ!
「ありがとな葵、でも、伊織だけで十分だから!」
顔がカッと熱くなり、俺は慌てて葵の申し出を遠慮した。
そんな俺の様子を見た伊織が、腰を支えている手にぐっと力をこめてくる。
「いっ……!?あ、あの、伊織サン?ちょっと力が強いかなー、なんて……」
「ああごめんね。つい」
「つい?」
ニコリと完璧な笑顔を浮かべているものの、その声はどこか冷ややかだ。
俺が葵を意識して赤面したことがバレバレだったらしい。
(いくら葵が大事だからって、そこまで機嫌悪くなることないだろ……!)
結局、俺は伊織にがっちりと腰を抱え込まれたまま、共に教室へと戻ることになった。




